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何とか仕事の目途が立てば、お礼参りとか成田に札を返しに行く予定だったが、このままではそれも難しいということになった。もう少し必死で探す必要があるのかもしれない。もちろん、仕事をだ。さすがに、こちらが力仕事でもと言っても、相手が断る。それは期待していないということなのだろう。事実、膝が痛かったりするのだから、向こうの方がよく知っているというわけだ。

あまりに先のことを考えても埒が明かないのは事実だが、それでも見つかったら、という前提で先のことを考えざるを得ない。生きているわけだから。何度か書いたように仕事が見つかったらという前提でせこい買い物をいくつかした。これらは、仕事が順調に行くための小物なのだった。タブレットなどが大きな方だが。まだ、欲しいものはあったのだが、ちょうど今が新製品が出る前だというのですんでの所で買うのを待つことにした。「群を抜く」とかいう言葉に弱い。そういうディスプレイなら使ったみたいと思うのだった。

ほとんどの場合、何か妥協することになるので、すんなり買うことはまずないのだが、それでも心が揺り動かされるのが楽しい。そんな中でいいものを買えたりしたら、うれしい。

お礼参りの線は、時期的に遅いので、春に回すにして、成田行きは実現させたいがどうなることやら。仕事があれば、スケジュールが難しいし、フリーの身ならば、費用が難しい。やはり、いろんな思いを残して脱出した東京だけに、もう一度、ちゃんとしたお別れがしたいという思いがある。

といって二度と行かないというわけではない。何度か行くと思うのだが、何というか、けじめの問題だろう。逃げるようにというか、ケツの毛までむしられ、追われるように脱出した東京なのだから。今でも柴又亭の頃のことがフラッシュバックすることがある。もう、1年にもなるのに!
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職業浪人を決め込んで、既に1年と半年になる。さすがに仕事が恋しい感じだ。暇だから楽でいいかというと、そんなことはないと断言したい。もっとも、東京で仕事があれば、また行くかというとそれもない。たまに行くのならいいが、ずっと住むことはあり得ない。

これまで何度も挫折し、夢破れてきた。ここまで落ちぶれると、復活する日はあるのだろうか、と不安になることもしょっちゅうだ。2年前などは、友人たちが心配してメールしてくれていた。いや、本当にあの時は危なかったのだ。アロマで何とかしのいだが、浪人時代以来のピンチだった。

やはり、社会に何らかのかかわりを持ちながら生きてなんぼだと思えた。東京に住んでいたら、脱原発の運動をしながらの仕事の日々があったと思う。私の場合、仕事が先に無くなって、撤退を余儀なくされた。普通は、仕事があるにもかかわらず、東京を脱出するというパターンだ。移住の地で苦労するのは同じくらいかもしれない。年齢にもよるのだが。

年齢のせいだと思うが、私の場合もなかなかバイトすら見つからず、苦労している。東京でいかに派手な仕事をしていようが、こちらでは、ただの年老いたおっさんなのだ。しかも、無能な。確かにこれではキツイだろう。営業もしてみたのだが、やる気のない公務員にはウンザリした。そういうシステムになっているので、公務員を責めても無駄なのだろうが。

川内が再稼働されると岡山も直接標的となる。過酷事故の際は、棄民となるということだ。そういうことも視野に入れて仕事を探し、生きていかなければならないということ。それを思うと、仕事を探す日々もなかなか厳しい。月曜日が来ても、少しも心は晴れないのだ。

元気づけに買い物をしても心は晴れることはない。ただ、小さなものを買えば、まずまずだということは実感している。カメラでもタブレットでも。小さいものはあるが、なかなか精巧なものは無い。
お歳暮と言っていいのかどうか、わからないが、京都時代からの仕事仲間から漬物が届いた。お礼の電話でしばらく話し込んだ。

京都も既に5年は行っていない。4年前、引っ越し時、いい加減な予定を立てて結局キャンセルしてしまったのが悔やまれる。これもまた運命なのだが。体調が悪く、京都時代のことを思い出していただけに懐かしいというか、遠い過去に引き戻されたような気がした。しかし、世の中は何も変わっていない。京都の街並みも様変わりというほど変わってはいまい。多少の建物増加はあったろうが。

私も行きたいのだが、京都の宿がなかなか決まらず、いつも計画倒れしてしまう。高野にあった、ホリデーイン京都が私の定宿だったのだが、今の時代には生き残れない体質だったのかもしれない。食堂がいいわけでもなく、部屋がいいわけでもない。場所が便利でもない。ただ、雰囲気のいいところにあったということだ。私は京都に住んで見ていたので、迷わずこの宿を訪れていた。夜は、京都の民家が直接見れるなど、本当にいい所だった。のぞきではないのだが、庶民の暮らしが見えるのはすごいことだった。

今でもどこかにあるのかもしれないが、そこまで余裕が無いので探すことはできていない。今の私には、京都よりも東京行きだろう。また、来年、何かの展開が見られたら行くことも検討したい。京都は私の青春でもあった。
それほど重いものではないのかもしれないが、原発をめぐっては、そんなものがあるように思っている。裏切れば、死が待つのみという掟だ。あまり、現実的ではないと思えるのが、存在意義だろう。誰もが、そこまでは無いだろうと思うのが付け目なのだ。

逆にそういうことが無ければ、ここまで大事にはならなかったのではないか。鹿児島での茶番劇のように、明らかにおかしいことが、現実に決められて、実行されようとしている。こっそりではなく白日の下で行われているのだ。

フクイチが起きたのは、検察のせいでもある。検察も協力して佐藤栄佐久知事を撃ち落としたのであった。強引な拷問的な取り調べで関係者は自殺したり、自殺未遂で植物人間状態だという。そうまでして、フクイチを守り、そして事故が起きた。事故どころか、隠ぺい工作も行われている。

捕まらないのであれば、殺人も殺人ではなくなる。「処理」あるいは「処置」として済まされるだろう。だから、政治家、公務員はあっさりと掟に従い、未来のことは無視する。周辺住民のことなど眼中には無い。仲間だとも思っていない。

井戸川氏の言っていた「公務員の劣化」とはこういう所にも現れているのだろう。昔なら異を唱えた人もいたろうが、今では血の掟もあるし、あえて異を唱えることはしないのだ。何の得がある?ということだろう。井戸川氏の時代には考えられない行動なのだろう。もちろん、私の時代でも考えられない。たぶん、私と同じ世代の人間が悪さをやっているのではないか。

どうなるかはわからない。しかし、仮に市民派が優勢になった時、容赦されないのではないか。この国ではかつてないほどの虐殺が行われる可能性もある。誰もが、それなりの幸せな一生を送ることのできる国家、それがこの島国の宿命。それでなければ意味が無い。今は、それが激しく狂っている。
依然、体調は良くない。頭痛も少しある。今日はちょっと出る用事もあるのだが、行けるかどうか。

そのせいか、何と京都時代のことが思い出された。本屋でバイトをしていたのだが、そこでいろんなことがあった。今でもメールだけだが、付き合いのある友もいる。女性関係はろくなことが無かったが、それでもほんわか楽しい思い出もあった。

当時の私も好きな相手を好きになるという感じで、はたから見れば、全く可能性の無いような相手に行ったりしていたようだ。だから、横から私に好意を持たれても目に入らない。そんな経験があった。仕事をしつつ、毎日が悩みの日々だった。何かしっくりとくる仕事をしたい、勉強もしたい、彼女も欲しい、しかし、お金が無い。

当時では贅沢であった、風呂の付いたアパートに引越しを決めたあたりから私の生活も少し変化があった。忘れていたのだが、この頃、原付の免許もとっていた。どこへ試験を受けに行ったのかも覚えていない。太秦まで毎日通っていたのでバイクは必要だった。ただ、危険を顧みないのならば、自転車でも行ける。

食事がワンパターンになり、困っていたのもこの頃だ。今ほどコンビニは無く、すぐに食べられるものを買う店は多くはなかった。王将は有名だったが、あまりに食べ過ぎて当時は欲しくなかったように思う。それまでは、極上の食事だったのだが。

私としては、新しい拠点を中心に何かをやろうとしていた。それにはまず収入ということでバイトに精を出す日々だった。ただ、これもなかなか厳しく、余裕のあるようなお金は得られるはずもなく、いつ辞めるのかを考える毎日だった。

そんな生活が突如として終わりを告げたのは、父の病気だった。直前に無職となっていた私は、田舎に帰り様子を見ていた。まだ、起きて話せる状態であったが、母は全てを悟り泣く日々だったようだ。今の生活があるのは、父の存在があってこそだと思い、私は田舎に帰ることにしたのだった。

それから一週間後、私は田舎にいた。一週間で引っ越しの準備や手続きを済ませて帰ってきたのだった。当時も持ち物の大半は本で後はろくなものが無かった。友人も引っ越しの手伝いに来てくれた。残念だったが、京都とはこれでお別れだった。根拠は無かったが、父のことが無ければ、私は京都でまだまだがんばるつもりだった。これは、東京を離れた時と似ている。311が無ければ、私もまだ東京でがんばっていたと思う。

夕方だったと思うが、京都を離れた日のことをまだ覚えている。バスの中の夕陽がやけにまぶしかったから。京都からは、1時間ちょっとだったと思うが、そんなに遠く感じられない距離だった。そこは東京とは違う。私は、もっと地に足のついた仕事をやりたいと思ったものだった。

岡山での数年間も夢破れ、すぐに東京に出てしまう私だった。単に、仕事が東京だったというだけのことだが、私の覚悟は悲壮感に満ちたものだった。というのも、上記のように、京都を去る時の心細かったことといったらなかったので、今度こそ、地に足のついた仕事を身に付けたいと思っていたからだ。場所も場所だし、やるべきことも私には未知なことが多く、自信を持っているわけではなかった。

東京での日々は、多くは書き残してはいないが、いつかまとめて書く方がいいように思う。江戸川区に住んでいた頃、葛飾区へ移ってからを中心に書けば、わりと思い出すかもしれない。今では遠い昔のようだが、まだ20年も経っていない最近のことだ。運動ができなかった日々だという気はする。

まだまだ大きな変化はあるかもしれないが、当分は冬の時代を過ごすしかないかなと今は思っている。東京での仕事のようなことがこちらでできれば、そうでもないのだが、こちらではそんな仕事は皆無なのだ。もっとも私が起こせばいいのだが。それでも、明るく、素直に、温かくでがんばろう。
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