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先日、高校時代の恩師に仕事の成果である、電子辞書を贈った。日本史の先生と英語の先生だ。どちらも今の私があることに重要な存在だったのでいつか、目に見える形でお礼がしたかった。みんなで作った歴史事典が入っているので、この機会に贈ったのだった。
英語の先生からは、すぐに丁寧な礼状が届いたが、日本史の先生からはずっとなかった。帰省していた間にその日本史の先生からの礼状が届いていたのでほっとした。両先生とも電子辞書には抵抗があるみたいだ。ただ、せっかくの贈り物なのでこれを機会に使ってくれるようだ。先生に私たちが作ったデータを見てもらうのが何となく気恥ずかしい感じがする。
英語の先生は、文字通り英語を教わったのだが、浪人も2年目の時だった。高校の現役時代は、学年が違うので教わることはなかった。当時から、カッチリした教え方と力強い語り口には驚嘆したものだが、現在も朝早くからウォーキングをするなど大病をしたとは思えないほどの元気ぶりだ。
私にしてみれば、英語の先生から英語は教わったが、むしろもっと大事なものを教わったような気がしている。頑なな私の心をゆっくりと解きほぐしてくれた人なのだ。母と同い年だから、当然くらいの余裕があったかもしれないが、とにかく私のやる気というものを買ってくれていた。点数というよりもやる気を買ってくれていたのだった。そこに私は惚れ込んだのだ。他の教師は、受験でもあるし、決して点数と離れた会話などあり得なかったのだ。
結果的には、すべての大学に不合格になった私だったが、先生は励ますことしかしなかったのだ。私立大学にすべて落ちて、本命に受かるとは思わなかったと思うが、私は先生の姿勢に感謝していた。合格できないことは、自分が一番よくわかっていたことなのだから。私は、誰かにやる気があるのだということを認めて欲しかったのかもしれない。
日本史の先生は、逆に現役時代から日本史を教わっていた。浪人して2年目にまたお世話になったということだ。現役時代も浪人時代も日本史ではロクな点数をとったことがない私だったが、今でも先生の授業が思い出されるくらい強烈な印象を持っている。それだけ、納得するように説明してくれていたということだ。
当時の私は、高校の参考書から離れられず、何でもいいので歴史の本を読むということをしなかったので先生の授業はほとんど理解していなかったのだが、今でもその難しかったということを覚えているし、わかるところはもちろん覚えている。私たちが作った電子辞書があったら、少しは勉強していたかもしれない。勉強といえば、受験参考書の域を一歩も出られなかった私だが、辞書や事典はよく見ていた。日本史の事典も好きだったのだ。
それにしても、もっと勉強に熱心であったとしても、いつかは時間切れで破綻していたことと思う。受験ということの本質をつかんでいない私が何年がんばってみても無駄なことだった。しかし、そんなことは今だから言えるのであって、当時は、なんとかして大学に行きたい、本当の勉強をしたい、それだけの純粋な気持ちだったのだ。
今、本物の「尺八」とか「ネイティブ・アメリカン・フルート」を探しているのだが、浪人時代も本物の学問を探していたのだった。ただ、それが失敗だったのだ。受験は、パズルを解くような方針で行かなければ、とてもできるものではないのだ。
さすがに、そんなことを両先生が教えてくれるはずもなく、悶々として4浪まで勤めた私だった。日本史の先生の有名な言葉で私が好きな言葉は、「いらんことをやりなさいよ、いらんことが結局、すべて役に立つんですから。」というものだ。結局、私の勉強というのは、この言葉通りなのだ。受験には破れたのだが、社会に出て何かを学ぶ時、いちいちズシンとこの言葉の重みが効いてくる。知識に幅が出てくるのだった。
英語の先生からは、すぐに丁寧な礼状が届いたが、日本史の先生からはずっとなかった。帰省していた間にその日本史の先生からの礼状が届いていたのでほっとした。両先生とも電子辞書には抵抗があるみたいだ。ただ、せっかくの贈り物なのでこれを機会に使ってくれるようだ。先生に私たちが作ったデータを見てもらうのが何となく気恥ずかしい感じがする。
英語の先生は、文字通り英語を教わったのだが、浪人も2年目の時だった。高校の現役時代は、学年が違うので教わることはなかった。当時から、カッチリした教え方と力強い語り口には驚嘆したものだが、現在も朝早くからウォーキングをするなど大病をしたとは思えないほどの元気ぶりだ。
私にしてみれば、英語の先生から英語は教わったが、むしろもっと大事なものを教わったような気がしている。頑なな私の心をゆっくりと解きほぐしてくれた人なのだ。母と同い年だから、当然くらいの余裕があったかもしれないが、とにかく私のやる気というものを買ってくれていた。点数というよりもやる気を買ってくれていたのだった。そこに私は惚れ込んだのだ。他の教師は、受験でもあるし、決して点数と離れた会話などあり得なかったのだ。
結果的には、すべての大学に不合格になった私だったが、先生は励ますことしかしなかったのだ。私立大学にすべて落ちて、本命に受かるとは思わなかったと思うが、私は先生の姿勢に感謝していた。合格できないことは、自分が一番よくわかっていたことなのだから。私は、誰かにやる気があるのだということを認めて欲しかったのかもしれない。
日本史の先生は、逆に現役時代から日本史を教わっていた。浪人して2年目にまたお世話になったということだ。現役時代も浪人時代も日本史ではロクな点数をとったことがない私だったが、今でも先生の授業が思い出されるくらい強烈な印象を持っている。それだけ、納得するように説明してくれていたということだ。
当時の私は、高校の参考書から離れられず、何でもいいので歴史の本を読むということをしなかったので先生の授業はほとんど理解していなかったのだが、今でもその難しかったということを覚えているし、わかるところはもちろん覚えている。私たちが作った電子辞書があったら、少しは勉強していたかもしれない。勉強といえば、受験参考書の域を一歩も出られなかった私だが、辞書や事典はよく見ていた。日本史の事典も好きだったのだ。
それにしても、もっと勉強に熱心であったとしても、いつかは時間切れで破綻していたことと思う。受験ということの本質をつかんでいない私が何年がんばってみても無駄なことだった。しかし、そんなことは今だから言えるのであって、当時は、なんとかして大学に行きたい、本当の勉強をしたい、それだけの純粋な気持ちだったのだ。
今、本物の「尺八」とか「ネイティブ・アメリカン・フルート」を探しているのだが、浪人時代も本物の学問を探していたのだった。ただ、それが失敗だったのだ。受験は、パズルを解くような方針で行かなければ、とてもできるものではないのだ。
さすがに、そんなことを両先生が教えてくれるはずもなく、悶々として4浪まで勤めた私だった。日本史の先生の有名な言葉で私が好きな言葉は、「いらんことをやりなさいよ、いらんことが結局、すべて役に立つんですから。」というものだ。結局、私の勉強というのは、この言葉通りなのだ。受験には破れたのだが、社会に出て何かを学ぶ時、いちいちズシンとこの言葉の重みが効いてくる。知識に幅が出てくるのだった。
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