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アップルのCEOだった、スティーブ・ジョブズが亡くなった。今朝、いっせいにニュースが流れたのだが、今朝死んだということなのか。私は、「残念だが、運命だ」といきなりさえずったが、喪失感があるのは否めない。
私が彼の名前を知ってからでも、相当な時間が経過している。一番最初は、岡山での仕事が危うくなった頃だろうか。アップルコンピュータがすごいというのでよく見に行ったものだった。しかし、ノートなどは、100万もするのでとても買うなど現実的な話ではなかった。仕事でも使いたかったが、C言語でないとアプリは作れないようで手も足も出なかった。
その後は、コンピュータ関連のニュースとして聞き流すのみだったが、東京に出てきてすぐの頃に本気で購入を考えたことがあった。それは、当時もマック真っ盛りだったし、マックを使えるということで仕事があったりしたからだ。おまけに、マックも買うことができる値段に落ち着いていた。ただ、最終的にはやめた。当時、情報を得ていた雑誌に「マックは確かにすばらしい。しかし、どこまでも模倣に過ぎないのだ。」という意見があって、それに私は屈服したのだった。
Windows95が流行りだした頃なので、当然、私もこちらになびき、仕事も順調に進んだ。次にマックの名前を聞いたのは、スティーブがアップルに返り咲いたという話からだった。アップルを追われ、NextStepという会社をこさえていたのは知っていたのだが、まさか、返り咲くとは思っていなかった。私は使わないので、iMacとか言われてもほとんど興味はなかったが、いつの頃か、iPodという機械が出るという噂を聞き、またしょうもないと思ったことがあった。
まだ、アキバの電気街が元気だった頃だったと思うが、私は試みにiPodなるものを手にしてみた。ホイールが回る、第二世代のものだったと思うが、質感もいいし、「欲しい」と思った。確か、6万くらい払ったような気がした。当時は、iTunesもアホでうまく動かないと思いつつCDから音を入れて使ったが、これがなかなか良かった。まったく関心の無かった私がいいと感じたのだった。これが、私のアップル製品との付き合い始めだった。その後、iPodの容量が60GB、160GBと増えて行くにつれ買い増して行った。スピーカー付きのケースがあるのだが、これは今でも私の子守歌役だ。
結局、私のアップルとの付き合いは、今に至るまで傍流というか、マック本体ではなくiPod、iPadだけだった。マックを使うとなれば、仕事もできないのでいろいろと不便だったというのもあるが、好きではなかったというのが大きい。私にとって、「模倣」は必要なかったのだ。ゴミ箱ではなく、削除で良かったのだ。最近、マックに色気を出しているのは、Androidでの経験があるからだ。私は、Androidを何も知らず使ってみたのだが、これが良かった。マックも同じだろうかと思えたのだった。中身は、FreeBSDだということなので興味はあったのだが、ここまで手が出せていない。
スティーブには厳しいかもしれないが、アップルは今後、跡形もなくなると私は見ている。あるいは、形だけで何も作れないという抜け殻会社になってしまうだろう。良くも悪くもスティーブは、夢を形にすることができる男だった。私がスティーブを認めるとすれば、この部分だ。iPadなど誰でも思いつきそうだが、彼の前には誰も作れなかった。私としては、もう少し新たなものを作って欲しかったし、その才能もあったと思うのだが、体力的に限界だったようだ。iPadは、私のいいおもちゃになっている。体調の悪かった数年前に、こういうものがあれば飛びついていただろう。当時は、ザウルスで癒されていた。iPadの落ち着く感じは、私にはザウルスに似ているように思える。
動画や画像があつかえて、当時、ネットは今ほど発展していなかったのでTVとかラジオとか既存のメディアをくっつけるというのが私の貧困な発想だった。確かに、ワンセグがあってもいいのだが、見るに耐える番組が無い現状をどれだけの人が予測できたろうか。結局、iPadはアプリが使えてインターネットが使えれば十分だ。Ustも自由に見られるようになればうれしいが、これはネット環境の整備が必要なのだろう。私が今後追加したいと思うのは、世界のWebカメラだろうか。夜に昼が見えて、昼に夜が見えて、宇宙も見えるというもの。お金がかかることだけにすぐには無理かもしれない。インターネットを介してのことになるので新しい話ではない。
東京に出てきて16年。スティーブのことが話題にならない年はなかったろう。常に気になる存在ではあったが、ソフト開発という役割ではなかったからか、いまいちよく知らない。本当に知るとしたら、今からでもマックを使うということしか無いのだろうと思う。コンピュータ界の英雄に対して今の私ができることは、それくらいだ。
私が彼の名前を知ってからでも、相当な時間が経過している。一番最初は、岡山での仕事が危うくなった頃だろうか。アップルコンピュータがすごいというのでよく見に行ったものだった。しかし、ノートなどは、100万もするのでとても買うなど現実的な話ではなかった。仕事でも使いたかったが、C言語でないとアプリは作れないようで手も足も出なかった。
その後は、コンピュータ関連のニュースとして聞き流すのみだったが、東京に出てきてすぐの頃に本気で購入を考えたことがあった。それは、当時もマック真っ盛りだったし、マックを使えるということで仕事があったりしたからだ。おまけに、マックも買うことができる値段に落ち着いていた。ただ、最終的にはやめた。当時、情報を得ていた雑誌に「マックは確かにすばらしい。しかし、どこまでも模倣に過ぎないのだ。」という意見があって、それに私は屈服したのだった。
Windows95が流行りだした頃なので、当然、私もこちらになびき、仕事も順調に進んだ。次にマックの名前を聞いたのは、スティーブがアップルに返り咲いたという話からだった。アップルを追われ、NextStepという会社をこさえていたのは知っていたのだが、まさか、返り咲くとは思っていなかった。私は使わないので、iMacとか言われてもほとんど興味はなかったが、いつの頃か、iPodという機械が出るという噂を聞き、またしょうもないと思ったことがあった。
まだ、アキバの電気街が元気だった頃だったと思うが、私は試みにiPodなるものを手にしてみた。ホイールが回る、第二世代のものだったと思うが、質感もいいし、「欲しい」と思った。確か、6万くらい払ったような気がした。当時は、iTunesもアホでうまく動かないと思いつつCDから音を入れて使ったが、これがなかなか良かった。まったく関心の無かった私がいいと感じたのだった。これが、私のアップル製品との付き合い始めだった。その後、iPodの容量が60GB、160GBと増えて行くにつれ買い増して行った。スピーカー付きのケースがあるのだが、これは今でも私の子守歌役だ。
結局、私のアップルとの付き合いは、今に至るまで傍流というか、マック本体ではなくiPod、iPadだけだった。マックを使うとなれば、仕事もできないのでいろいろと不便だったというのもあるが、好きではなかったというのが大きい。私にとって、「模倣」は必要なかったのだ。ゴミ箱ではなく、削除で良かったのだ。最近、マックに色気を出しているのは、Androidでの経験があるからだ。私は、Androidを何も知らず使ってみたのだが、これが良かった。マックも同じだろうかと思えたのだった。中身は、FreeBSDだということなので興味はあったのだが、ここまで手が出せていない。
スティーブには厳しいかもしれないが、アップルは今後、跡形もなくなると私は見ている。あるいは、形だけで何も作れないという抜け殻会社になってしまうだろう。良くも悪くもスティーブは、夢を形にすることができる男だった。私がスティーブを認めるとすれば、この部分だ。iPadなど誰でも思いつきそうだが、彼の前には誰も作れなかった。私としては、もう少し新たなものを作って欲しかったし、その才能もあったと思うのだが、体力的に限界だったようだ。iPadは、私のいいおもちゃになっている。体調の悪かった数年前に、こういうものがあれば飛びついていただろう。当時は、ザウルスで癒されていた。iPadの落ち着く感じは、私にはザウルスに似ているように思える。
動画や画像があつかえて、当時、ネットは今ほど発展していなかったのでTVとかラジオとか既存のメディアをくっつけるというのが私の貧困な発想だった。確かに、ワンセグがあってもいいのだが、見るに耐える番組が無い現状をどれだけの人が予測できたろうか。結局、iPadはアプリが使えてインターネットが使えれば十分だ。Ustも自由に見られるようになればうれしいが、これはネット環境の整備が必要なのだろう。私が今後追加したいと思うのは、世界のWebカメラだろうか。夜に昼が見えて、昼に夜が見えて、宇宙も見えるというもの。お金がかかることだけにすぐには無理かもしれない。インターネットを介してのことになるので新しい話ではない。
東京に出てきて16年。スティーブのことが話題にならない年はなかったろう。常に気になる存在ではあったが、ソフト開発という役割ではなかったからか、いまいちよく知らない。本当に知るとしたら、今からでもマックを使うということしか無いのだろうと思う。コンピュータ界の英雄に対して今の私ができることは、それくらいだ。
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