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久しぶりに引っ越しを経験して、いろんなことを思い出してしまった。私とお袋の歴史というのも思い出さざるを得なった。お互いに老いたのだが、お袋の方がその度合いは当然のことながら大きい。なにしろ私よりも30年も長く生きているのだから。
7年前の引っ越しでは、部屋が1つだったということもあり1部屋片付ければおしまいという手軽さがあった。しかし、今度はキッチンも含めれば3部屋だ。それでも2部屋まではなんとかなったが私の住む部屋=奥の院だけは自分でも制御できなかったくらいなので、どれだけ荷物が詰まっているかさえわからなかった。このことが足が出た原因だった。捨てるものはそのまんまにしておけばいいという発想だったが、ゴミ出しの日が無かったので最終的にはそのゴミまで持ってくるはめになった。
鹿骨亭で暮らしていた頃、お袋は60代だった。あの7年足らずの間にもいろんなことがあった。お袋の喘息が悪化したのだった。咳が止まらずどうしようもない時でも東京まで出てきていた。道中のことも考えるとしんどかったろうと思う。当然、来てからも咳が止まらずしんどそうだった。私も仕事が忙しい時期だったが、深夜に咳き込んでいるお袋を見て、「うるさい」とは言えなかった。「病院へ行けー。」とだけ言ったのを覚えている。
当時は、まだ会社を興していなかったので年に何回か遊びに来ていただけだと思うが、しんどいのに来るというのはやはり、不安だったからだと思っている。実際、私のところに来ても私に知識があるわけでもないので咳き込む母親を見てオロオロするばかりだったのだ。その後、どのようにして帰ったのか記憶に無いのだが、特に何事も無く帰り、病院へ行き吸入ステロイドをやり始めて調子が良くなったと思う。本当ならば、当時から私が気が付いてちゃんとお袋の健康管理に気を配らなければいけなかったのだろうと思う。やらなかった結果、数年後さらにたいへんな事態を引き起こした。
愚かな私は、最近になってようやくお袋の喘息にも向き合えるようになった。もう、5年ほど前になるが、仕事が忙しくスケジュールが制御できなくなった私は、イライラをお袋や社員に向けていたようだ。一番の犠牲はお袋だった。その年の夏は今年以上に暑い夏だった。何とか夏をやり過ごし、10月になって上京した時だった。来た時から元気が無かったのだが、明くる日仕事に行こうとすると、「近くに病院はねんかな。」と聞いてくるのだった。こんなことは滅多に無いことなので病院まで付き添い、そのまま入院となった。
今、思い出してみると極度の過労とそれにともなってパニックが出たというのが当時の正確な病態ではないかと思う。その証拠に病院でMRIまで撮って調べてみたものの年相応以外の病気は見つからなかったのだった。お袋は、無知な医者に抗うつ剤まで飲まされてふらふらになりつつも退院した。あまり、不安がるので別の病院へ行ったのだが、そこも大して役に立たなかった。要するに、不安感を生じることに対して抗うつ剤を処方しているという無茶なやり方のためお袋は不安になっていたのだった。田舎に帰って主治医に即、中止してもらい健康を取り戻した。
結局、私も当時はパニックとか抗うつ剤の効果には無知で的確な助言も何もできなかったことを告白せざるを得ない。医者も知らなかったのだ。今でも抗うつ剤を適当に使っている医者はいるはずで、それが新たな被害を引き起こすことになっている。
2週間くらいお袋の看病をしたのだが、お袋が入院中にパニックを引き起こし私が駆けつけたこともあった。血圧が180くらいまで上がって血管がどくどくしているのが見えるくらいだった。お袋も、この時は死ぬかと思ったらしく私は「遺書」さえ見せられたくらいだ。とっさにメモすることを思いついたようだ。しかし、あくまでもパニックだったようですぐに治まった。私は小学校4年の頃からパニック持ちなので的確な助言ができるはずだったのに一緒になって不安に陥った。
この後、私が過労のあまりパニックになり抗不安薬を飲むことになる。今、思い出してもゾッとするが、薬に対する無知、医者への妄信が招いた悲劇だ。私はこの時から3年近く薬の離脱症状に悩まされることになるのだ。それでも、途中で医者を切って自分で断薬しただけマシだった。医者は、その後もどんどん向精神薬を飲ませる予定だったのだから。「どうして君が薬をやめるという選択をするのかがわからない。」などと怖いことをほざいていたのを思い出す。
久しぶりの引っ越しで、そんな過去の話をついつい思い出した。なお、お袋はあれから順調に立ち直ったのだが、今から3年前くらいに喘息が悪化してとうとう「もう、どうでもええわ。」と言い出してしまった。泡を食った私は、この時、ようやくむさぼるようにして喘息の勉強を始めた。どうすればいいかは今ではネットにたくさん情報がある。それを知ろうとしなかったのだ、私は。自分が喘息ならばどうするだろうか、そんな視点で助言して徐々に回復してくれたのだった。
この時、感じたのは、やはり当事者はよく見えないということ。関係ない人間の方が病気に対してよりいい情報が得られる。自分だっていつ病気になるかもしれない。できるだけ自分以外の人の病気を知り、可能な限りの情報を教えてあげるべきだと思った。
7年前の引っ越しでは、部屋が1つだったということもあり1部屋片付ければおしまいという手軽さがあった。しかし、今度はキッチンも含めれば3部屋だ。それでも2部屋まではなんとかなったが私の住む部屋=奥の院だけは自分でも制御できなかったくらいなので、どれだけ荷物が詰まっているかさえわからなかった。このことが足が出た原因だった。捨てるものはそのまんまにしておけばいいという発想だったが、ゴミ出しの日が無かったので最終的にはそのゴミまで持ってくるはめになった。
鹿骨亭で暮らしていた頃、お袋は60代だった。あの7年足らずの間にもいろんなことがあった。お袋の喘息が悪化したのだった。咳が止まらずどうしようもない時でも東京まで出てきていた。道中のことも考えるとしんどかったろうと思う。当然、来てからも咳が止まらずしんどそうだった。私も仕事が忙しい時期だったが、深夜に咳き込んでいるお袋を見て、「うるさい」とは言えなかった。「病院へ行けー。」とだけ言ったのを覚えている。
当時は、まだ会社を興していなかったので年に何回か遊びに来ていただけだと思うが、しんどいのに来るというのはやはり、不安だったからだと思っている。実際、私のところに来ても私に知識があるわけでもないので咳き込む母親を見てオロオロするばかりだったのだ。その後、どのようにして帰ったのか記憶に無いのだが、特に何事も無く帰り、病院へ行き吸入ステロイドをやり始めて調子が良くなったと思う。本当ならば、当時から私が気が付いてちゃんとお袋の健康管理に気を配らなければいけなかったのだろうと思う。やらなかった結果、数年後さらにたいへんな事態を引き起こした。
愚かな私は、最近になってようやくお袋の喘息にも向き合えるようになった。もう、5年ほど前になるが、仕事が忙しくスケジュールが制御できなくなった私は、イライラをお袋や社員に向けていたようだ。一番の犠牲はお袋だった。その年の夏は今年以上に暑い夏だった。何とか夏をやり過ごし、10月になって上京した時だった。来た時から元気が無かったのだが、明くる日仕事に行こうとすると、「近くに病院はねんかな。」と聞いてくるのだった。こんなことは滅多に無いことなので病院まで付き添い、そのまま入院となった。
今、思い出してみると極度の過労とそれにともなってパニックが出たというのが当時の正確な病態ではないかと思う。その証拠に病院でMRIまで撮って調べてみたものの年相応以外の病気は見つからなかったのだった。お袋は、無知な医者に抗うつ剤まで飲まされてふらふらになりつつも退院した。あまり、不安がるので別の病院へ行ったのだが、そこも大して役に立たなかった。要するに、不安感を生じることに対して抗うつ剤を処方しているという無茶なやり方のためお袋は不安になっていたのだった。田舎に帰って主治医に即、中止してもらい健康を取り戻した。
結局、私も当時はパニックとか抗うつ剤の効果には無知で的確な助言も何もできなかったことを告白せざるを得ない。医者も知らなかったのだ。今でも抗うつ剤を適当に使っている医者はいるはずで、それが新たな被害を引き起こすことになっている。
2週間くらいお袋の看病をしたのだが、お袋が入院中にパニックを引き起こし私が駆けつけたこともあった。血圧が180くらいまで上がって血管がどくどくしているのが見えるくらいだった。お袋も、この時は死ぬかと思ったらしく私は「遺書」さえ見せられたくらいだ。とっさにメモすることを思いついたようだ。しかし、あくまでもパニックだったようですぐに治まった。私は小学校4年の頃からパニック持ちなので的確な助言ができるはずだったのに一緒になって不安に陥った。
この後、私が過労のあまりパニックになり抗不安薬を飲むことになる。今、思い出してもゾッとするが、薬に対する無知、医者への妄信が招いた悲劇だ。私はこの時から3年近く薬の離脱症状に悩まされることになるのだ。それでも、途中で医者を切って自分で断薬しただけマシだった。医者は、その後もどんどん向精神薬を飲ませる予定だったのだから。「どうして君が薬をやめるという選択をするのかがわからない。」などと怖いことをほざいていたのを思い出す。
久しぶりの引っ越しで、そんな過去の話をついつい思い出した。なお、お袋はあれから順調に立ち直ったのだが、今から3年前くらいに喘息が悪化してとうとう「もう、どうでもええわ。」と言い出してしまった。泡を食った私は、この時、ようやくむさぼるようにして喘息の勉強を始めた。どうすればいいかは今ではネットにたくさん情報がある。それを知ろうとしなかったのだ、私は。自分が喘息ならばどうするだろうか、そんな視点で助言して徐々に回復してくれたのだった。
この時、感じたのは、やはり当事者はよく見えないということ。関係ない人間の方が病気に対してよりいい情報が得られる。自分だっていつ病気になるかもしれない。できるだけ自分以外の人の病気を知り、可能な限りの情報を教えてあげるべきだと思った。
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