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その昔、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という映画を見て、「友情は裏切ることができないのだ。」という理論をまとめようとしてそのまま放置したことがあった。どうもうまく書けなかったことを覚えている。
形としては確かに裏切ることは可能なのだが、友人を裏切ってしまったという後悔の念はずっと残るので、赤の他人を裏切るのとは訳が違うのだ。重みが全然違う。「こそ泥」仲間のヌードルスとマックスが幼い時に出会い、大きくなってから「裏切り」で別れることになるのが私には非常に衝撃的に思えたのだった。
さらに、マックスが「裏切り」で奪ったものは、ヌードルスの憧れの人だっただけに当時の私には余計に応えた。私も当時、好きだった女性がいたのだが、相手はそうでもなくて、周囲のいろんな男に狙われるという状態だった。私は、私なりに悩んでいたのだが、結局は、相手にもされずに終わったというものだった。デートらしきものもしてみたが、私にムードを盛り上げるという考えが無かったため、その女性から見ると「子供のお遊び」だったかもしれない。
彼女もヌードルスの憧れの人、デボラと同じく「上」を目指していた。大学の医学部で学んでいたのだが、家庭の事情で授業料が払えず退学せざるを得なかったという。それでは、と看護師を目指すがそれもかなわないとなった時、家でボーとして過ごしていたという。これではいけないと思いアルバイトを探して働き出して私と出会ったといういきさつだった。
特に私と親しくなるという必然性は無かったのだが、たまたま飲み会か何かの機会に帰る方角が同じだったので一緒に帰ったということがあっただけだった。私もぎこちなくテニスに誘ったり、映画に誘ったりしたのだが、彼女は常に迷惑そうだったことを覚えている。私にそれ以上のことができるはずもないのだが、段々と機嫌が悪くなる彼女の態度にいちいち衝撃を受けて体調を崩していたものだ。当時の私の顔を見れば笑えることだろう。最も元気な頃なのに最も情けない顔をしているのではないだろうか。
別れは、私が仕事場を辞めるということで突然、訪れた。その後、彼女がどこでどうなったのかは知らない。私が気にしていた周りの男は知っているかもしれないのだが、聞いたことはない。私の親友に相談したら、「こりゃ、男がおるで~。」ということだった。かわいい感じだったので、少々ゴツイ(顔の)私には釣り合わなかったということだろうか。私は、気持ちのけじめをつけるためにかつて撮った写真をシールにしたものを彼女に送った。そこでも「好き」だとは言えず、「気になった」と告白するのがせいいっぱいだった。
この大失恋事件でしばらく私は立ち直れなかったのだが、同じくゴツイ私の父が助言をくれていたのが今となっては、おかしい。親父もクラシックな日本男児なので恋愛などうまく行かなかったと思うのだが、その親父がくれた助言とは、「去る者は追うな。」というシンプルなものだった。頭ではわかっていたのだが、それでもその後、数年は引きずっていたと思う。京都時代は、このほろ苦い思い出でずっと埋もれていたかもしれない。
こんな重要な案件があったのだから、友情どころではなかったのかもしれない。まだまだ、仕事も見つけられず、大学も諦めきれず、女性には相手にされず、どう生きるべきかということに毎日悩み、「お金がない」という毎日だった。結局、私は京都では仕事を見つけられず、親父が病気で入院したことがきっかけで田舎に帰ることになる。一つも思い通りに行かなかった京都時代なのだが、今ではその京都が本当に懐かしい。映画を見るような気持ちで毎年、行っている。
形としては確かに裏切ることは可能なのだが、友人を裏切ってしまったという後悔の念はずっと残るので、赤の他人を裏切るのとは訳が違うのだ。重みが全然違う。「こそ泥」仲間のヌードルスとマックスが幼い時に出会い、大きくなってから「裏切り」で別れることになるのが私には非常に衝撃的に思えたのだった。
さらに、マックスが「裏切り」で奪ったものは、ヌードルスの憧れの人だっただけに当時の私には余計に応えた。私も当時、好きだった女性がいたのだが、相手はそうでもなくて、周囲のいろんな男に狙われるという状態だった。私は、私なりに悩んでいたのだが、結局は、相手にもされずに終わったというものだった。デートらしきものもしてみたが、私にムードを盛り上げるという考えが無かったため、その女性から見ると「子供のお遊び」だったかもしれない。
彼女もヌードルスの憧れの人、デボラと同じく「上」を目指していた。大学の医学部で学んでいたのだが、家庭の事情で授業料が払えず退学せざるを得なかったという。それでは、と看護師を目指すがそれもかなわないとなった時、家でボーとして過ごしていたという。これではいけないと思いアルバイトを探して働き出して私と出会ったといういきさつだった。
特に私と親しくなるという必然性は無かったのだが、たまたま飲み会か何かの機会に帰る方角が同じだったので一緒に帰ったということがあっただけだった。私もぎこちなくテニスに誘ったり、映画に誘ったりしたのだが、彼女は常に迷惑そうだったことを覚えている。私にそれ以上のことができるはずもないのだが、段々と機嫌が悪くなる彼女の態度にいちいち衝撃を受けて体調を崩していたものだ。当時の私の顔を見れば笑えることだろう。最も元気な頃なのに最も情けない顔をしているのではないだろうか。
別れは、私が仕事場を辞めるということで突然、訪れた。その後、彼女がどこでどうなったのかは知らない。私が気にしていた周りの男は知っているかもしれないのだが、聞いたことはない。私の親友に相談したら、「こりゃ、男がおるで~。」ということだった。かわいい感じだったので、少々ゴツイ(顔の)私には釣り合わなかったということだろうか。私は、気持ちのけじめをつけるためにかつて撮った写真をシールにしたものを彼女に送った。そこでも「好き」だとは言えず、「気になった」と告白するのがせいいっぱいだった。
この大失恋事件でしばらく私は立ち直れなかったのだが、同じくゴツイ私の父が助言をくれていたのが今となっては、おかしい。親父もクラシックな日本男児なので恋愛などうまく行かなかったと思うのだが、その親父がくれた助言とは、「去る者は追うな。」というシンプルなものだった。頭ではわかっていたのだが、それでもその後、数年は引きずっていたと思う。京都時代は、このほろ苦い思い出でずっと埋もれていたかもしれない。
こんな重要な案件があったのだから、友情どころではなかったのかもしれない。まだまだ、仕事も見つけられず、大学も諦めきれず、女性には相手にされず、どう生きるべきかということに毎日悩み、「お金がない」という毎日だった。結局、私は京都では仕事を見つけられず、親父が病気で入院したことがきっかけで田舎に帰ることになる。一つも思い通りに行かなかった京都時代なのだが、今ではその京都が本当に懐かしい。映画を見るような気持ちで毎年、行っている。
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