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毎日、コンピュータ関連のサイトは死ぬほどチェックしているのだが、その中で異質な記事を読んだのでハッとさせられている。
その記事によれば「プラス思考はやめませんか」とくるのだ。そして、私のように直感的に「とにかくがんばろー」ではなくて、論理的に「怒り」や「不安」のコントロール方を教えてくれている。なかなかのものだと思った。
「怒り」の正体を分析してみるとそこには、自分の「前向きな」思考が見られるのだという。確かに、私も仕事で「怒り」を感じた時、表面的には相手に怒ったのだけれど、実は、自分の構想を聞いて欲しいという気持ちがあったのだった。そして、仲を取り持ってくれる人が現れて、私はひたすら自分の能力を磨くことに専念することで「怒り」がどこかへ消えてしまったのだった。
このことを解説せずして、「怒りを忘れることだ」と連呼しても人には伝わらないのも当然だった。では、「不安」はどうか。くだんの著者は特に示していないのだが、不安についても「前向きな」意味があることを指摘するであろうことは容易に想像できる。
浪人時代の私の不安は、「何浪しても希望の大学に行けるとは限らない」「自分は、発狂するのではないか」というものだった。ここからあぶり出せる前向きな思考とは何かというと、それは、自分なら難しい勉強でもやれるという自信(過信かも)だろう。クラスメートでも、大学に行ってその程度?という人を見るにつけ、自分が行っていたらなあと思うことは多い。そして、今、私と同い年くらいの「エリート」達がどんどん事件を起こしつつある。昔は、優秀だった医者や教師が「不勉強」と思われる事件を起こしているわけだ。
彼らは、自分の能力を生かすべく組織と闘うでもなく、どっぷりとつかり相変わらず、「思考停止」の人生を送っているわけだ。大学受験そのものが、思考停止しなければ恐らくくぐりぬけられない関門だったと思う。大学に行ってそんなことに気がつけば良かったが、大学紛争時代の学生のような気概も持たず、ぬるま湯につかって生きてきたツケを今、払わされている。連中が払うのならいいが、医者とか教師という立場でこちらが被害に遭うのだからたまらない。判断が必要な職業に彼らがついた時、悲劇は生まれる。判断できないわけだから。
私が人に「がんばろう」と言うのは、やはり、がんばることが好きだからだろう。注意しないといけないのは、がんばれない人にまで「がんばろう」と言ってしまうことだ。よくこれで嫌われてしまう。皮肉屋の人間からは、白い眼で見られてしまう。デリカシーが無いと言われることもあるだろう。それでも私はがんばり続けると思う。まず、自分ががんばるところを見せることは別に非難されることはないだろう。要は、それをゴリ押ししないことだ。私の恩師のように自分はがんばり屋でも上手にそれを伝えることのできる人間を目指すべきだろう。
大学という研究機関もそうなのだが、私は難しいことに挑戦したいという欲求が強い。現在の仕事は、コンピュータのOSをいじらなければならないこともあるのでその意味では歯ごたえがある。将来的には、宇宙という「わけのわからないもの」に挑戦したいという気持ちがものすごくある。少年時代からの夢でもあったから。私のように鉄砲玉的に「挑戦したい」人間を生かし切れないこの国のしくみは不幸ではないかと思う。まるでやる気がない人のために作ったようなしくみなのだ。これでは、現状が示しているように発展は無いだろう。
私は、私の仕事を通してこの国の人々を賢く、よく考えるように持って行きたいと思う。勤勉でまじめだということは認めるのだが、「現実」に弱い。進化論ではないのだが、「変化しないものは生き延びることはできない」ことを改めて思い起こすべきではないか。そして、まだ寿命があれば、いよいよ宇宙に乗り出したいと思っている。これが私にとって究極の「プラス思考」だ。
その記事によれば「プラス思考はやめませんか」とくるのだ。そして、私のように直感的に「とにかくがんばろー」ではなくて、論理的に「怒り」や「不安」のコントロール方を教えてくれている。なかなかのものだと思った。
「怒り」の正体を分析してみるとそこには、自分の「前向きな」思考が見られるのだという。確かに、私も仕事で「怒り」を感じた時、表面的には相手に怒ったのだけれど、実は、自分の構想を聞いて欲しいという気持ちがあったのだった。そして、仲を取り持ってくれる人が現れて、私はひたすら自分の能力を磨くことに専念することで「怒り」がどこかへ消えてしまったのだった。
このことを解説せずして、「怒りを忘れることだ」と連呼しても人には伝わらないのも当然だった。では、「不安」はどうか。くだんの著者は特に示していないのだが、不安についても「前向きな」意味があることを指摘するであろうことは容易に想像できる。
浪人時代の私の不安は、「何浪しても希望の大学に行けるとは限らない」「自分は、発狂するのではないか」というものだった。ここからあぶり出せる前向きな思考とは何かというと、それは、自分なら難しい勉強でもやれるという自信(過信かも)だろう。クラスメートでも、大学に行ってその程度?という人を見るにつけ、自分が行っていたらなあと思うことは多い。そして、今、私と同い年くらいの「エリート」達がどんどん事件を起こしつつある。昔は、優秀だった医者や教師が「不勉強」と思われる事件を起こしているわけだ。
彼らは、自分の能力を生かすべく組織と闘うでもなく、どっぷりとつかり相変わらず、「思考停止」の人生を送っているわけだ。大学受験そのものが、思考停止しなければ恐らくくぐりぬけられない関門だったと思う。大学に行ってそんなことに気がつけば良かったが、大学紛争時代の学生のような気概も持たず、ぬるま湯につかって生きてきたツケを今、払わされている。連中が払うのならいいが、医者とか教師という立場でこちらが被害に遭うのだからたまらない。判断が必要な職業に彼らがついた時、悲劇は生まれる。判断できないわけだから。
私が人に「がんばろう」と言うのは、やはり、がんばることが好きだからだろう。注意しないといけないのは、がんばれない人にまで「がんばろう」と言ってしまうことだ。よくこれで嫌われてしまう。皮肉屋の人間からは、白い眼で見られてしまう。デリカシーが無いと言われることもあるだろう。それでも私はがんばり続けると思う。まず、自分ががんばるところを見せることは別に非難されることはないだろう。要は、それをゴリ押ししないことだ。私の恩師のように自分はがんばり屋でも上手にそれを伝えることのできる人間を目指すべきだろう。
大学という研究機関もそうなのだが、私は難しいことに挑戦したいという欲求が強い。現在の仕事は、コンピュータのOSをいじらなければならないこともあるのでその意味では歯ごたえがある。将来的には、宇宙という「わけのわからないもの」に挑戦したいという気持ちがものすごくある。少年時代からの夢でもあったから。私のように鉄砲玉的に「挑戦したい」人間を生かし切れないこの国のしくみは不幸ではないかと思う。まるでやる気がない人のために作ったようなしくみなのだ。これでは、現状が示しているように発展は無いだろう。
私は、私の仕事を通してこの国の人々を賢く、よく考えるように持って行きたいと思う。勤勉でまじめだということは認めるのだが、「現実」に弱い。進化論ではないのだが、「変化しないものは生き延びることはできない」ことを改めて思い起こすべきではないか。そして、まだ寿命があれば、いよいよ宇宙に乗り出したいと思っている。これが私にとって究極の「プラス思考」だ。
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