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京都が、盆地であることは見ればわかる。京都に入っていきなり目につくのが比叡山だ。西を見ても北を見ても山、山で南が唯一開けているように見える。3月1日現在で、日の出が見えるのが午前7時だ。山の上に太陽が登っていくのがよくよく見れば異様な光景に思える。
昨日、京都時代に1年間だけ過ごした一乗寺に行ってきた。私が住んでいたアパートもまだあった。ちょっと汚れていたくらいで、まだまだ使える感じだった。きれいな場所というわけではないが、京都の田舎という雰囲気がまだ残っているところで、私にはぴったりの場所だったように思う。最近では、もっとかっちりしたきれいなアパートが続々とできているようだが、できれば昔のままでいて欲しい気がする。
私は、ほんのちょっと見かけただけなのだが、一乗寺では独自のお祭りが5月にある。もっとじっくり見たいと思いつつ、その機会も無いまま、今日まで過ごしてきた。20年前の5月にそのお祭りを見たと思う。私が岡山に舞い戻ったのがちょうど20年前の5月だった。私としては、ちょっと帰るだけのつもりだったのだが、親父の病状が尋常ではないことを知り京都を引き上げる決意をしたのだった。
京都の生活も決してやさしいものではなかった。私は例によって、やる気満々だったが無職だったのだ。それでも岡山から戻ったら、またゼロから仕事を探して生きるつもりだった。岡山に帰ることもまた、厳しい選択だった。具体的な情報は知らなかったが、とにかく人を受け入れないという意味では京都以上の土地柄だからだ。京都時代の最後にやった仕事をヒントにプログラマーへの道を歩み始めた私であったが、どこか不機嫌であったように思う。その原因は、数年後の大不況で仕事が再び無くなるまで知る由もなかった。
岡山に限らず、生きるのに厳しい地では利己が優先する。他人のことなど考えている余裕など無いからだ。私が、岡山に住んでいて異様に感じるのが、基本的に利己社会だということかもしれない。だが、東京が他人にやさしいのかというとそんなことはない。ただ、私が10数年前に東京進出を決意したのは、私を受け入れるような柔軟さを持っていたことだった。もちろん、東京という地の全体がそうなのかというとそうではなかったと思う。たまたま私を見た一企業の一担当者が、そう思っただけの話かもしれない。
できれば、岡山に生きて地に足のついた仕事をしたかった私であったが、結果的に岡山を離れることになってしまった。岡山にも大企業の営業所があったりして、不況の際にはなんらかの手助けがあるのかと思いきや、90年代の不況の際には冷たいものだった。自分たちを守るのがせいいっぱいのようだった。企業はあてにならないと考え、よりフリーソフトにのめり込んだのも理由のあることだったのだ。
母親の存在も東京進出を躊躇させた原因の一つだった。親父が急死したショックからまだ立ち直っているとは言い難い状況だったし、私としても1人残して大丈夫かという思いもあった。しかし、逆に母親から東京に進出することをすすめられ私も一気にその気になっていったのだった。
父の葬式の夜にこんなことがあった。岡山の実家を誰が守っていくのかでもめて、私と兄貴が言い争うのを見て母親が泣き出してしまったのだった。父が死んだことだけでも不安定になっているのに、息子たちは、こともあろうに誰が帰る帰らないでもめている。情けなく思ったことだろう。私も兄貴もこの涙には逆らえず、沈黙してしまった。
その件は、特に何も解決はしていないのだが、母の亡き後は、私が生きている限りは、毎月、墓参りに戻るということで落ち着いている。私もなんとか子孫を残して引き継ぎたかったのだが、こればかりは「努力」だけではなんともできないものがあるので仕方のないことだ。
現在、私の会社の中で一番元気なのは母親だ。目がよく見えないこと、喘息持ちであること、膝が痛いことなど、どれをとっても「重症」なのだが、精神的には充実してきているようだ。もともと、気持ちをどう持つかで人間は生きているようなものなので、そこがしっかりしているということは元気だということなのだろう。母親は、特にその傾向が強いように思う。
考えてみれば、京都時代、20代であるにもかかわらず「もう死ぬ、もう死ぬ」と言っていた私が、なんと50までのうのうと生きているわけだ。健康状態も良い状態で育った私が何か特別な状況でもない限り、簡単には死ねないということを意味しているのではないか。本人が注意すべきは、精神的なピンチをいかに乗り越えるか、なのだろうと思う。確かに、「過剰な思い込み」は、具合まで悪くすることはよく経験することだ。自分でコントロールする以外に手は無いのだ。
母親にはよく、個々の病気はともかく、全体としての気分を良くすることに専念したらどうかと話している。これは、自戒を込めて話しているつもりなのだ。私もつい最近まで何でも医者に頼り、痛い目にあわされてきたのだ。いい加減、目を覚ますべきだと思っている。母親の抱える病気も、私の抱える病気(病気とは言えない程度のことだが)も最新の医学をもってしても「完治」は難しい。となると、いかに進行を抑えつつ、楽しく暮らせるかではないか。
持病が、現代医学をもってしても治らないからと悲観的に考えるのか、今すぐに治らないことを認めつつも、今を楽しく生きて未来に賭けるかは本人次第だ。私は、常に後者を選ぶように自分以外には話す。人にはそう言いながら、自分では悲観的に考えてしまうのが私の弱いところだろう。
ただ、私は50を迎えたこともあり、決意を新たにしていることがある。それは、誰がなんと言おうと私の目指したことを生涯、追いつづけるということ。自分が、やりたいことをやるというのではなく、自分の目指した社会を作って思いを遂げるということ。具体的には、誰でも大学へ行ける世の中を作って、私も「進学」するということだ。
常識的には、この10年で私も「おいぼれ」扱いだろうと思う。しかし、そこは気の持ちようであり、妖怪のようになってでも信念の人間として生きるつもりだ。母親にも持病を抱えつつ、気持ちを上向きに未来を信じて長生きして欲しいと思う。何も不安を持つ必要はないと思う。すべては、原因があって結果があるのみだ。悪い結果に対しては、原因を取り除けばいい。わからないことがあれば、調べればいい。
自分のことは棚にあげておいてなんだが、この春ちょっとした期待もある。岡山の親友が結婚するのではないかということ。年末におかしなことを言っていたので、このお彼岸に会って聞いてみたいと思う。うまくすれば、相手の女性とも会えるかもしれない。私に、女を見る目があるとも思えないのだが、相性くらいはわかるのではないか。私は自分のことはからきしダメだと認めるのだが、親友を含めて自分以外の人間を応援することは得意だと信じている。
久々に京都に来て、そんなことを思った。
昨日、京都時代に1年間だけ過ごした一乗寺に行ってきた。私が住んでいたアパートもまだあった。ちょっと汚れていたくらいで、まだまだ使える感じだった。きれいな場所というわけではないが、京都の田舎という雰囲気がまだ残っているところで、私にはぴったりの場所だったように思う。最近では、もっとかっちりしたきれいなアパートが続々とできているようだが、できれば昔のままでいて欲しい気がする。
私は、ほんのちょっと見かけただけなのだが、一乗寺では独自のお祭りが5月にある。もっとじっくり見たいと思いつつ、その機会も無いまま、今日まで過ごしてきた。20年前の5月にそのお祭りを見たと思う。私が岡山に舞い戻ったのがちょうど20年前の5月だった。私としては、ちょっと帰るだけのつもりだったのだが、親父の病状が尋常ではないことを知り京都を引き上げる決意をしたのだった。
京都の生活も決してやさしいものではなかった。私は例によって、やる気満々だったが無職だったのだ。それでも岡山から戻ったら、またゼロから仕事を探して生きるつもりだった。岡山に帰ることもまた、厳しい選択だった。具体的な情報は知らなかったが、とにかく人を受け入れないという意味では京都以上の土地柄だからだ。京都時代の最後にやった仕事をヒントにプログラマーへの道を歩み始めた私であったが、どこか不機嫌であったように思う。その原因は、数年後の大不況で仕事が再び無くなるまで知る由もなかった。
岡山に限らず、生きるのに厳しい地では利己が優先する。他人のことなど考えている余裕など無いからだ。私が、岡山に住んでいて異様に感じるのが、基本的に利己社会だということかもしれない。だが、東京が他人にやさしいのかというとそんなことはない。ただ、私が10数年前に東京進出を決意したのは、私を受け入れるような柔軟さを持っていたことだった。もちろん、東京という地の全体がそうなのかというとそうではなかったと思う。たまたま私を見た一企業の一担当者が、そう思っただけの話かもしれない。
できれば、岡山に生きて地に足のついた仕事をしたかった私であったが、結果的に岡山を離れることになってしまった。岡山にも大企業の営業所があったりして、不況の際にはなんらかの手助けがあるのかと思いきや、90年代の不況の際には冷たいものだった。自分たちを守るのがせいいっぱいのようだった。企業はあてにならないと考え、よりフリーソフトにのめり込んだのも理由のあることだったのだ。
母親の存在も東京進出を躊躇させた原因の一つだった。親父が急死したショックからまだ立ち直っているとは言い難い状況だったし、私としても1人残して大丈夫かという思いもあった。しかし、逆に母親から東京に進出することをすすめられ私も一気にその気になっていったのだった。
父の葬式の夜にこんなことがあった。岡山の実家を誰が守っていくのかでもめて、私と兄貴が言い争うのを見て母親が泣き出してしまったのだった。父が死んだことだけでも不安定になっているのに、息子たちは、こともあろうに誰が帰る帰らないでもめている。情けなく思ったことだろう。私も兄貴もこの涙には逆らえず、沈黙してしまった。
その件は、特に何も解決はしていないのだが、母の亡き後は、私が生きている限りは、毎月、墓参りに戻るということで落ち着いている。私もなんとか子孫を残して引き継ぎたかったのだが、こればかりは「努力」だけではなんともできないものがあるので仕方のないことだ。
現在、私の会社の中で一番元気なのは母親だ。目がよく見えないこと、喘息持ちであること、膝が痛いことなど、どれをとっても「重症」なのだが、精神的には充実してきているようだ。もともと、気持ちをどう持つかで人間は生きているようなものなので、そこがしっかりしているということは元気だということなのだろう。母親は、特にその傾向が強いように思う。
考えてみれば、京都時代、20代であるにもかかわらず「もう死ぬ、もう死ぬ」と言っていた私が、なんと50までのうのうと生きているわけだ。健康状態も良い状態で育った私が何か特別な状況でもない限り、簡単には死ねないということを意味しているのではないか。本人が注意すべきは、精神的なピンチをいかに乗り越えるか、なのだろうと思う。確かに、「過剰な思い込み」は、具合まで悪くすることはよく経験することだ。自分でコントロールする以外に手は無いのだ。
母親にはよく、個々の病気はともかく、全体としての気分を良くすることに専念したらどうかと話している。これは、自戒を込めて話しているつもりなのだ。私もつい最近まで何でも医者に頼り、痛い目にあわされてきたのだ。いい加減、目を覚ますべきだと思っている。母親の抱える病気も、私の抱える病気(病気とは言えない程度のことだが)も最新の医学をもってしても「完治」は難しい。となると、いかに進行を抑えつつ、楽しく暮らせるかではないか。
持病が、現代医学をもってしても治らないからと悲観的に考えるのか、今すぐに治らないことを認めつつも、今を楽しく生きて未来に賭けるかは本人次第だ。私は、常に後者を選ぶように自分以外には話す。人にはそう言いながら、自分では悲観的に考えてしまうのが私の弱いところだろう。
ただ、私は50を迎えたこともあり、決意を新たにしていることがある。それは、誰がなんと言おうと私の目指したことを生涯、追いつづけるということ。自分が、やりたいことをやるというのではなく、自分の目指した社会を作って思いを遂げるということ。具体的には、誰でも大学へ行ける世の中を作って、私も「進学」するということだ。
常識的には、この10年で私も「おいぼれ」扱いだろうと思う。しかし、そこは気の持ちようであり、妖怪のようになってでも信念の人間として生きるつもりだ。母親にも持病を抱えつつ、気持ちを上向きに未来を信じて長生きして欲しいと思う。何も不安を持つ必要はないと思う。すべては、原因があって結果があるのみだ。悪い結果に対しては、原因を取り除けばいい。わからないことがあれば、調べればいい。
自分のことは棚にあげておいてなんだが、この春ちょっとした期待もある。岡山の親友が結婚するのではないかということ。年末におかしなことを言っていたので、このお彼岸に会って聞いてみたいと思う。うまくすれば、相手の女性とも会えるかもしれない。私に、女を見る目があるとも思えないのだが、相性くらいはわかるのではないか。私は自分のことはからきしダメだと認めるのだが、親友を含めて自分以外の人間を応援することは得意だと信じている。
久々に京都に来て、そんなことを思った。
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