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私の浪人時代は、今から27年ほど前のことだ。4浪もしたのではあるが、最初の2年は、出身高校にお世話になったこともありさほど深刻ではなかった。これは、深刻なことになったと感じたのは、3浪の時からだった。
自業自得なのだが、何浪しようとも誰も何の保障もしてくれない。好きでそうしているのだが、いつ浪人から卒業できるのか大きな不安を持ったのも3浪の時が初めてだった。自分の役割、未来について異常なまでに不安になった。自分の弱さも痛いほど味わった。
当時は、今ほど「うつ」は一般的ではなかったことが幸いして、私は医者には行っていないのだが、今なら医者へ行くような状態だったろう。そして、お決まりの「薬漬け」コースで未来などその時点で断たれていただろう。
当時の私が一番嫌だったというか、恐かったのが、やがて発狂するのではないかという心配だった。本で研究したがこれといって結論など出なかったが、ある本には、精神分裂症(今で言う統合失調症)は、「脳の変化」が見られる病気であり、不安が昂じてそうなるわけではないとあり、それ以降安心して不安がおさまったのだった。
しかし、今やその統合失調症も「脳の変化」とも言えないらしい。誰もが状況次第ではなる「病気」のようだ。つまり、浪人時代の私も危うい状態だったと言える。「うつ」と同じく、これを病気と呼ぶべきかどうかは難しいと私は思っている。「脳」というか、「心」の領域だからだ。
何よりも私が、「心」の不調を病と呼べないのは、それに効くとされている薬が効くとは限らないからだ。効いていると思うのは、本人の免疫というか、体の抵抗力かもしれない。効かない人もいるという事実がそれを裏付けている。だから、「うつ」や「統合失調症」の人々が、病気でもないのにダラダラしていると言っているのではないということだ。むしろ、本当の原因を知りたいために追求してるだけだ。その過程で精神科医のイカレタ実態がわかってきたというに過ぎない。
浪人時代の私のように、間違いであろうとも「安心すること」がとにかくいいようだ。自分の限界を知ることも必要だったと思う。無理をせず、引きこもりがちだった自分を慣らすために人混みまで行って本屋で買い物することも週1くらいでやっていたと思う。自己との闘いの連続だった。日記も当時、つけていたと思う。
一日が異常に短く、ボーとしているとすぐにでも夕方が来る感じだった。私の楽しみは、ラジオを聞くこととテレビを見ることだった。ほとんどのドラマを見て擬似的な「人付き合い」をしていたように思う。確かに異常な経験だが、それでなんとかやり過ごせたのだった。受験という目的があったことも大きいが。
この時期、3月後半に合否がわかるので4月の初めまで運送会社の引っ越しのアルバイトをいつもやっていた。ここでも自分で見つけられたわけではなく、母の知り合いに頼んでもらってのことだった。この儲けでアコースティックギターを購入したは私にとって救いとなった。歌もダメなら(ひどい音痴)、音感も無く、骨折のせいかFキーがうまく押さえられないというハンディながらも奏でながら、泣ける自分を発見した。特に厳しい冬の夕方から夜にかけて弾くのが気分良かった。
当時も永井龍雲が私の教祖様だったのだが、彼の曲をギターで演奏するのが夢だった。ある程度まではできていたと思うが、なにしろ声が出ない、Fキーが押さえられないというのは大きく、結局、京都時代にはまったく触れなくなってしまった。そして今では、さおの部分が反っているようだ。使えないことはないが、修理が高くつくらしい。
周りの人には、私が浪人をやめる道を選択することが最も妥当なことと思えたかもしれないが、当人の私だけは、「いや、わしは大学へ行く!」と言っていた時代だった。それだけに浪人から足を洗うというか、大学を断念せざるを得ないと決断した時には気も狂わんばかりだった。研究者として生きる予定だっただけに当然だろうと思う。この思いは、その後、京都に出ても続き、今の仕事を始めるまで続いた。今でも大学を諦めてはいないのだが、今はコンピュータを続けたいという思いが強い。それに今でも私の能力では大学には合格できないのだ。
4浪で突然、終わった私の大学を目指しての闘いだったが、終わってみればたった4年間の日々が過ぎただけだった。私が人生で最初に出会った心の試練だった。また機会を改めて書きたいと思うが、私には「勝負」というものがよくわかっていなかったと思う。「やる気」があれば合格できる、ということを本気で思っていたのだ。あまりにも浮世離れした受験であった。浪人時代の最大の成果は、「それでも発狂しなかった」ということになるかもしれない。
自業自得なのだが、何浪しようとも誰も何の保障もしてくれない。好きでそうしているのだが、いつ浪人から卒業できるのか大きな不安を持ったのも3浪の時が初めてだった。自分の役割、未来について異常なまでに不安になった。自分の弱さも痛いほど味わった。
当時は、今ほど「うつ」は一般的ではなかったことが幸いして、私は医者には行っていないのだが、今なら医者へ行くような状態だったろう。そして、お決まりの「薬漬け」コースで未来などその時点で断たれていただろう。
当時の私が一番嫌だったというか、恐かったのが、やがて発狂するのではないかという心配だった。本で研究したがこれといって結論など出なかったが、ある本には、精神分裂症(今で言う統合失調症)は、「脳の変化」が見られる病気であり、不安が昂じてそうなるわけではないとあり、それ以降安心して不安がおさまったのだった。
しかし、今やその統合失調症も「脳の変化」とも言えないらしい。誰もが状況次第ではなる「病気」のようだ。つまり、浪人時代の私も危うい状態だったと言える。「うつ」と同じく、これを病気と呼ぶべきかどうかは難しいと私は思っている。「脳」というか、「心」の領域だからだ。
何よりも私が、「心」の不調を病と呼べないのは、それに効くとされている薬が効くとは限らないからだ。効いていると思うのは、本人の免疫というか、体の抵抗力かもしれない。効かない人もいるという事実がそれを裏付けている。だから、「うつ」や「統合失調症」の人々が、病気でもないのにダラダラしていると言っているのではないということだ。むしろ、本当の原因を知りたいために追求してるだけだ。その過程で精神科医のイカレタ実態がわかってきたというに過ぎない。
浪人時代の私のように、間違いであろうとも「安心すること」がとにかくいいようだ。自分の限界を知ることも必要だったと思う。無理をせず、引きこもりがちだった自分を慣らすために人混みまで行って本屋で買い物することも週1くらいでやっていたと思う。自己との闘いの連続だった。日記も当時、つけていたと思う。
一日が異常に短く、ボーとしているとすぐにでも夕方が来る感じだった。私の楽しみは、ラジオを聞くこととテレビを見ることだった。ほとんどのドラマを見て擬似的な「人付き合い」をしていたように思う。確かに異常な経験だが、それでなんとかやり過ごせたのだった。受験という目的があったことも大きいが。
この時期、3月後半に合否がわかるので4月の初めまで運送会社の引っ越しのアルバイトをいつもやっていた。ここでも自分で見つけられたわけではなく、母の知り合いに頼んでもらってのことだった。この儲けでアコースティックギターを購入したは私にとって救いとなった。歌もダメなら(ひどい音痴)、音感も無く、骨折のせいかFキーがうまく押さえられないというハンディながらも奏でながら、泣ける自分を発見した。特に厳しい冬の夕方から夜にかけて弾くのが気分良かった。
当時も永井龍雲が私の教祖様だったのだが、彼の曲をギターで演奏するのが夢だった。ある程度まではできていたと思うが、なにしろ声が出ない、Fキーが押さえられないというのは大きく、結局、京都時代にはまったく触れなくなってしまった。そして今では、さおの部分が反っているようだ。使えないことはないが、修理が高くつくらしい。
周りの人には、私が浪人をやめる道を選択することが最も妥当なことと思えたかもしれないが、当人の私だけは、「いや、わしは大学へ行く!」と言っていた時代だった。それだけに浪人から足を洗うというか、大学を断念せざるを得ないと決断した時には気も狂わんばかりだった。研究者として生きる予定だっただけに当然だろうと思う。この思いは、その後、京都に出ても続き、今の仕事を始めるまで続いた。今でも大学を諦めてはいないのだが、今はコンピュータを続けたいという思いが強い。それに今でも私の能力では大学には合格できないのだ。
4浪で突然、終わった私の大学を目指しての闘いだったが、終わってみればたった4年間の日々が過ぎただけだった。私が人生で最初に出会った心の試練だった。また機会を改めて書きたいと思うが、私には「勝負」というものがよくわかっていなかったと思う。「やる気」があれば合格できる、ということを本気で思っていたのだ。あまりにも浮世離れした受験であった。浪人時代の最大の成果は、「それでも発狂しなかった」ということになるかもしれない。
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