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お袋と祖父が奇跡的な連携プレーで、短い一生を終わろうとしていた私の命を救ってくれたのが今から48年前のこと。本来ならば、私は2歳になる前に死んでいたのだ。それから、18年経った頃、私は再び大きな試練に遭遇していた。

自分自信の無知もあって、私は再度、命を無駄にしようとしていた。自ら積極的に死のうとしたわけではなかったが、死ねるならば死んでもいいという心境だった。当時の私が向き合わなければならなかったのは「大学受験」だった。自分としては、やる気満々だったが、制限時間内に決められた方法で問題を解くという行為が著しく苦手だった私は、どうやっても「合格点」をとることができなかったのだ。

当然のごとく浪人生活に入ったまでは良かったのだが、浪人も勝算あってのものならば意味があるだろう。しかし、私の場合は、「大学で本物の勉強をしたい」それのみだった。これでは何年かけても大学合格は難しいと考えるのが「普通の人」だろうが、私はそうは考えなかった。そこに悲劇があったわけだ。結局、2浪までは高校に面倒をみてもらい、受験勉強の講義や「実力テスト」なども定期的に受けていた。

さすがに、3年目からは行きづらくなったのか、試験だけ受けさせてもらうことにした。出身高校は、冷たいようではあるが意外に丁寧な対応を
していたようだ。高校が、予備校のような役割をしてくれるということだ。田舎なので予備校も当時はあまり一般的ではなく、お金もかかるということで高校が対応していたのかもしれない。当然、教師の側には不満があったみたいで「安い金でやってやっている」と露骨な話をする英語教師もいた。

私が生きる元気を無くしたのはこの頃だった。世間の目から見れば、当時の私など「いい気なもんだ!」「何様のつもりか!」ということだったと思う。兄貴にも相当に言われたものだった。身内だけに激越な言葉をもらったように思う。もちろん、もう、根に持ってはいないのだが当時はさすがに傷ついた。

しかし、お袋の反応は意外なもので、決して私を非難するようなことはせず、兄貴の激しい批判も「あんたはあんた」と頑として受け付けなかった。親父はどうしていたのかというと、親父は昔からお袋のコントロール下にあるので、お袋が認めれば問題は無かったのだ。私の一番ピンチの時に私を守ってくれていたのは、お袋だけであった。このことが、今でも頭が上がらない理由でもある。

ただ、私は高校の予備学級(補習科と呼ばれていた)にも行かなくなり、次第と「うつ状態」になりつつあった。自分が自分であるという感覚が無くなり、本で読んで「離人症」ではないかと思ったりした。当時は、このまま精神分裂して行くのではないのかということが心配でしきりに心理学関係の本を読んでいた。なんとか一人でも友人と暮らしているような気分になれないものかと、テレビドラマとかを積極的に見たり、わざわざ繁華街に出かけてみたりした。

その、行き来は自転車だったのだが、当時はのんびりしたもので側道も無く、自転車の隣を猛スピードで10トン車が走り抜けることも普通にあった。私は、そんな時、「このまま、10トン車に巻き込まれて死ねたらいいのに。」と思った。もはや、死ぬことはそれほど恐くなくなっていたのだ。

その年の3月、大学受験の儀式も終わり、4浪も決定的になった頃だったと思う。私のお気に入り、永井龍雲が意外な歌を発表した。毎週木曜日だったと思うが「永井龍雲のオールナイトニッポン」というラジオ番組が私の欠かせない安らぎの時間だった。当時の岡山はネットしていなくて聞き取りづらい中での聴取だったが、楽しみで仕方なかった。一つ前のアルバムが例によって異常に暗く、今度も暗さ一色で攻めてくるのかと思いきや、「さわやかな曲」を紹介してくれたのだった。

雑音混じりのラジオから聞こえてくる歌は、これまでにないような響きに感じられた。当時、岡山では「飛び出せ!青春」の再放送がされており、その挿入歌「青春の旅」がなかなか元気の出るいい歌だったので、こんな歌を作って欲しいと番組にファンレターを出した私だったが、それに応えるかのように発表してくれたのが「流れよ」だった。「青春の旅」が今でも根強い支持があるように「流れよ」もずっと私が好きな歌の一つだ。

ともかく、このまま暗くなってひょっとしたら「死?」とかも考えていた私だったが、性懲りもなく4浪に突入し、とうとう最終的な決断をしなければならない時が来た。自分のけじめとしても4浪しても大学に行けないのならば、働くことに決めた。大学には行きたいが、行けないのならば40年かけてでも勉強するつもりだった。

あれから、この2月3日で約30年になる。もちろん、試練はいろいろとあったのだが、永井龍雲の歌「流れよ」とともに歩んで来た30年だった。龍雲があの時、この歌を発表してくれたから今の私があるのだった。それだけ私には欠かせないメッセージをこの歌は持っていた。たかが歌で30年元気で生きられるとしたら、それはそれでたいへんなことではないだろうか。

今、私が正直に思うことは、あの時、命を無駄にしなくて良かったということ、そして、龍雲によって生かされてきたこの命を次の世代のためにぜひとも役立てたいということ。大学には行けなかったが、私のような若者が出てきた時に、バイパスを設けるような社会を作っておけば、遠回りしなくても済む。うつ状態にならず、「居場所」が見つかるだろう。今、私はコンピュータを相手に仕事をしているが、これをうまく活用することで、社会に貢献できると思っている。時の首相にもメールを出すことだって可能だ。

まだ、終わったとは思っていないが、小沢氏へのバッシングに見るように今の時代は「ウソ」ばかりだ。テレビや新聞・雑誌は危なくてとても信用できない。しかし、インターネットの世界は少し違ってきている。わりと真実も出てくるようになっている。私も書くことで、この世の中を良く変えたいと思っている。そう思って始めたブログでもある。大学へ行けなくとも私には「居場所」があり、大いに活用している。

先頃発表されたiPadも含めて、インターネットがさらに身近になるようなマシンが出てきて欲しい。インターネットは、もっともっと化けられる世界だと思う。その意味でも約20年前、この世界に興味を持って飛び込んだのは良かったと思える。特に「次の30年」などとやるつもりはないのだが、命ある限り、コンピュータにはのめり込みたいと思っている。

50歳を迎えて思うことは、ただ一つ、「健康でいよう」だ。まだまだ、脳溢血とか心筋梗塞で逝くような年齢ではないと思うが、無茶をするとわからない年齢に達したことも事実だ。残念ながら、ヨメさんや子供には恵まれていないが、60になっても諦めずに生きるつもりだ。大学にも行けなかった私だけに、つれあいにもなかなか巡り会えない運命なのだろう。むろん、性格に問題があるとも言えるだろう。

この30年でもっともつらかったのは、大学受験ではない。それよりも、京都時代、仕事が無かったのが一番こたえた。(実は、この時にも死を妄想したことがある。)岡山に帰ってもそれは同じだった。人間、居場所があるかないかというのが最も重要だと思える。鳩山首相は、そのことがよくわかっている人だと思える。もう少し、目覚めた国民が支えないと、瓦解してしまいそうな危うさを持っているので、日々勉強して私にもできるアドバイスはして行きたいと思う。今の時代、インターネットを使えばそれも可能なのだ。

まだまだ、利己主義に走り、政権を崩壊させようとする勢力が存在する以上、私も元気が出る。負けないようにがんばりたい。

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