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季節は、どんどん移り変わり今年も私の頭は1月遅れくらいで動いている。調子が良かったり悪かったりで、あまり日々のことを詳細に振り返ったりする余裕が無いのだ。間が空いて振り返ると頭の中は、秋口だったりする。この2月も例年通り寒いと思うが、これまた調子が良かったり悪かったりで毎日は過ぎていく。
私も自分の仕事の行く先に不安が無いのかと言われれば、そんなことはないと思っている。安定と不安を比べると不安の方が強いだろう。ただ、不安を抱いてみても仕方がないというのがわかっているのであえて心配しないだけのことだ。その点は、これまでと同じだ。不安があっても勉強することで次の仕事につなげてきたのだった。ipadが出てきて仕事が有利になるのか不利になるのかわからないのだが、有利になると考えて不断の努力をするのみなのだ。
鳩山首相は、誰もが居場所のある社会をと唱えているが、私は誰もが不安を持たない社会というのを目指している。学問的な知識や日常の知恵的な知識や病気についての知識やらで人々は不安になる。社会に出ていれば、どうしたって会社との軋轢で不安に陥る。常に合理的な判断をすれば、問題は何も無いのだが、問題のある会社に限って合理的な判断ができないのだ。
私が今、日常的に接している会社であれば私の学んだこと、経験したことで問題解決が可能だ。これまでにも問題はあったものの、最近は順調だと認識している。もちろん、この点については今後もうまくやれる自信はある。しかし、この国の全体としては難しい。今、私が問題だと思っているのは、政治の問題だが、これとて「不安」を解消する確実な手段などない。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌はあてにならないからだ。仕方なく、ネットの中でマスゴミを批判する記事を見つけて勉強するだけだ。
私のようにぼんやりと日常を送っていても、毎日の政治や裁判や犯罪のことは目に付くし耳に入ってくる。しかし、その一時情報が誤りという前提に立たないといけないのでなかなか難しくなったと感じているのだ。中国などでは、ニュースは政府の都合がいいように書くものという認識があるからいいのだが、この国では信じて疑わない人もまだまだ多い。間違った認識で物事を判断してしまうことはものすごく危険だ。そのためにこの国は一度、破滅したくらいなのだから。
結局、私はいかに個人が勉強するのかということだと思っている。それは、大学に行くことを意味していない。今の受験制度のままでは、大学に行ったとしても勉強したことにはならないのだ。プログラミングの勉強がそうであるように、これは教わってわかる道理のものではない。自分で何回も何回も実験して失敗して初めて会得できるもので、個人鍛錬の割合が大きいように感じる。教えるのがうまい、下手というのはあるかもしれないが、プログラミングは教えることは難しい。
しかし、語学とて決して別の話ではないと私は思う。結局、個人が語彙を覚えて適切に使うだけのことだ。覚えないことには何も始まらないのだ。そう考えてくると、何をやるにしても「補助的な」教えというのはあるかもしれないが、やるのは個人で個人の資質が大きいということ。いくら大学を出ても資質が問題ならば何も学んでいないことになるわけだ。今、問題とされている公務員だが、おそらく勉強はしていないか、しているとは言い難いほどにしかやっていないということだろう。公務員改革とは、彼らに辞めてもらうことなのだ。もちろん、今回の検察の暴走も彼らがまともな勉強をしていたなら、もっと慎重であったのではないか。
私の願う社会とは、誰もが不安に陥らないように自由な研究ができて自由に発表されるような社会だ。私はそれを擬似的にフリーソフトの世界で味わった。もともと私はNECの傘下で働き、彼らのプログラムに制限されてきた。コンピュータも彼らの書く、意味不明なマニュアルを頼りにしなければならなかった。当然、不安になり、日々が不安との闘いだった。ちょうど、パーソナルコンピュータが台頭してくる時期だっただけにこちらに救いを求めたのが良かったと今でも思う。
私が飛びついたのは、リチャード・ストールマンのFSFだった。彼らは、フリーソフトでUNIXというOS互換のシステムを作ろうとしていて当時でもコンパイラもあり、無いのは全体をまとめるOSのみという段階だった。しかし、それもLinuxが出て広まり解決した。私も含めて多くの関係者が「不安」から解放されてメーカーの思惑に関係なく仕事を続けられるようになった。コンピュータの世界では、フリーソフトが救ったのだった。
同じように、医療問題でも政治でもあらゆる英知がフリーに解放されて「不安」を解消して欲しいと思うのだ。ipadが出てきて新聞もこの端末でと思う人もいるかもしれないが、新聞そのものがしょうもないので意味がない。これも人間が作っているだけに人間がまともになれば、真実が掲載される当たり前のものが出来るのではないかと思う。
昨日は、そこそこの体調だったのでひさびさのアキバ詣でをしようと思っていたがやめた。無駄遣いをする可能性が濃厚だったということもある。本当に欲しいと思うものを買わなければ、癒しにならないということもわかっているので良かったと思う。この2月から3月にかけて新製品が出ることはわかっている。それを見て手を出すのでも遅くはない。カメラやらパソコンだ。私にはネットが必需品なのでもっともっとのめり込めるマシンが欲しい。
それにしても、もう2月だ。
私も自分の仕事の行く先に不安が無いのかと言われれば、そんなことはないと思っている。安定と不安を比べると不安の方が強いだろう。ただ、不安を抱いてみても仕方がないというのがわかっているのであえて心配しないだけのことだ。その点は、これまでと同じだ。不安があっても勉強することで次の仕事につなげてきたのだった。ipadが出てきて仕事が有利になるのか不利になるのかわからないのだが、有利になると考えて不断の努力をするのみなのだ。
鳩山首相は、誰もが居場所のある社会をと唱えているが、私は誰もが不安を持たない社会というのを目指している。学問的な知識や日常の知恵的な知識や病気についての知識やらで人々は不安になる。社会に出ていれば、どうしたって会社との軋轢で不安に陥る。常に合理的な判断をすれば、問題は何も無いのだが、問題のある会社に限って合理的な判断ができないのだ。
私が今、日常的に接している会社であれば私の学んだこと、経験したことで問題解決が可能だ。これまでにも問題はあったものの、最近は順調だと認識している。もちろん、この点については今後もうまくやれる自信はある。しかし、この国の全体としては難しい。今、私が問題だと思っているのは、政治の問題だが、これとて「不安」を解消する確実な手段などない。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌はあてにならないからだ。仕方なく、ネットの中でマスゴミを批判する記事を見つけて勉強するだけだ。
私のようにぼんやりと日常を送っていても、毎日の政治や裁判や犯罪のことは目に付くし耳に入ってくる。しかし、その一時情報が誤りという前提に立たないといけないのでなかなか難しくなったと感じているのだ。中国などでは、ニュースは政府の都合がいいように書くものという認識があるからいいのだが、この国では信じて疑わない人もまだまだ多い。間違った認識で物事を判断してしまうことはものすごく危険だ。そのためにこの国は一度、破滅したくらいなのだから。
結局、私はいかに個人が勉強するのかということだと思っている。それは、大学に行くことを意味していない。今の受験制度のままでは、大学に行ったとしても勉強したことにはならないのだ。プログラミングの勉強がそうであるように、これは教わってわかる道理のものではない。自分で何回も何回も実験して失敗して初めて会得できるもので、個人鍛錬の割合が大きいように感じる。教えるのがうまい、下手というのはあるかもしれないが、プログラミングは教えることは難しい。
しかし、語学とて決して別の話ではないと私は思う。結局、個人が語彙を覚えて適切に使うだけのことだ。覚えないことには何も始まらないのだ。そう考えてくると、何をやるにしても「補助的な」教えというのはあるかもしれないが、やるのは個人で個人の資質が大きいということ。いくら大学を出ても資質が問題ならば何も学んでいないことになるわけだ。今、問題とされている公務員だが、おそらく勉強はしていないか、しているとは言い難いほどにしかやっていないということだろう。公務員改革とは、彼らに辞めてもらうことなのだ。もちろん、今回の検察の暴走も彼らがまともな勉強をしていたなら、もっと慎重であったのではないか。
私の願う社会とは、誰もが不安に陥らないように自由な研究ができて自由に発表されるような社会だ。私はそれを擬似的にフリーソフトの世界で味わった。もともと私はNECの傘下で働き、彼らのプログラムに制限されてきた。コンピュータも彼らの書く、意味不明なマニュアルを頼りにしなければならなかった。当然、不安になり、日々が不安との闘いだった。ちょうど、パーソナルコンピュータが台頭してくる時期だっただけにこちらに救いを求めたのが良かったと今でも思う。
私が飛びついたのは、リチャード・ストールマンのFSFだった。彼らは、フリーソフトでUNIXというOS互換のシステムを作ろうとしていて当時でもコンパイラもあり、無いのは全体をまとめるOSのみという段階だった。しかし、それもLinuxが出て広まり解決した。私も含めて多くの関係者が「不安」から解放されてメーカーの思惑に関係なく仕事を続けられるようになった。コンピュータの世界では、フリーソフトが救ったのだった。
同じように、医療問題でも政治でもあらゆる英知がフリーに解放されて「不安」を解消して欲しいと思うのだ。ipadが出てきて新聞もこの端末でと思う人もいるかもしれないが、新聞そのものがしょうもないので意味がない。これも人間が作っているだけに人間がまともになれば、真実が掲載される当たり前のものが出来るのではないかと思う。
昨日は、そこそこの体調だったのでひさびさのアキバ詣でをしようと思っていたがやめた。無駄遣いをする可能性が濃厚だったということもある。本当に欲しいと思うものを買わなければ、癒しにならないということもわかっているので良かったと思う。この2月から3月にかけて新製品が出ることはわかっている。それを見て手を出すのでも遅くはない。カメラやらパソコンだ。私にはネットが必需品なのでもっともっとのめり込めるマシンが欲しい。
それにしても、もう2月だ。
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