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強烈な寒さで始まった2010年の正月休みだが、今日で終わりだ。「心花」というグループと思いがけない出会いもあった。いつもよりもラッキーな正月だったと言えるだろう。
私は、基本的には経験しか信じない人間だが、時には迷うこともある。そういうときには、乙女のごとく占いを見たりする。石井ゆかり氏もよく書いているのだが、占いは「当たるも八卦当たらぬも八卦」であり、盲信することは慎むべきだ。ただ、迷っているならば一つの指針として利用してもいいのではないか、とは思う。ほんの2、3年前、大いに迷っていた時、「生き方」について教わったような気がした。こうした利用ならば、大きくは間違わないのではないか。
他人がピンチの時に私はいろんな方法をアドバイスすることができると思っているのだが、「うつ」の場合は、あまりにも繊細で細心の注意を要する問題なので、私の経験はあまり役に立たないことがわかった。現に、私は誰も救えてはいない。むしろ、無責任に薬を処方したインチキ医者の方が「いいことをした」かのようだ。
がんの痛みを研究している向山雅人氏の本を読んでいるのだが、私の今の考えに近いことが書かれている。つまり、鎮痛薬が効かないからといってあきらめるのではなく、現時点での薬の使い方を変えてみるという発想だ。ただ、これを悪用して向精神薬をあれこれ使ってみるという発想は、いただけない。向精神薬の場合は、ランダム化比較試験にパスしていないあまりにも危険な薬だからだ。
そうではなくて、薬以外の経験談で多くの人が役立ったという「経験」をあれこれ試してみるということだ。今までで私がくちばしをはさんでよい結果が得られたと思えるのは、瞑想だった。これも、私の気まぐれで手にした本がきっかけでたどり着いた「技」だった。スマナサーラ長老の本を目にしたのは、ちょうど私が迷いの中にある頃だったと思う。そこには、「怒り」が心を汚すというようなことが延々と書かれていた。よくわからないままに「いつくしみの瞑想」というものをやってみると、これがズバリ効いたのだった。
ある朝、目が覚めた時に自分の近しい人の幸せを祈る、ということがものすごく心地いいように思えたのだった。ただ、残念なことに、この瞑想で救われたのは私自身であった。自分が救われたからとってこれを他人にすすめたところで、「宗教はチョット・・・」とありがた迷惑な顔をされるのがおちだ。この国では、オウムの経験があまりにもマイナスに働いており、少しでも宗教色があるとそこから話は進まない。
だが、ある友人は私が送ったスマナサーラ長老の著作がドンピシャリとはまったみたいで、瞑想をするようになったそうだ。恐る恐るすすめたのだが、これほど役立つとは思ってもみなかった。とりあえず何でもやってみるという精神が自分を救い、近しい人も救うという経験をした最初だった。もちろん、「瞑想」も他に何もせずに念仏のように唱えれば解決というわけには行かないと思う。あくまでも不調のきっかけを解決したら、さらに役立つということではないか。
中旬から国会も始まる。別に義務があるわけではないのだが、私なりの提案も送る予定だ。厚労省や検察のとどめを刺さなければ民主党革命は挫折してしまうだろう。こちらの方面でも少しも気を抜けない状況だ。この社会を作り直すための知識も仕入れたい。
そして、私の仕事。年明けから、待ったなしの状況だ。行けばすぐにやらなければならないこともある。ただ、年内に面倒な作業は済ませてあるので、確認後、実行するのみだ。後は、少しだけ余裕も生まれるのではないか。春までが勝負だ。
前半は、touch pad的なコンピュータへの関心で時間を費やすことになるだろう。そして、松下の新型カメラに憧れつつ、夏頃には手を出すという状況が生まれることだろう。私たちの仕事が、ipodアプリとして続々と出てくれば、また仕事の励みとなるだろう。
占いにもあるのだが、私は年末あたりから知識欲に燃えている。やはり、コンピュータやプログラミングの勉強をもう一度みっちりやり直して、地盤を固めたいという思いがある。これがあやふやだと日々の仕事もふらついてしまうからだ。やる気がある以上、不安は無い。
私は、基本的には経験しか信じない人間だが、時には迷うこともある。そういうときには、乙女のごとく占いを見たりする。石井ゆかり氏もよく書いているのだが、占いは「当たるも八卦当たらぬも八卦」であり、盲信することは慎むべきだ。ただ、迷っているならば一つの指針として利用してもいいのではないか、とは思う。ほんの2、3年前、大いに迷っていた時、「生き方」について教わったような気がした。こうした利用ならば、大きくは間違わないのではないか。
他人がピンチの時に私はいろんな方法をアドバイスすることができると思っているのだが、「うつ」の場合は、あまりにも繊細で細心の注意を要する問題なので、私の経験はあまり役に立たないことがわかった。現に、私は誰も救えてはいない。むしろ、無責任に薬を処方したインチキ医者の方が「いいことをした」かのようだ。
がんの痛みを研究している向山雅人氏の本を読んでいるのだが、私の今の考えに近いことが書かれている。つまり、鎮痛薬が効かないからといってあきらめるのではなく、現時点での薬の使い方を変えてみるという発想だ。ただ、これを悪用して向精神薬をあれこれ使ってみるという発想は、いただけない。向精神薬の場合は、ランダム化比較試験にパスしていないあまりにも危険な薬だからだ。
そうではなくて、薬以外の経験談で多くの人が役立ったという「経験」をあれこれ試してみるということだ。今までで私がくちばしをはさんでよい結果が得られたと思えるのは、瞑想だった。これも、私の気まぐれで手にした本がきっかけでたどり着いた「技」だった。スマナサーラ長老の本を目にしたのは、ちょうど私が迷いの中にある頃だったと思う。そこには、「怒り」が心を汚すというようなことが延々と書かれていた。よくわからないままに「いつくしみの瞑想」というものをやってみると、これがズバリ効いたのだった。
ある朝、目が覚めた時に自分の近しい人の幸せを祈る、ということがものすごく心地いいように思えたのだった。ただ、残念なことに、この瞑想で救われたのは私自身であった。自分が救われたからとってこれを他人にすすめたところで、「宗教はチョット・・・」とありがた迷惑な顔をされるのがおちだ。この国では、オウムの経験があまりにもマイナスに働いており、少しでも宗教色があるとそこから話は進まない。
だが、ある友人は私が送ったスマナサーラ長老の著作がドンピシャリとはまったみたいで、瞑想をするようになったそうだ。恐る恐るすすめたのだが、これほど役立つとは思ってもみなかった。とりあえず何でもやってみるという精神が自分を救い、近しい人も救うという経験をした最初だった。もちろん、「瞑想」も他に何もせずに念仏のように唱えれば解決というわけには行かないと思う。あくまでも不調のきっかけを解決したら、さらに役立つということではないか。
中旬から国会も始まる。別に義務があるわけではないのだが、私なりの提案も送る予定だ。厚労省や検察のとどめを刺さなければ民主党革命は挫折してしまうだろう。こちらの方面でも少しも気を抜けない状況だ。この社会を作り直すための知識も仕入れたい。
そして、私の仕事。年明けから、待ったなしの状況だ。行けばすぐにやらなければならないこともある。ただ、年内に面倒な作業は済ませてあるので、確認後、実行するのみだ。後は、少しだけ余裕も生まれるのではないか。春までが勝負だ。
前半は、touch pad的なコンピュータへの関心で時間を費やすことになるだろう。そして、松下の新型カメラに憧れつつ、夏頃には手を出すという状況が生まれることだろう。私たちの仕事が、ipodアプリとして続々と出てくれば、また仕事の励みとなるだろう。
占いにもあるのだが、私は年末あたりから知識欲に燃えている。やはり、コンピュータやプログラミングの勉強をもう一度みっちりやり直して、地盤を固めたいという思いがある。これがあやふやだと日々の仕事もふらついてしまうからだ。やる気がある以上、不安は無い。
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