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ブログのリンクに「筋トレ」というのがあると思うが、これは、石井ゆかりという人がやっている占いサイトだ。石井氏自身は、占いは当たることもあれば、はずれることもあると割り切っている。つまり、信じていないという。にもかかわらずやるのは、人間が弱い存在だからだそうだ。自分ではどうにもならない現実を受け入れるために占いを使ってみるのだと。

私が柄にもなく占いをよく見るのは、まさに弱いからだ。自分が小心者でマザコンであることを誰よりもよく知っている。だから、強くなるために、何でも受け入れて利用したいと思うわけだ。未来のことなどわかるわけがないのだが、占いのようなことがあれば、こうしようかという判断くらいはできる。それだけでも心は落ち着き、冷静になれる。だとしたら、利用しない手はないだろう。

私が実際に利用するのは、人の性格とか行動パターンを見る時だ。週単位とか、月単位とかの占いは、適当に楽しんでいる。そこに興味あることが書かれていれば楽しい、それだけのこと。自分の目を信じて行動すればいいだけのこと。年単位など、ホントに?と言いつつ読めば楽しい。

私の冬の時代とも言える京都時代に星占いをよく見ていたのを思い出す。この時は、むしろ「今後どうなるのか」について関心があったと思う。仕事が無いという現実に対して、何とか明るい未来があると信じたかったのだ。近所には大きな書店が無かったので小さな書店をはしごしながら、毎夜、情報を得るためにさまよう中で私が手にしたのが宝島社の星占い本であった。向こう数年間の私の「未来」が描かれていて、本格的なものであるように思われた。

確か、この本にも書かれていたと思うが、「個人の努力」は占いには考慮されていないので、運命はそういう意味で個人個人、変わってくるのだそうだ。当時の私は、やる気満々だったが、これといった技術も無かった。私の現実は、本屋の裏方の仕事ならば多少わかる程度だった。それでいて、「安定した」仕事に就きたかったのだ。大学の職員に応募したこともあった。むろん、私の「努力」はことごとく報われなかった。結局、父の不調の知らせが入る80年代の終わりまでアルバイトを繰り返す日々だった。

今から46年前、まだ、2歳にもなっていない私は死の間際にあった。ちょうど田植えの季節で家の側を流れる川は増水されていて勢いも強かった。「水遊び」が好きだった私は当然のように遊びに出てそして、足もとをすくわれたのか流されてしまった。その時の記憶かどうか定かではないが、水の中から太陽を見た時の光景が今でも私の心の中に残っている。しばらくは暴れたかもしれないが、母の記憶ではうつぶせで流されていたという。

母が気がつくのが早かったため、まだ泳いで救いに行ける距離だった。祖父が母の悲鳴を聞いてすぐに川に飛び込んで私を救ってくれたのだという。すぐに祖父が抱きかかえてくれ、体温が上がるようにしてくれたようだ。水を吐かせるべきだったのだろうが、その頃の私は今と違って食い意地が張っていて「シガーフライ」というお菓子を口いっぱいにほおばっていたそうだ。そのため、ほとんど水を飲んでおらずほどなく意識を回復したそうだ。なんと手にもそのシガーフライを握っていたという。医者が到着した時には走り回っていたそうだ。

2歳にも満たない年齢の体力からすると3分以内に発見されなければ私は助からなかった。そして、その時間内に発見され、救助要員にも恵まれ、私は助けられた。そして、その後も相変わらずの不器用な人生をこれまで歩んできた。私を助けてくれた祖父は、あまり勤勉な人ではなかったようだ。ごく若い頃から「隠居」を決め込み、仕事もしていなかった。しかし、私を助けるためにだけその一生が与えられたのだとすると納得できるものがある。

それまで母は、祖父に対して嫌悪感を感じていた。仕事もせず、かといって孫の面倒を見るでもなく日々、ゴロゴロして酒を飲んだくれる生活だったからだ。しかし、この事件以降、その悪感情は一変して「感謝」するようになったのだという。嫌悪から感謝へはなかなか変更できる感情ではなく、革命的でさえある。奇跡としか言いようがない。祖父の一生を考える時、それは最高にして最大の名誉なことではなかったかと思えるのだ。

私は、その祖父に生前、特に感謝することもなく、むしろぞんざいに扱っていたくらいで、罰当たりな人間で生きてきた。その報いは、まだまだこれからじんわりと受けることになるのかもしれない。自分が辿ってきた道であるだけにそれは甘んじて受け止めようと思っている。

占いとは関係なく私は、自分の役割ということをいつも強く感じて生きてきた。京都時代もそれは同じ事だった。私は、いつも仕事をすることを望んでいたが仕事が無かった。その頃、かの任天堂で何らかの仕事をしていれば、そこそこのことはできていたかもしれない。だが、現実には数ヶ月しては辞めというアルバイト生活の連続だった。仕事を望んでいるにもかかわらず、仕事が与えられないということは、私の役割は無いのだと思い、26歳の頃、実際に死にかけたこともあった。

「自殺」というところまで行っていないのだが、栄養失調から始まり、ひどい睡眠不足に陥った。仕事にあぶれていたので、食事もしなくていいと思い込み食べないことをときたまやっていたら具合が悪くなったのだ。当時は、運も悪かったが、頭も悪かったようだ。眠れないということが激しくこたえてしまい、どうしてもこれを逃れたいという気持ちだった。そして、それには死ぬしかないと思われた。

私を最悪の事態から救ったのは、私自身の葬式の風景をイメージしたことだった。ある夜の夢であったのかもしれない。親戚のおばさんが泣いているという光景だった。私は、近しい人を悲しませるようなことはできないと思った。不思議にその日以来、食事も普通に摂りだし、仕事も見つけて、バイクの免許もとり、大きく回復に向かって動き出したのだった。浪人時代に次ぐピンチだったように思う。

私の役割というのは、いろいろあると思うがやはり、コンピュータと宇宙の結びつけだろうか。テレビで見たドキュメンタリーに影響されているわけでもないが、これからの人類は、地球生命から宇宙生命へとならなければならないと考えている。地球は、やがて惑星としての役割を終えるからだ。終わるといっても私の一生などとてもかなわない位、数億年の長さがあるのだが、終わることは変えられない宇宙のリズムのようだ。

10数年前、他人よりもひどく遅くなったが私もコンピュータを扱う人間の仲間入りを果たした。まだ宇宙を視野に入れた仕事はできていないが、願いは必ずかなうものとして私は生きることにしている。なにしろ私には、「やる気」があるのだから。私にやる気が続く以上、今の仕事も発展させ、新たな仕事にも乗り出したい。そして、多少は強くなり、パートナーを再度呼び寄せて新しい仕事にかかれればと思っている。

自分の弱さを誰よりも知っている私としては、やることはただ一つ、「挑戦」だ。停滞や保守はあり得ない。今の自分の器量で負けることがあれば、負けないように努力し、必要ならば猛勉強もするだろう。その意欲は誰にも負けるつもりはない。知恵をつけてくれるものならば、占いでも宗教でも思想でも漫画でも何でも受け入れる。自分の視点さえ確保していれば、恐いものなどない。避けなければならないことは、狂信的に受け入れてしまい、同化してしまうことだ。これまでのところ、そんなことは一度もなかった。「挑戦」と「思考停止」は基本的に相容れないのではないか。

このように考えつつ生きれば、なかなか人生も楽しくなるのではないかと思うようになっている。私の人生もいつ突然、終わりを告げられるかもしれないがその時はその時だろう。腹が立つこともあれば、寂しいときもあり、甘えたくなる時もある。だが、あえて未来の目的のために忘れるようにしている。「弱さ」を売り物にするつもりはないが、自分の限界を常に意識し感じ、知ることは大事だと思う。そこを見極めなければ、進歩も発展も無いと思うからだ。虚勢はこれまでもこれからも私の人生には無縁のものだと思っている。
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