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50を目前にして年甲斐もないかもしれないのだが、「愛」とは何なのかを知りたいと思う。ほとんどの人は、結婚したことが愛であり、別れると愛が終わったと表現するのではないかと思う。しかし、古来、言われている愛とはそんなものなのだろうか。そういう思いが私にはずっと昔からあり、未だにひとりのままだ。
恋愛を多く経験しても「愛」は得られるものではないようだ。不幸なことだが、親友のこれまでを見ているとそう感じてしまう。必ずしも、幸福な経験ばかりではなかったかもしれないが、十分な経験を積んだ親友でさえも「離婚」という厳しい試練が待っていた。京都で知り合った友人もそうだった。
アニメの見過ぎかもしれないが、私にとって情熱的なことと言えば、男と女の出会いであり、「家族」の付き合いではない。この国の「家」と「家」の結合のような結婚の儀式は、そもそも合わないのかもしれない。嫁さんの家族が嫌だというわけではないのだが、メインでは無いというだけのことだ。原始林の中で出会った一人の男と一人の女、そんなイメージで考えているということだ。だから、「家」の志向で結婚すると、やがては私が蒸発するハメになるのではないかと思う。
恋愛経験の少ない私でも京都時代、大きなことがあった。親父も心配するほどの大失恋だったようだ。親父は「去る者は追うな。」と励ましてくれたのだが、確かにそうだった。世の中の女がすべて私の好意を受け入れてくれるのならいいのだが、現実には「そこ」こそが難しいところなのだ。食欲も失うほどだったので相当なものだったように思う。
しかし、あの時、一方的な思い込みが成就して結婚していたらほぼ、クラスメートと同じくらいのペースでお父さんになっていたと思うが、離婚の危機もあったのではないか。それは、あくまでも一方的な思い込みであり、「愛」ではないからだ。私のことだから、またそこで大きな挫折を味わっていたのではないかと思う。それは、私の親友や京都の友人の場合とそう変わらないものではないか。
小学校の1年からほのかな恋心のようなものを抱き、高校卒業まで常に好きな相手はいたが、一度も伝えたことはなかった。そんなことは恥ずかしすぎてできなかったのだろうし、その術がわからなかったと思う。岡山に帰ってそのお目当ての彼女に「実は」ということを今でも話せないくらいだ。私も意外とノーマルに、当たり前の恋愛を志向し、結婚もできることならと思いつつ生きてきたのだろうと思う。
ただ、ハタと戸惑ってしまうのは、「愛」の意味だ。丹波哲郎がまだ生きていた頃は、テレビでよく「結婚は、合わない者同士がするものだ」と言っていた。したがって結婚していない人は、その「苦役」を免除されているという意味で「霊格」が高いのだという。まれに、結婚によって周囲を幸せにするカップルがあり、そういう場合は、「あの世」まで一緒なのだそうだ。もしかすると、それが、「愛」の姿なのだろうか。確かに私のようなつきあいの少ない人生の中でも、そういう夫婦は見たことがある。
私が「愛」にこだわるのは、ズバリ「飽きっぽい」からだと思う。最近では、「離婚」が珍しくはないのだが、それは、「離婚」できる理由があってのことだろう。「飽きたから」では、さすがに通用しないように思う。私ならば、そういう場合「蒸発」したくなるのではないか。ネットを見ていると、そういう場合、男は浮気に走ることもあるようだ。必ず、そういうことはバレるので、また、そこから厳しい人生が始まるようだ。確かに結婚とは「試練」のような気がする。
私の疑問に答えてくれるかどうかわからないが、「オニババ化する女たち」という本に興味深いことが書かれているようだ。私は、テキパキと動くことができない人間なので、「ボーとしている」ことが保てる結婚であればいけるのではないかと思う。仕事については生涯やり続けるつもりなのでその点は、評価されるかもしれない。
実は、クラスメートの女性から「セックスレス」についての相談を受けたこともあった。久しぶりに会ったことの懐かしさもあって、うっかり口をすべらせたのかもしれない。もう、1年以上は会っていないので「ヤバイ」と思っているのかもしれない。私に限っては、そんなことはあり得ないと答えておいた。ただ、嫁さんと子供の母親との区別は誰も初めて経験することだ。難しいのだろうと思う。子供ができたから、もうしないということもあるのだろうが、普通の男ならばそれではもたない。上記の本には、その種のことが書かれているのだろうか。ますます、興味を引かれる。
夫婦のことはなかなか聞くこともできないし、結婚していなければ経験もできない。ただ、私が耳にしたことは離婚とセックスは密接に関係しているということだ。これがうまく行かなければ結婚の持続は難しいのだということをおぼろげながら理解している私だ。
恋愛を多く経験しても「愛」は得られるものではないようだ。不幸なことだが、親友のこれまでを見ているとそう感じてしまう。必ずしも、幸福な経験ばかりではなかったかもしれないが、十分な経験を積んだ親友でさえも「離婚」という厳しい試練が待っていた。京都で知り合った友人もそうだった。
アニメの見過ぎかもしれないが、私にとって情熱的なことと言えば、男と女の出会いであり、「家族」の付き合いではない。この国の「家」と「家」の結合のような結婚の儀式は、そもそも合わないのかもしれない。嫁さんの家族が嫌だというわけではないのだが、メインでは無いというだけのことだ。原始林の中で出会った一人の男と一人の女、そんなイメージで考えているということだ。だから、「家」の志向で結婚すると、やがては私が蒸発するハメになるのではないかと思う。
恋愛経験の少ない私でも京都時代、大きなことがあった。親父も心配するほどの大失恋だったようだ。親父は「去る者は追うな。」と励ましてくれたのだが、確かにそうだった。世の中の女がすべて私の好意を受け入れてくれるのならいいのだが、現実には「そこ」こそが難しいところなのだ。食欲も失うほどだったので相当なものだったように思う。
しかし、あの時、一方的な思い込みが成就して結婚していたらほぼ、クラスメートと同じくらいのペースでお父さんになっていたと思うが、離婚の危機もあったのではないか。それは、あくまでも一方的な思い込みであり、「愛」ではないからだ。私のことだから、またそこで大きな挫折を味わっていたのではないかと思う。それは、私の親友や京都の友人の場合とそう変わらないものではないか。
小学校の1年からほのかな恋心のようなものを抱き、高校卒業まで常に好きな相手はいたが、一度も伝えたことはなかった。そんなことは恥ずかしすぎてできなかったのだろうし、その術がわからなかったと思う。岡山に帰ってそのお目当ての彼女に「実は」ということを今でも話せないくらいだ。私も意外とノーマルに、当たり前の恋愛を志向し、結婚もできることならと思いつつ生きてきたのだろうと思う。
ただ、ハタと戸惑ってしまうのは、「愛」の意味だ。丹波哲郎がまだ生きていた頃は、テレビでよく「結婚は、合わない者同士がするものだ」と言っていた。したがって結婚していない人は、その「苦役」を免除されているという意味で「霊格」が高いのだという。まれに、結婚によって周囲を幸せにするカップルがあり、そういう場合は、「あの世」まで一緒なのだそうだ。もしかすると、それが、「愛」の姿なのだろうか。確かに私のようなつきあいの少ない人生の中でも、そういう夫婦は見たことがある。
私が「愛」にこだわるのは、ズバリ「飽きっぽい」からだと思う。最近では、「離婚」が珍しくはないのだが、それは、「離婚」できる理由があってのことだろう。「飽きたから」では、さすがに通用しないように思う。私ならば、そういう場合「蒸発」したくなるのではないか。ネットを見ていると、そういう場合、男は浮気に走ることもあるようだ。必ず、そういうことはバレるので、また、そこから厳しい人生が始まるようだ。確かに結婚とは「試練」のような気がする。
私の疑問に答えてくれるかどうかわからないが、「オニババ化する女たち」という本に興味深いことが書かれているようだ。私は、テキパキと動くことができない人間なので、「ボーとしている」ことが保てる結婚であればいけるのではないかと思う。仕事については生涯やり続けるつもりなのでその点は、評価されるかもしれない。
実は、クラスメートの女性から「セックスレス」についての相談を受けたこともあった。久しぶりに会ったことの懐かしさもあって、うっかり口をすべらせたのかもしれない。もう、1年以上は会っていないので「ヤバイ」と思っているのかもしれない。私に限っては、そんなことはあり得ないと答えておいた。ただ、嫁さんと子供の母親との区別は誰も初めて経験することだ。難しいのだろうと思う。子供ができたから、もうしないということもあるのだろうが、普通の男ならばそれではもたない。上記の本には、その種のことが書かれているのだろうか。ますます、興味を引かれる。
夫婦のことはなかなか聞くこともできないし、結婚していなければ経験もできない。ただ、私が耳にしたことは離婚とセックスは密接に関係しているということだ。これがうまく行かなければ結婚の持続は難しいのだということをおぼろげながら理解している私だ。
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