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私の持っている、「図説 昭和の歴史」(集英社刊)によると、「学歴社会」というのは、明治が始まった頃からあったという。理由も今と同じようなもので、「いい学校」に行けば「いいところ」に就職の機会が増え、結果的に幸福な人生を送れるということだ。現代の母親も娘や息子に、より「いい学校」に行かせたいことだろう。

「お受験」に書いたように、私は、こういう社会を変えたいと思っている。「いい学校」というのは存在しなくて、あくまでも「個人」の問題に過ぎないと思う。私が通った進学校も「いい学校」だったが、その中身は劣化した教師が大半だった。既に私の世代の頃でも教師の劣化が始まっていたのだ。今ならもっと激しい劣化が起きていると見るべきだろう。

世の中には、勉強した人とそうでない人しかいない。しかし、「受験」というしくみを設けたために、勉強が好きでなくとも「資格」をとることが可能になった。勉強を生業とする仕事でなければ問題は起こらないのだが、勉強が好きでない人間が教師という職業を選んだ時が不幸の始まりなのだった。

こうした世の中の流れを変えるには、大学を卒業することが「無意味」なものにすることしかないと思う。大卒だが、どの程度の実力なのかは自分で証明するしかないというようにする。企業が新人を採用する際には、企業の人事部の判断で採用する他なくなる。現在の基準ならば、4年間大学へ通っているならば、その「忍耐力」を評価するようにするとかになるだろう。

言うまでもなく、本当の勉強とは大学を離れた所から始まる。大学へ通うことの良さは、知りたいことはどこで知識を得られるのかの知識を得られるかもしれないという点だ。学問は、自己の疑問点をどんどん追究することにその本質がある。決して、「忍耐」という個人的な修業にあるのではない。それは、個人の研究であっても歴史的にとらえて共同研究としなければならない。自分のこれまでの知識とて独自に開発したものなどほとんど無く、受け継がれてきた英知を自己のものとして消化した結果なのだ。

学問が、そういう性格のものだということになれば、今後、「学歴社会」というものは崩れていかないだろうか。つまり、最終的には個人の判断でしかないということだ。大学を卒業しても「クソの役にも立たない」人間がほとんどという現実を考えると大卒ということにあまり重きを置かないことだ。学問は、どこまで行っても能動的にやるもので「教わる」ものではないのだ。「お受験」で得られることは「学歴」という幻想であって実態ではない。目を覚まして欲しい。
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