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あまり悩まないでいい仕事ばかりやっているとマンネリに陥り、やる気を失う。ヘタをすると仕事そのものの意欲さえ失いかねない。だからといって難しいことに挑戦すると、これまたやる気を失ってしまい、仕事もやる気がなくなる。どちらを選んでも仕事を辞めることになってしまう。多くの人は、どちらともつかず絶妙のバランスで仕事を続けているのだろう。
フリーソフトのOSとWindows、Macなどの商用OSとの違いは、「手当て」の有無だと前に書いたのだが、まだあった。フリーソフトでは、1ファイルの設定を誤っただけでも二度と立ち上がらなく可能性があるということ。たとえば、ubuntuでもxorg.confというX Window Systemの設定ファイルをいじるとGUI部分が立ち上がらなくなる。もちろん、コンソールの部分は残るので救援の余地はあるのだが、文字を大きくする設定がしてあるようでこの間は困った。エディタで設定ファイルを修正しようにも画面からはみ出ていて修正できそうにもないのだった。諦めて再インストールしようかと思ったところ、なんとかViエディタを使い、設定を修正でき事なきを得た。
フリーソフトは、まさに文字通り壊すことも自由にできる厳しい面がある。設定ファイルをいじるのも自由なのだが、よく知らないと私のように痛い目に遭うことになる。この点はいくら強調しておいてもいいと思う。逆に、そこさえ理解しておけば、これほど楽しいものはないということになる。フリーソフトのOSを使うことの醍醐味はここにあるのだ。また、ここを境に理解も深まって行くことになる。フリーソフトのOSを扱うには、設定ファイルをいじれてなんぼなのだ。
私の仕事は、「文字」が相手だ。だから、OSだけをいじっていれば仕事になるというものではない。むしろ、テキストを扱うプログラミングができる方が有利だ。ただ、データを仕上げる過程でサーバーも使うことになるのでOSの知識も必然的に必要になる。これまでは、おもしろいというのでやってきたがその中身は、必要な作業だったと言える。しかも、やる気を出させるという意味でも大きかったのだった。
年末から年始にかけて、ubuntuをやっていると前に書いたがFreeBSDの無骨さに比べるとやりやすいが、詳しいことを知らないでやるという意味では同じ程度の難しさはあると感じている。詳しくやろうとすると結局は、深いことまで知る必要がある。そうなると、とても「お手軽」とは行かない。まだ、このubuntuに「これは使えない」と感じたことは無いのだが、もし感じたら止めるつもりだ。それまでは何とか育ててみたいと思う。仲間にも使って欲しいし、そうなるととっつきやすいと思うからだ。
フリーソフトのOSはインターネットの発展と共に進化して発展してきた。それ故に、このOSを使うことは非常に名誉に感じる。商用ではないにもかかわらず立派に仕事にも使えることや、プログラミングとかコンピュータに向き合う姿勢という意味でお手本になる。FreeBSDを開発してきた人々は、インターネットの流儀というものを守ってきた。ソースコードの公開だ。そして、バグの報告があれば商用のOSよりも早いスピードで対応してきた。フリーソフトだから、その点勘弁してというのではなく、ある種の誇りを持っているのだ。その点もフリーソフトのOSをいじる理由がある。
そして、これは、現実の仕事とも結びつくところだと思うが、フリーソフトのOSをやるときに出くわす難題がある。マニュアルとか解説とかの通りではないということだ。途中で仕様変更があったり、勘違いがあったり、単純な誤記があったりしてそうなるのだと思う。いずれにせよ、目の前の記述の通りにやってもうまく動かないことがある。初心者は、たいていここでダウンしてしまう。私もどれだけダウンしてしまったことか!
しかし、書いていないことを探してあれこれやってみるとたいていの場合、うまく行く。ここが楽しい所でもある。正しいやり方が見つかるまでのモヤモヤ感、イライラ感は非常に苦痛で体調を崩すこともあるくらいだ。微妙に心理的なジャブにもなり、もう仕事は嫌だという気分にもなるのだ。
考えてみれば、こんなことは仕事でもあるし、ゲームでもある。だから、私はゲームをすることを推奨している。ゲームは、試行錯誤を勉強する絶好のお遊びなのだ。だから、ゲームは使用説明書などを読んでやってはいけない。まず始めることが大事なのだ。そして、五里霧中の中で法則なりルールを見つけ前に進んで行く。この過程は、フリーソフトのOSを学ぶ過程、そのものなのだ。
私が日々感じている仕事でのジレンマをぜひ、この試行錯誤の鍛錬を通じて発展的に解消できないかと思う。ゲームでもネイティブ・アメリカンフルートでもいい。知らないことをやって、うまく行かない経験をより多く重ねて欲しいと思う。しかし、その苦しさに負けてはいけない。苦しいことを楽しむのだ。耐えられない苦痛ではない。やがては解決できることなのでしばらく耐えるだけでいいのだ。それだけでしばらく後に大きな幸福感が得られる。
フリーソフトのOSとWindows、Macなどの商用OSとの違いは、「手当て」の有無だと前に書いたのだが、まだあった。フリーソフトでは、1ファイルの設定を誤っただけでも二度と立ち上がらなく可能性があるということ。たとえば、ubuntuでもxorg.confというX Window Systemの設定ファイルをいじるとGUI部分が立ち上がらなくなる。もちろん、コンソールの部分は残るので救援の余地はあるのだが、文字を大きくする設定がしてあるようでこの間は困った。エディタで設定ファイルを修正しようにも画面からはみ出ていて修正できそうにもないのだった。諦めて再インストールしようかと思ったところ、なんとかViエディタを使い、設定を修正でき事なきを得た。
フリーソフトは、まさに文字通り壊すことも自由にできる厳しい面がある。設定ファイルをいじるのも自由なのだが、よく知らないと私のように痛い目に遭うことになる。この点はいくら強調しておいてもいいと思う。逆に、そこさえ理解しておけば、これほど楽しいものはないということになる。フリーソフトのOSを使うことの醍醐味はここにあるのだ。また、ここを境に理解も深まって行くことになる。フリーソフトのOSを扱うには、設定ファイルをいじれてなんぼなのだ。
私の仕事は、「文字」が相手だ。だから、OSだけをいじっていれば仕事になるというものではない。むしろ、テキストを扱うプログラミングができる方が有利だ。ただ、データを仕上げる過程でサーバーも使うことになるのでOSの知識も必然的に必要になる。これまでは、おもしろいというのでやってきたがその中身は、必要な作業だったと言える。しかも、やる気を出させるという意味でも大きかったのだった。
年末から年始にかけて、ubuntuをやっていると前に書いたがFreeBSDの無骨さに比べるとやりやすいが、詳しいことを知らないでやるという意味では同じ程度の難しさはあると感じている。詳しくやろうとすると結局は、深いことまで知る必要がある。そうなると、とても「お手軽」とは行かない。まだ、このubuntuに「これは使えない」と感じたことは無いのだが、もし感じたら止めるつもりだ。それまでは何とか育ててみたいと思う。仲間にも使って欲しいし、そうなるととっつきやすいと思うからだ。
フリーソフトのOSはインターネットの発展と共に進化して発展してきた。それ故に、このOSを使うことは非常に名誉に感じる。商用ではないにもかかわらず立派に仕事にも使えることや、プログラミングとかコンピュータに向き合う姿勢という意味でお手本になる。FreeBSDを開発してきた人々は、インターネットの流儀というものを守ってきた。ソースコードの公開だ。そして、バグの報告があれば商用のOSよりも早いスピードで対応してきた。フリーソフトだから、その点勘弁してというのではなく、ある種の誇りを持っているのだ。その点もフリーソフトのOSをいじる理由がある。
そして、これは、現実の仕事とも結びつくところだと思うが、フリーソフトのOSをやるときに出くわす難題がある。マニュアルとか解説とかの通りではないということだ。途中で仕様変更があったり、勘違いがあったり、単純な誤記があったりしてそうなるのだと思う。いずれにせよ、目の前の記述の通りにやってもうまく動かないことがある。初心者は、たいていここでダウンしてしまう。私もどれだけダウンしてしまったことか!
しかし、書いていないことを探してあれこれやってみるとたいていの場合、うまく行く。ここが楽しい所でもある。正しいやり方が見つかるまでのモヤモヤ感、イライラ感は非常に苦痛で体調を崩すこともあるくらいだ。微妙に心理的なジャブにもなり、もう仕事は嫌だという気分にもなるのだ。
考えてみれば、こんなことは仕事でもあるし、ゲームでもある。だから、私はゲームをすることを推奨している。ゲームは、試行錯誤を勉強する絶好のお遊びなのだ。だから、ゲームは使用説明書などを読んでやってはいけない。まず始めることが大事なのだ。そして、五里霧中の中で法則なりルールを見つけ前に進んで行く。この過程は、フリーソフトのOSを学ぶ過程、そのものなのだ。
私が日々感じている仕事でのジレンマをぜひ、この試行錯誤の鍛錬を通じて発展的に解消できないかと思う。ゲームでもネイティブ・アメリカンフルートでもいい。知らないことをやって、うまく行かない経験をより多く重ねて欲しいと思う。しかし、その苦しさに負けてはいけない。苦しいことを楽しむのだ。耐えられない苦痛ではない。やがては解決できることなのでしばらく耐えるだけでいいのだ。それだけでしばらく後に大きな幸福感が得られる。
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