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このところ、結構シンドイ日々が続いている。どうも睡眠がうまくとれず仕事中に激しい睡魔に襲われるのだ。単に眠たいだけならば、いいのだが頭の調子も悪いのが苦しいのだ。経験が無いわけではないが、調子が戻るためにはいろんな「しかけ」や「仕込み」が必要だ。
そんな時、「生きる」ということをしみじみと考えてしまう。私のように不健康な人間は、たとえ明日死んだとしてもそう驚くべき事ではない。結局、栄養があまり摂れていなかったのだろう、という説明もつくかもしれない。しかし、私の父などはそういう話は通用しない人間だった。食べるし、眠るし、とにかく元気だった。死ぬなど考えたこともなかったのだ。それが、20年前にガンで死んでしまった。母にも私にもこれは驚きでしかなかった。
いったい人はいつまで生きればいいのだろうか。80歳?90歳?あるいはもっとか。私は、まわりの人には元気で長生きするように言うのだが、自分についてはからきし自信が無い。毎日が楽しくないというわけではないのだが、こう、シンドイ日々が続くと「どうでもええわ」と思うこともある、ということだ。マンネリを嫌う私としては、こういう無為な時間が続くと弱いのだ。
人はいつまで生きるべきかと言えば、恐らく寿命までというのが答えになるだろう。今なら、90歳近くまで生きないと寿命と言えないようになってきている。病気をしても治されてしまい簡単には死ねなくなっているからだ。しかし、生をまっとうできるのかといえば、これが難しい。ガンになっても今ならいろんな医者に診てもらうことは可能だが、あらゆる手を尽くしても治せないとなると見捨てるのが今の「医療」なのだ。医者としての哲学も無く医者を作ったこの国の行き着く先は、これだったのだ。
もちろん、このような冷たい医療は根本的に改善して行かなければならない。手だてがない時こそ、手厚い看護が必要なのだから。私は、この国をそういう温かい国になおすまでは見届けて死にたいと思っている。高齢者の生き方を学ぶ必要があると思う。80を超えてなお元気な人には特徴があるように見える。淡々と生きているということ。あまり、クヨクヨと悩んでいないように見える。私もこれを大いに見習いたいと思っている。80を超えて生きる場合には、風邪とか骨折とか誤嚥とか何でもないことに注意しなければならない。若い頃には死ぬようなことではないことで死が迫ることもあるからだ。そして、それさえ注意しておけば、自然とお迎えは来る。まさに眠るようにだ。
私も目標はそこにおいてこれからもシンドイ世の中を生きるつもりだ。仕事がシンドイと思うのだが、逆に無いことを思うとまだシンドイ方がいいように思う。近所に大勢の高齢者がいるのだが、日々退屈のようでもある。60で定年とは健康な人には早すぎる引退だろう。これからのこの国では、希望すれば60を超えてもバリバリ働けるようにして行きたいものだ。
私は、経営者といえども資金力が無い。しかし、仕事はたくさんあると思っている。自分の仕事もそうなのだが、医療に教育にものつくりにたくさんの人手が必要なのだ。それが、なぜか「合理化」ということで人が仕事できない環境になっている。私が喘いでいた岡山でもそうだ。経営者は、「給料を払う」ことばかりに着眼して生み出すことを考えていないのだ。もちろん、私もその一人だ。生み出せないことの苦しみも実はある。
せっかくの政権交代だ。誰もが楽しく、寿命まで生きられる社会を目指して生きるのみだ。次の選挙までの間に、「これは・・・」と思えるような目に見える変化があれば、立場の違いを超えて生きる元気が出てくるのではないかとも思う。私であれば、大学の自由化だが、仮にそれが無くとも年金が無事に返還されるめどがつくだけでもとりあえずの安心感は出るだろうと思う。私もあと15年でリタイヤの年代だ。引退するつもりなどないのだが、周りは「はよう、辞めりゃええのに!」と思うかもしれない。私にも老いや死は必ずやって来る。それまでに何をするかなのだ。
そんな時、「生きる」ということをしみじみと考えてしまう。私のように不健康な人間は、たとえ明日死んだとしてもそう驚くべき事ではない。結局、栄養があまり摂れていなかったのだろう、という説明もつくかもしれない。しかし、私の父などはそういう話は通用しない人間だった。食べるし、眠るし、とにかく元気だった。死ぬなど考えたこともなかったのだ。それが、20年前にガンで死んでしまった。母にも私にもこれは驚きでしかなかった。
いったい人はいつまで生きればいいのだろうか。80歳?90歳?あるいはもっとか。私は、まわりの人には元気で長生きするように言うのだが、自分についてはからきし自信が無い。毎日が楽しくないというわけではないのだが、こう、シンドイ日々が続くと「どうでもええわ」と思うこともある、ということだ。マンネリを嫌う私としては、こういう無為な時間が続くと弱いのだ。
人はいつまで生きるべきかと言えば、恐らく寿命までというのが答えになるだろう。今なら、90歳近くまで生きないと寿命と言えないようになってきている。病気をしても治されてしまい簡単には死ねなくなっているからだ。しかし、生をまっとうできるのかといえば、これが難しい。ガンになっても今ならいろんな医者に診てもらうことは可能だが、あらゆる手を尽くしても治せないとなると見捨てるのが今の「医療」なのだ。医者としての哲学も無く医者を作ったこの国の行き着く先は、これだったのだ。
もちろん、このような冷たい医療は根本的に改善して行かなければならない。手だてがない時こそ、手厚い看護が必要なのだから。私は、この国をそういう温かい国になおすまでは見届けて死にたいと思っている。高齢者の生き方を学ぶ必要があると思う。80を超えてなお元気な人には特徴があるように見える。淡々と生きているということ。あまり、クヨクヨと悩んでいないように見える。私もこれを大いに見習いたいと思っている。80を超えて生きる場合には、風邪とか骨折とか誤嚥とか何でもないことに注意しなければならない。若い頃には死ぬようなことではないことで死が迫ることもあるからだ。そして、それさえ注意しておけば、自然とお迎えは来る。まさに眠るようにだ。
私も目標はそこにおいてこれからもシンドイ世の中を生きるつもりだ。仕事がシンドイと思うのだが、逆に無いことを思うとまだシンドイ方がいいように思う。近所に大勢の高齢者がいるのだが、日々退屈のようでもある。60で定年とは健康な人には早すぎる引退だろう。これからのこの国では、希望すれば60を超えてもバリバリ働けるようにして行きたいものだ。
私は、経営者といえども資金力が無い。しかし、仕事はたくさんあると思っている。自分の仕事もそうなのだが、医療に教育にものつくりにたくさんの人手が必要なのだ。それが、なぜか「合理化」ということで人が仕事できない環境になっている。私が喘いでいた岡山でもそうだ。経営者は、「給料を払う」ことばかりに着眼して生み出すことを考えていないのだ。もちろん、私もその一人だ。生み出せないことの苦しみも実はある。
せっかくの政権交代だ。誰もが楽しく、寿命まで生きられる社会を目指して生きるのみだ。次の選挙までの間に、「これは・・・」と思えるような目に見える変化があれば、立場の違いを超えて生きる元気が出てくるのではないかとも思う。私であれば、大学の自由化だが、仮にそれが無くとも年金が無事に返還されるめどがつくだけでもとりあえずの安心感は出るだろうと思う。私もあと15年でリタイヤの年代だ。引退するつもりなどないのだが、周りは「はよう、辞めりゃええのに!」と思うかもしれない。私にも老いや死は必ずやって来る。それまでに何をするかなのだ。
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