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盆前くらいからだが、書店の受験参考書売り場をうろつくことが多くなった。数学とか物理・化学を中心に参考書をパラパラめくっては、希望するものが無く、立ち去るということの繰り返しだ。
東京に、30年前私が使った受験参考書を持ってきているのだが、それと比べて現在の受験参考書は劣化していると感じている。私が受験生時代に感じた疑問を記述した参考書は、ちょっと見あたらない。特に数学にそれが著しい。受験数学は、「直感的に理解する」のだと私が使った参考書に書いてあるのだ。つまり、これを知っていないと必要以上に深入りしてしまうことになる。私が深入りしたので「落ちた」と言うつもりはないが、深入りしてしまったことは事実だ。Z会という通信添削をやっていたのだが、そこが関連していた参考書を浪人時代に購入してやっと気がついたということだ。
そのZ会も今や立派になって書店に大量の参考書を並べるほどに成長している。これは、この国の堕落した姿だと私は思うのだが、ほとんどの人はそうは思わないだろう。しかし、Z会の参考書ならばと思って見てみたが、私が当時抱いていたような疑問に答えてくれる参考書など無かった。参考書まで劣化しているのかと思った。
私は、高校3年になってから受験の準備をしたわけではなく、既に1年の頃から本屋をうろつくことが好きだった。もちろん、1年、2年の間は受験にこだわることなく数学なら数学一般の本でより興味の持てる内容の本が無いか常に探していた。浪人も3年になると高校生時代のように図書館に行ったりして、より深い研究を志していた。
トラウマというのは、今、参考書を眺めていると当時の私の流浪というか受験からの暴走が思い出されいたたまれなくなるのだ。もちろん、当時は自分が間違ったことをしているなど思いもしなかった。興味に赴くまま、「必死に勉強して」いたわけだ。ただ、受験の常識からは大きく外れた「勉強」のようだった。それ故に、私の中ではより深刻なのだ。
今は、仕事をして大学など諦めているかのような顔をしているが、これがそうでもないところが恐いところだ。私が、当面の激しいトラウマから離脱できたと感じたのは、35、6歳の頃だったと思う。今の仕事をこれからもやって行こうと強く思った時、もう受験生時代に味わった屈辱はどうでもいいことだと思えた。つい最近まで、これでトラウマは克服できたと信じていたのだが、昔の受験参考書をこちらに持ってきたり、数学の読み物を買ったりし出した頃からちょっと怪しくなってきたのだった。
最近になって受験参考書売り場をうろつくようになったのは、もしかするとそういう自分は、本当のところどうなのかを確認したかったのかもしれない。そして、私の結論は、まだまだトラウマから離脱できてはいないのではないかということだ。確かに、30代の後半まで受験のことを思い出す場面に出くわすと気も狂わんばかりに興奮する自分があった。制御不能というほどではないのだが、いわゆる「ヤバイ」感じになる自分を感じるのだった。私の言い分は、「やる気のある自分が、なぜやる気の無い連中に負けなければならないのか?」ということだった。勝ち負けではないかもしれないが、一方は大学へ行き仕事を見つけ、一方は行けず、仕事にも苦労した。これが勝ち負けと言わずしてなんなのかと思うわけだ。
ところで、私が激しく攻撃する受験競争の「勝者」は、大学が自由化すると不満だろうか?なぜなら、自分たちは大学受験という競争試験に「勝って」来たという自負があるだろう。この「特殊能力」は買われるべきだと思っていると思う。少なくとも、受験に敗れた私などとは「決定的な差」が歴然と存在すると思うだろう。私としては、その通りであり、学問をして行く上でこの研究をするためには、これを知っておかねばならない、さらにこれをやるにはこれについて知りたいとかの勘や意欲が生涯、持続的に続くのであれば、「資格あり」だと思う。
だが、私が攻撃する受験秀才たちは、大学の4年あるいは医学部では6年が限界なのだ。それ以上は必要ないとさえ思っているのではないか。彼らには、学問をやる資格など無いと思う。むしろ、実業の世界で金儲けにいそしんでもらった方が本人にも社会にとっても幸福ではないかと思う。「大学卒」などという免罪符をもらったためにこの社会を劣化させひいては、本人の人生さえも狂わせる結果につながる、とさえ思う。
私が指摘するまでもないのだが、学問は「終わることのない営為」だ。生きている限り、疑問を持ち、調べ、まとめ、挑戦するという作業だ。人生の中のほんの数年で終わると思うこと自体が既に不適格なのだ。もちろん、考えを改めて学問に専心することもいいことだと思う。ただし、そこにこそ「やる気」が必要とされる。「少年老い易く学成り難し」とは、本当によく言ったもので年齢を重ねる度に新しい知識には挑戦しにくくなる。就職に有利だからと大学へ迷い込んでみてもとてもおぼつかないわけだ。
私のトラウマが解消される日は来るだろうか。どうも、その道は厳しいのだが、少なくとも私は、大学は自由化されるべきだと言い続けて死ぬだろうと思う。コンピュータと接してからは、こちらを勉強をすればええわと思いつつも天文学とかロケット工学をやることが後の頭脳を育てるためにもいいのではないかとも思う。とにかく未知への挑戦というのが学問の醍醐味なのだから、私がコンピュータのことをすべて理解しているわけではないにもかかわらず、これで終わりたくはないと思うのも当然のことだ。
東京に、30年前私が使った受験参考書を持ってきているのだが、それと比べて現在の受験参考書は劣化していると感じている。私が受験生時代に感じた疑問を記述した参考書は、ちょっと見あたらない。特に数学にそれが著しい。受験数学は、「直感的に理解する」のだと私が使った参考書に書いてあるのだ。つまり、これを知っていないと必要以上に深入りしてしまうことになる。私が深入りしたので「落ちた」と言うつもりはないが、深入りしてしまったことは事実だ。Z会という通信添削をやっていたのだが、そこが関連していた参考書を浪人時代に購入してやっと気がついたということだ。
そのZ会も今や立派になって書店に大量の参考書を並べるほどに成長している。これは、この国の堕落した姿だと私は思うのだが、ほとんどの人はそうは思わないだろう。しかし、Z会の参考書ならばと思って見てみたが、私が当時抱いていたような疑問に答えてくれる参考書など無かった。参考書まで劣化しているのかと思った。
私は、高校3年になってから受験の準備をしたわけではなく、既に1年の頃から本屋をうろつくことが好きだった。もちろん、1年、2年の間は受験にこだわることなく数学なら数学一般の本でより興味の持てる内容の本が無いか常に探していた。浪人も3年になると高校生時代のように図書館に行ったりして、より深い研究を志していた。
トラウマというのは、今、参考書を眺めていると当時の私の流浪というか受験からの暴走が思い出されいたたまれなくなるのだ。もちろん、当時は自分が間違ったことをしているなど思いもしなかった。興味に赴くまま、「必死に勉強して」いたわけだ。ただ、受験の常識からは大きく外れた「勉強」のようだった。それ故に、私の中ではより深刻なのだ。
今は、仕事をして大学など諦めているかのような顔をしているが、これがそうでもないところが恐いところだ。私が、当面の激しいトラウマから離脱できたと感じたのは、35、6歳の頃だったと思う。今の仕事をこれからもやって行こうと強く思った時、もう受験生時代に味わった屈辱はどうでもいいことだと思えた。つい最近まで、これでトラウマは克服できたと信じていたのだが、昔の受験参考書をこちらに持ってきたり、数学の読み物を買ったりし出した頃からちょっと怪しくなってきたのだった。
最近になって受験参考書売り場をうろつくようになったのは、もしかするとそういう自分は、本当のところどうなのかを確認したかったのかもしれない。そして、私の結論は、まだまだトラウマから離脱できてはいないのではないかということだ。確かに、30代の後半まで受験のことを思い出す場面に出くわすと気も狂わんばかりに興奮する自分があった。制御不能というほどではないのだが、いわゆる「ヤバイ」感じになる自分を感じるのだった。私の言い分は、「やる気のある自分が、なぜやる気の無い連中に負けなければならないのか?」ということだった。勝ち負けではないかもしれないが、一方は大学へ行き仕事を見つけ、一方は行けず、仕事にも苦労した。これが勝ち負けと言わずしてなんなのかと思うわけだ。
ところで、私が激しく攻撃する受験競争の「勝者」は、大学が自由化すると不満だろうか?なぜなら、自分たちは大学受験という競争試験に「勝って」来たという自負があるだろう。この「特殊能力」は買われるべきだと思っていると思う。少なくとも、受験に敗れた私などとは「決定的な差」が歴然と存在すると思うだろう。私としては、その通りであり、学問をして行く上でこの研究をするためには、これを知っておかねばならない、さらにこれをやるにはこれについて知りたいとかの勘や意欲が生涯、持続的に続くのであれば、「資格あり」だと思う。
だが、私が攻撃する受験秀才たちは、大学の4年あるいは医学部では6年が限界なのだ。それ以上は必要ないとさえ思っているのではないか。彼らには、学問をやる資格など無いと思う。むしろ、実業の世界で金儲けにいそしんでもらった方が本人にも社会にとっても幸福ではないかと思う。「大学卒」などという免罪符をもらったためにこの社会を劣化させひいては、本人の人生さえも狂わせる結果につながる、とさえ思う。
私が指摘するまでもないのだが、学問は「終わることのない営為」だ。生きている限り、疑問を持ち、調べ、まとめ、挑戦するという作業だ。人生の中のほんの数年で終わると思うこと自体が既に不適格なのだ。もちろん、考えを改めて学問に専心することもいいことだと思う。ただし、そこにこそ「やる気」が必要とされる。「少年老い易く学成り難し」とは、本当によく言ったもので年齢を重ねる度に新しい知識には挑戦しにくくなる。就職に有利だからと大学へ迷い込んでみてもとてもおぼつかないわけだ。
私のトラウマが解消される日は来るだろうか。どうも、その道は厳しいのだが、少なくとも私は、大学は自由化されるべきだと言い続けて死ぬだろうと思う。コンピュータと接してからは、こちらを勉強をすればええわと思いつつも天文学とかロケット工学をやることが後の頭脳を育てるためにもいいのではないかとも思う。とにかく未知への挑戦というのが学問の醍醐味なのだから、私がコンピュータのことをすべて理解しているわけではないにもかかわらず、これで終わりたくはないと思うのも当然のことだ。
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