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仕事も学問も広く門戸を開いた方が良さそうだ。学問はなおさらそういう気がする。しかし、学問は、「収入」と結びつき別の意味を持つようになってしまった。いつからかは定かではないのだが、私の世代よりも前から、学問を志す者の「劣化」が始まっている。現在の劣化は恐るべきものがある。医療に教育に福祉において、信じられないような事件が起こっていることと無関係ではないと思う。
菅直人へメールしたのだが、国家としては「やる気」のある人間の能力を利用しなければ損だ。しかし、そこには競争が出てくる。大学受験がいい例で、いつからか試験を施してその点数が高い者を入学許可するようにした。これならば、目に見える評価なのでよほどのからくりでもないと不正はできない。現在までも続いているくらいだから、よほどうまく機能しているのだろう。
ただ、受験制度が機能していることと、成果が効果を生んでいるかどうかは別問題だ。現代の「大卒」の質があまりにも低劣だからだ。これは、大学が4年ならば4年通えば、よほどの間抜け以外は卒業できるシステムになっているからに他ならない。言うまでもなく、4年で学問が修得できたような気持ちになるのは一種の新興宗教に過ぎない。
大学受験は、確かにあまねく門戸を広げた。もっとも重大な弱点は、「大学に入りさえすればええんじゃろう。」という勢力にまで開放した点だ。中国の科挙もそうだったと思うが、最初はいい制度でも段々と自己流に解釈利用する勢力が出てくるので制度そのものが機能しなくなる。さらに言えば、学問に興味が無くても試験にさえ受かれば大学に行けてしまうのだ。現代日本の弱点は、ここにある。
いつの時代からか、大学は卒業しておいた方がその後、企業に入ってからの収入が違ってくるということに気がついた人がいたのだろう。その結果、大学に行きたいというニーズが受験産業を育てたのだった。この国にとって不幸だったのは、受験のための勉強はほとんど役立たないものだったことだろう。やること自体は無意味ではないものの、学問の発展とか、未来に向けての進歩に役立つというものではないのだ。どこまで行っても「果実」を食べるものでしかなく、受験が終われば消滅する記憶に過ぎない。
もっとも、大学受験を「学問に興味の無い者」をカットするためのフィルターにすればいいではないかという案もあるかもしれないが、それは難しいと思う。一個の人間が学問を営むかどうかという問題を試験という一回のテストで判断すること自体が無理なのだ。学問を瞬間的な判断能力と考えれば、不可能ではないかもしれないが、言うまでもなく学問は「終わることのない営為」なのだ。そうは思わないという者を不合格にすればいいのだろうが、合格するためには、皆、「そう思う」と答えることだろう。まさに、大学受験の原点にもなるような問答だ。
結果的に、学問をするということにフィルターはかけられないということになる。私の従来の主張では、大学受験では計れない「才能」もあるという押しの弱いところがあったのだが、フィルターを設けた瞬間に、興味が無い者にも門戸を広げてしまうという問題が出てくる、という問題提起の方が強いのではないか。そして、その問題は大学受験をセンター入試に変えたくらいで解決するようなことではないのだ。学問の問題は、始めてから生まれるものなので、学問を始める前の入学試験の段階ではチェックしようがないとも言える。
はっきり言うと、やってみて続けられる者が「有資格者」ということだ。私が最初に受験をした頃の大学教授は、そのことをよく知っていたように思う。大学受験で計れるのは、学習をよくするかどうかなのだそうだ。学力試験が高い者ほどよく講義に出るしよく勉強するのだが、それだけだという。要するに、課題が無いと何もしない、できないということだ。確かに私ならば、気に入った教授の講義にしか出ないだろうし、気分が乗った時しか勉強しないだろう。
今後、問題となるのは、では、学問に興味が無い者は大学に行くべきではないのかということと、企業が基準にする「資格」が無くなるという点だ。後者は、企業に任せていいと思うが、企業の人間がそもそも劣化しているので今後は、相当な混乱があることだろう。人間さえ育てられない企業がほとんどだろうと思うからだ。前者は、本人のみが判断できることだが、試しに行ってみて興味を持ったということになれば、本人にとっても国家にとっても大もうけではないかと思う。
しかし、これまでのように大学に合格したことが「特殊能力」だと思う人には、許し難い「変化」だろうと思う。しかも、大学へ通っても何の資格ももらえないとなるとさらに困惑することだろう。そのようなぬるい制度をここまで引っ張った結果が今だということを示せばわかってもらえるのだろうか。今後は、小学生の段階から学問とは考えることだと教えて行く他ないのではないかと思っている。大学を卒業することで「大卒」では、あまりにも惨めな自負心ではなかろうか。
学問とは、個人の一生を保障する営みではない。永遠に続く共同作業だと定義されるべきものだ。この国のように利己的な営みとされる時、その発展は阻害され、国家自体も劣化して行く。学問を制限するものがあるとすれば、「やる気」だけだ。やる気があっても成就できるかどうかわからないのだ。ましてや、やる気も無いのに修得できると思う方に無理があるのではないか。
菅直人へメールしたのだが、国家としては「やる気」のある人間の能力を利用しなければ損だ。しかし、そこには競争が出てくる。大学受験がいい例で、いつからか試験を施してその点数が高い者を入学許可するようにした。これならば、目に見える評価なのでよほどのからくりでもないと不正はできない。現在までも続いているくらいだから、よほどうまく機能しているのだろう。
ただ、受験制度が機能していることと、成果が効果を生んでいるかどうかは別問題だ。現代の「大卒」の質があまりにも低劣だからだ。これは、大学が4年ならば4年通えば、よほどの間抜け以外は卒業できるシステムになっているからに他ならない。言うまでもなく、4年で学問が修得できたような気持ちになるのは一種の新興宗教に過ぎない。
大学受験は、確かにあまねく門戸を広げた。もっとも重大な弱点は、「大学に入りさえすればええんじゃろう。」という勢力にまで開放した点だ。中国の科挙もそうだったと思うが、最初はいい制度でも段々と自己流に解釈利用する勢力が出てくるので制度そのものが機能しなくなる。さらに言えば、学問に興味が無くても試験にさえ受かれば大学に行けてしまうのだ。現代日本の弱点は、ここにある。
いつの時代からか、大学は卒業しておいた方がその後、企業に入ってからの収入が違ってくるということに気がついた人がいたのだろう。その結果、大学に行きたいというニーズが受験産業を育てたのだった。この国にとって不幸だったのは、受験のための勉強はほとんど役立たないものだったことだろう。やること自体は無意味ではないものの、学問の発展とか、未来に向けての進歩に役立つというものではないのだ。どこまで行っても「果実」を食べるものでしかなく、受験が終われば消滅する記憶に過ぎない。
もっとも、大学受験を「学問に興味の無い者」をカットするためのフィルターにすればいいではないかという案もあるかもしれないが、それは難しいと思う。一個の人間が学問を営むかどうかという問題を試験という一回のテストで判断すること自体が無理なのだ。学問を瞬間的な判断能力と考えれば、不可能ではないかもしれないが、言うまでもなく学問は「終わることのない営為」なのだ。そうは思わないという者を不合格にすればいいのだろうが、合格するためには、皆、「そう思う」と答えることだろう。まさに、大学受験の原点にもなるような問答だ。
結果的に、学問をするということにフィルターはかけられないということになる。私の従来の主張では、大学受験では計れない「才能」もあるという押しの弱いところがあったのだが、フィルターを設けた瞬間に、興味が無い者にも門戸を広げてしまうという問題が出てくる、という問題提起の方が強いのではないか。そして、その問題は大学受験をセンター入試に変えたくらいで解決するようなことではないのだ。学問の問題は、始めてから生まれるものなので、学問を始める前の入学試験の段階ではチェックしようがないとも言える。
はっきり言うと、やってみて続けられる者が「有資格者」ということだ。私が最初に受験をした頃の大学教授は、そのことをよく知っていたように思う。大学受験で計れるのは、学習をよくするかどうかなのだそうだ。学力試験が高い者ほどよく講義に出るしよく勉強するのだが、それだけだという。要するに、課題が無いと何もしない、できないということだ。確かに私ならば、気に入った教授の講義にしか出ないだろうし、気分が乗った時しか勉強しないだろう。
今後、問題となるのは、では、学問に興味が無い者は大学に行くべきではないのかということと、企業が基準にする「資格」が無くなるという点だ。後者は、企業に任せていいと思うが、企業の人間がそもそも劣化しているので今後は、相当な混乱があることだろう。人間さえ育てられない企業がほとんどだろうと思うからだ。前者は、本人のみが判断できることだが、試しに行ってみて興味を持ったということになれば、本人にとっても国家にとっても大もうけではないかと思う。
しかし、これまでのように大学に合格したことが「特殊能力」だと思う人には、許し難い「変化」だろうと思う。しかも、大学へ通っても何の資格ももらえないとなるとさらに困惑することだろう。そのようなぬるい制度をここまで引っ張った結果が今だということを示せばわかってもらえるのだろうか。今後は、小学生の段階から学問とは考えることだと教えて行く他ないのではないかと思っている。大学を卒業することで「大卒」では、あまりにも惨めな自負心ではなかろうか。
学問とは、個人の一生を保障する営みではない。永遠に続く共同作業だと定義されるべきものだ。この国のように利己的な営みとされる時、その発展は阻害され、国家自体も劣化して行く。学問を制限するものがあるとすれば、「やる気」だけだ。やる気があっても成就できるかどうかわからないのだ。ましてや、やる気も無いのに修得できると思う方に無理があるのではないか。
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