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ルソーの言う「一般意志」というのをタイトルにしてみたが、いまだ正確な意味を知らない。全体の意志、多数の意志というようにぼんやりとらえているだけのことだ。この国では、8月30日にその「一般意志」が示されるかどうかわからない。
「国家」とは、互いに財産や自由、生命を認め合う者同士の共同体であるという考えは、そうだろうなと思う。ただし、カルト政権のように、国家とは、一部の特権階級だけがおいしい思いをするための、「仮の姿」であるという定義も可能なのだろう。その場合、高名なルソーの定義に反しているではないか、と言ってみたところで空しいだけだ。この国では、「実行支配」という現実が優先される。問題は多々あっても、現実にはカルト政権が支配しているのだから、従ってもらう、ということだ。
カルト政権による「年金詐欺」をきっかけにして、ようやくこの国のカルトも解けそうになりつつあるが、まだまだ動機としては弱いように思う。8月30日までには、あっさりカルト政権のポチになっているかもしれない。なぜなら、この国のしくみを作り直すという動機には、まだまだ超えなければならないハードルがいくつもあるような気がするからだ。
第一に、ほとんどの人は、逮捕された経験など無い。国家がいきなり個人を逮捕することなど無いと思っている。しかし、恐ろしいもので、国家から見れば、個人の命などあほらしいほど軽い。60数年前の戦争では、原子爆弾による被害の甚大さよりも、「国家体制」が守れるかどうかを小田原評定していたという事実からそれを理解できる。個人の生命を奪うなど国家から見れば、蚊を殺すことよりもたやすいことなのだ。「専門家」に任せておけば大丈夫という発想は危険だ。そのつけは、いつか自分がわけもわからず逮捕されるという形で現れる。もちろん、そうなってからでは遅いのだ。
第二に、ほとんどの人はカルト政権の仕打ちに対してそんなに怒らない。「年金詐欺」に対しては、厚労省の年金課の連中は「死刑」に値すると私などは思うが、多くの人は許すのではないだろうか。もちろん、許さないならば、カルト政権をとにかくつぶすしかないのだ。この点について、「迷い」などは無いと思うのだが。
第三に、がんばれば良くなると考えている人がほとんどだろうと思う。良くなると私も思うが、それがこれまでのことなのであった。つまり、良くなるとは、特定の人だけであり、大部分の人は生涯、貧乏で苦しく、非業の死を遂げるということ。自分で未来を選択しなければ、少なくとも自分にとって良い未来などは無い。いい世の中は、いい会社組織とも似ている。努力に応じた報酬があれば、それなりに満足するものだ。しかし、カルト政権がこのまま続けば、努力に応じた報酬はどんどん減るばかりだ。
第四に、この国では古くから誰かが天下をとればいいのではないかと思いこまれている。こういう考えがあったからこそ、自民党というカルトな政権が独裁を続けられたのではないか。それに、石橋湛山という私も私淑する思想家が籍を置いていた時代もあったくらいで、実態も本当に自由と民主的な気風があったと想像できる。しかし、恐らくは、今騒がれている「世襲」の繰り返しにより人間の「劣化」が始まった。こうした事態は、民主党が政権をとっても必ず起こるので、知恵として「交換」可能な政治システムを作っておくことがこの地球で長生きできる秘訣ではないかと思う。「天下」は、誰かがとるのではなくて、決める我々にあることを忘れてはいけない。この国が、共同体と考えるならば、なおさらだ。今さら戦国時代には戻りたくないものだ。
第五に、無関心。投票率が90パーセントを超えてもいいくらい、今はこの国のピンチにある。しかし、カルト政権の国民飼い慣らし政策で国民は政治に無関心に育てられている。マスゴミも重要なことを一切報道しないシステムでずっと慣らされている。これでは、政治に関心を持つことは難しいし、カルト政権がどんな無茶をやっても怒れないわけだ。それどころか、消費税をあげてください、などとほざくバカもいるくらいだ。ヨーロッパ型の生活必需品には消費税を課さないというやり方も一度やってみる価値はあると思う。現実には、これがベストではないかと私は感じている。低所得者には、生活保護の規定があるとされるが、現実には生活保護を受けさせまいとする公務員がいたり、生活保護者から詐欺的にお金をとろうという業者もいるのだから。お金が無くとも明るく生きられる社会がいいのではないか。
(つづく)
「国家」とは、互いに財産や自由、生命を認め合う者同士の共同体であるという考えは、そうだろうなと思う。ただし、カルト政権のように、国家とは、一部の特権階級だけがおいしい思いをするための、「仮の姿」であるという定義も可能なのだろう。その場合、高名なルソーの定義に反しているではないか、と言ってみたところで空しいだけだ。この国では、「実行支配」という現実が優先される。問題は多々あっても、現実にはカルト政権が支配しているのだから、従ってもらう、ということだ。
カルト政権による「年金詐欺」をきっかけにして、ようやくこの国のカルトも解けそうになりつつあるが、まだまだ動機としては弱いように思う。8月30日までには、あっさりカルト政権のポチになっているかもしれない。なぜなら、この国のしくみを作り直すという動機には、まだまだ超えなければならないハードルがいくつもあるような気がするからだ。
第一に、ほとんどの人は、逮捕された経験など無い。国家がいきなり個人を逮捕することなど無いと思っている。しかし、恐ろしいもので、国家から見れば、個人の命などあほらしいほど軽い。60数年前の戦争では、原子爆弾による被害の甚大さよりも、「国家体制」が守れるかどうかを小田原評定していたという事実からそれを理解できる。個人の生命を奪うなど国家から見れば、蚊を殺すことよりもたやすいことなのだ。「専門家」に任せておけば大丈夫という発想は危険だ。そのつけは、いつか自分がわけもわからず逮捕されるという形で現れる。もちろん、そうなってからでは遅いのだ。
第二に、ほとんどの人はカルト政権の仕打ちに対してそんなに怒らない。「年金詐欺」に対しては、厚労省の年金課の連中は「死刑」に値すると私などは思うが、多くの人は許すのではないだろうか。もちろん、許さないならば、カルト政権をとにかくつぶすしかないのだ。この点について、「迷い」などは無いと思うのだが。
第三に、がんばれば良くなると考えている人がほとんどだろうと思う。良くなると私も思うが、それがこれまでのことなのであった。つまり、良くなるとは、特定の人だけであり、大部分の人は生涯、貧乏で苦しく、非業の死を遂げるということ。自分で未来を選択しなければ、少なくとも自分にとって良い未来などは無い。いい世の中は、いい会社組織とも似ている。努力に応じた報酬があれば、それなりに満足するものだ。しかし、カルト政権がこのまま続けば、努力に応じた報酬はどんどん減るばかりだ。
第四に、この国では古くから誰かが天下をとればいいのではないかと思いこまれている。こういう考えがあったからこそ、自民党というカルトな政権が独裁を続けられたのではないか。それに、石橋湛山という私も私淑する思想家が籍を置いていた時代もあったくらいで、実態も本当に自由と民主的な気風があったと想像できる。しかし、恐らくは、今騒がれている「世襲」の繰り返しにより人間の「劣化」が始まった。こうした事態は、民主党が政権をとっても必ず起こるので、知恵として「交換」可能な政治システムを作っておくことがこの地球で長生きできる秘訣ではないかと思う。「天下」は、誰かがとるのではなくて、決める我々にあることを忘れてはいけない。この国が、共同体と考えるならば、なおさらだ。今さら戦国時代には戻りたくないものだ。
第五に、無関心。投票率が90パーセントを超えてもいいくらい、今はこの国のピンチにある。しかし、カルト政権の国民飼い慣らし政策で国民は政治に無関心に育てられている。マスゴミも重要なことを一切報道しないシステムでずっと慣らされている。これでは、政治に関心を持つことは難しいし、カルト政権がどんな無茶をやっても怒れないわけだ。それどころか、消費税をあげてください、などとほざくバカもいるくらいだ。ヨーロッパ型の生活必需品には消費税を課さないというやり方も一度やってみる価値はあると思う。現実には、これがベストではないかと私は感じている。低所得者には、生活保護の規定があるとされるが、現実には生活保護を受けさせまいとする公務員がいたり、生活保護者から詐欺的にお金をとろうという業者もいるのだから。お金が無くとも明るく生きられる社会がいいのではないか。
(つづく)
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