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毎年、この季節になるとどうしても親父のことを思い出す。20年前の今頃は何をしていたのかとか。7月も終わりの今は、痛みが激しくなりモルヒネの量を増やしていた頃ではないかと思う。「こんなにえれん(しんどい)なら、死んだ方がましじゃ。」とまで言っていた。口にはしなかったのだが、自分はガンで、もう助からないとわかっていたのだと思う。

今ならば、ビタミンCの点滴療法とか放射線とか免疫療法とかいろいろやってみると思うのだが、当時の私には絶望的なまでに知識が無かった。ただ、「お医者様」の言うとおりにやがて来る、「死」を待つのみだった。岡山大学の医学部ならば、当時でももっといろんなことができたとは思うのだが、最初から、「治す」ような治療はしなかった。肝臓の動脈にガンがあるので、どうしようもないということだった。確かに、主治医にとってはどうしようもないことだったと思う。現在ならば、「おめえには頼まんわ!」と啖呵を切ってよその病院へ行くところだが。

最近知った知識だが、ガンの治療では「敗者復活戦」は存在しないという。最初の治療が決定的に重要だという。してみると、私の父の運命は最初から決まっていたに等しいものだったのだ。死ぬのを待っていたのだから。このことを知った時には、今さらながら激しい後悔の思いにかられた。当時のことなので、寿命が数ヶ月延びただけに過ぎなかったかもしれないのだが、何もせずに死をまつよりもお互いに納得できたと思う。そして、なによりも「ガン」と聞いて恐れおののくだけという状態からは解放されていたのではないかと思う。

あの暑い夏の日、お袋は、親父がガンで死ぬことになることを知って激しく泣いていた。葬式が終わっても悲しみは癒えることはなかった。その次の年も、次の年も法事の度に泣き崩れた。ある日突然、つれあいが、ガンで末期だと知らされると、本人でなくともこれほどの衝撃となるわけだ。親父は、本当に元気でたくましい男だったので私も親父の「死」など考えたこともなかった。お袋が激しく反応するのも当然だった。私も、主治医に助からないことを告げられた帰り道に、無性に涙が止まらなかったことを覚えている。

もし、ガンになった場合、むやみに医者を信用せず、徹底的に自分で納得できる治療を探すことが大事だそうだ。弱った体でもインターネットとか街の本屋の医学コーナーくらいは行く元気はあるだろう。そして、最低でも4人くらいの医者に診てもらい意見を聞いてみることだ。ただ、一抹の不安はある。それは、医者の劣化だ。ちょうど私と同じような世代の医者が今、現役で活躍していると思うが、とにかく知識も経験も少ない。現在、この国では医者の絶対数は多いそうだが、「使える」医者は少ないそうだ。ガンに対していい医者がいても診てもらえるとは限らないのが難点だ。

昔のように、痛みをがまんしたり、食事をおろそかにしたりしては絶対いけないそうだ。人はガンで死ぬのではなく、栄養失調で死ぬことになるからだ。「痛み」も体の抵抗力を失うことにつながってしまう。ガンであっても普通に食べて、痛みも激減できる治療をやらなければならないということだ。その点においては妥協してはいけないと思う。20年前、我が家を襲ったガンだが、私たちは精神的にも、医学知識としても準備ができていなかった。20年前でも60歳は、死ぬ歳ではなかった。だから、なおさら「どうして」という思いが強かった。

大学病院は、死後の解剖を拒むことを許さなかった。大学病院は入院と同時に死後は解剖を暗黙のうちに認めたことになるらしい。主治医は、「大学病院ですし」と強調していた。最初は、解剖を認めていても目の前の事態に混乱して解剖を拒む遺族がほとんどなのだと思う。我が家もそうだったが、主治医に食い下がられて認めたのだった。岡山大学は、この解剖では大したデータは得られていないと思うのだが、後日、結果をちゃんと教えなかったことを抗議する文書を送りつけても何の応答も無かった。「どうでもいい」結果だったからではないだろうか。

解剖は、結果的には良かったようだ。腹水がたまっていたり、肝臓が倍以上にふくれあがっていたりして、葬式の時に破裂することも考えられたからだった。その意味では良かったのだが、翌日、引き取りに行った時には、たまげた。なんと、冷蔵庫に入れられていてかちんこちんだったからだ。家庭用のではなく、遺体を保存する専用のものなのだが、冷たいということにとにかく驚いてしまった。この時に、主治医が口頭で解剖結果を伝えてくれただけなのだが、内容は「子供の報告」だった。解剖をすることが目的であったかのようだった。岡山大学は、今ではけっこうがんばっているようだが、当時は、しょうもないことしかしていなかった。

私にとってどうしても許し難かったのは、親父がガンで死ななければならなかったことだ。岡山大学の説明不足は、八つ当たりだったかもしれない。そして、その治療は治療ではなくホスピスに近いものだったことも後から考えれば、考えるほど腹の立つことだったと思う。だから、タクシーの運転手のように徹夜をやったりする職業はガンになりやすいのか、疫学的な調査をやってくれと書いた記憶がある。今の知識では、そういうこともあるだろうが、人によるとしか言えないだろう。私もそうなのだが、親父もストレスに弱い体質であった。やけのやんぱちはやるのだが、ねばり強く抵抗するという姿勢、体質には欠けている。

今、私は過去の反省をし、今後に生かそうとしている。ガンについての知識はどんどん貪欲に取り入れようとしているし、食生活も和食中心に極力心がけている。親父にはできなかったが、私の近しい人がガンになったら、私は持てる知識の全てを投入するつもりだ。医学的な知識はもちろんだが、精神的なたよりになれたらいいと思う。自分がガンになったらもちろんのことだが、自分を落ち着けるためにもさらに知識を得ようと努力するだろうと思う。ガンは、ガンで死ぬよりも「ガンは助からない」という思い込みが激しく寿命を縮めているように思えてならない。私自身は、少なくともそういうことにならないようにしたいと思う。

親父の遺体が自宅に届いてから、何時間も私はそばを離れなかったように思う。この時、この瞬間を忘れまいとしてよく見ておこうと思ったのだった。この時を感情的になるよりも、生涯忘れることのないようにという思いだった。親父の死は、私に人間としての感情を改めて認識させてくれた瞬間だった。生来、私は「不感症」な人間だった。祖父や祖母の死に際して、ほとんど感情は無かったくらいだ。当然、父親の時もそうだと予想された。しかし、実際には深い悔恨の思いがめぐり、熱い涙がとめどもなくあふれることを止めることができなかった。

今年もまた8月が来る。それまでには、仕事の仕上げ、会社の決算処理という大きなハードルがあるのだが私は余裕を持って仕上げるだろうと思う。もちろん、根拠のない自信だ。今は、そんなことで心の平衡を保っている。カメラもいいのだが、「ご褒美」は、マイケルの笛になるかもしれない。やはり、心落ち着く逸品となると「笛」の方が勝ってしまいそうだ。8月になっての注文となりそうだ。秋口には届くだろうと思う。
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