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私は大学へは行けなかったのだが、わりと長い期間、大学のキャンパスで仕事をしたことがある。京都府立医科大学(府立病院)と京都大学だ。後者は、行きたかった大学なので、仕事をしている間も非情にうらやましく思ったものだった。

京大は、古い大学なので大昔の建物とわりと新しい建物が混在していて興味深かった。今は、さすがにきれいになっていると思うが法学部の地下には誰でも入れるスペースがあり、ちょっと破れたソファーがあったりして私たちはそこでよく昼食を食べていた。トイレも水洗ではあるが、個室は、しゃがみ込むタイプのもので薄暗い。当然、夏になると蚊が来襲してひどいものだった。しかし、勉強をするところと考えれば、特に気にはならないだろう。

浪人時代、何年浪人しても合格がかないそうにもない時、ふと、こんな妄想をすることがあった。ある年、私は大学に合格する。誰もがびっくりする「奇跡」の合格だった。しかし、今で言う「卒業」も間近の頃になって、「合格」が間違いだったことがわかり、合格の取り消し、大学を追放になる。私は、もともと「卒業」が欲しかったわけではなく、勉強することが目的だったので、この数年間をどうしてくれると思いつつも、得たものの方が大きいのであっさり大学には別れを告げて就職の道を探すというものだ。

何年浪人しても合格は難しいと私が感じたのは、好奇心の問題だ。誰もが好きで大学受験の勉強をするわけではないだろうが、私の場合は特に受験勉強には興味が無かった。本物の勉強につながるのだからという意味でやっていたに過ぎない。よせばいいのに、無限の概念を知ろうとしたり、原子の存在する理由を理論的に知ろうとしたりしていた。日本語そのものにも興味があり、「活用形」はなぜ生まれたのかということを調べたりしていた。

知っての通り、こういう「勉強」をしていたのでは大学には合格できない。大学受験というのは、「落とす」ための試験なので、そこに「理論」を求めたら泥沼に陥ることになる。要は、出題者の意図に沿うことにある。渦中にあった私は、そんなことに気がつくはずもなかった。ただ、勉強したい、それだけの受験生に過ぎなかった。残念ながら、そんな「まじめな」意図は、大学受験では試されることはない。当時の受験生は、皆、そんなことは当たり前だったのだろうか。

ともかく、大学受験競争で大敗した私はクラスメートからも大きく出遅れてしまい、浪人3年目で出席した「同窓会」では激しい違和感を感じたものだった。クラスメートは、既に3年も未来に進んでいるのに私は、もう「過去の人」状態だったのだ。大学には、どういう勉強をするのかが明確にわかっている者が行くべきだという私の考えをぶつけられたあるクラスメートは本気で怒っていた。おちゃらけていて怒った顔など見たこともない彼が本気で怒っていたので、私の言うことは図星だったのだろう。

誇り高き男の私としては、自分は3浪もしているが、信念を持って生きているという自負があったのかもしれない。(だからこそ、恥ずかし気もなく同窓会に出席したのだ。)もう、何度も書いたことだが、あるクラスメートは私に心地よいことを言ってくれた。「おめえは、偉いのう。そうやって今でも夢を追求しとんじゃけ。」と。決して皮肉ではなかった。そんなことを言う相手ではなかったからだ。自分は、希望を曲げて「入れる大学、学部へ入った」ことを恥じての発言だった。だが、彼のような認識のクラスメートは他にはいなかったのではないかと思う。誰もが、流されて、大学の雰囲気を楽しんでいる様子だった。

私を批判する人間の言い分は皆、判で押したように同じだ。「悔しかったら、大学へ入ってみい!」。私の一番できなかったことなので、見事に痛い所を突いているわけだ。もちろん、現時点でも私には合格は無理だと思う。それは、「能力が無い」のではなく、出題者の意に沿うことをやらないからだと思う。私の興味は、そこにはないのだ。今のような受験制度がある限り、私が大学に合格しそうにもないことがわかる。それ故に、この制度そのものを変えたらどうかと政治家に懇願しているわけだ。

問題は、私のようなタイプの受験生を救って大学へ行かせてどうなるかということだろう。もちろん、私自身は、自信があるので「やってやる!」と鼻息も荒くなるが、「民はよらしむべし、知らしむべからず」と考える人間は、逆に私のようなタイプを闇に葬りたいのではないか。そういう考えの総和がこの国を形作っているので、今のような受験体制が何年も続いている。私自身が調べたところでは、明治の時代から受験競争はあったという。(集英社『図説 昭和の歴史』で読んだことがある。)

この国の支配者は、やはり、現カルト政権のように強い者(アメリカ)にはしっぽを振り、弱い者(国民のほとんど)には威圧的に出るという性格だと言うべきだと思う。実は、これは7世紀の初めに「日本」という国家が出現してから、少しも変わっていない。直進的で柔軟性が無く、侵略的な国家だったということらしい。先の戦争で大敗し、侵略的ではなくなったが、対内的には威圧的で硬直している。どういう国を作るかにもよるのだが、この国の大半を占める勤勉でまじめな国民性を生かす大学のあり方を考えてみる必要はあるのではないかと私は思っている。

私は、浪人を切り上げてから、しばらくは放心状態で仕事も手に付かなかった。京都での7年間は、衝撃を癒す期間だったとも言える。その後、自分の就職活動の成果でもあったが、拾われて今の仕事にありついている。能力的には未知数だったが、独学で何とかわかるようになった。仕事をして経済活動に参加するには、必ずしも大学は必要ではなかった。歴史やコンピュータ、医学のことでさらに詳しく大学で研究したいという色気はあるのだが、私の生涯では実現しないかもしれない。

だが、次の100年を考えた場合は、私の都合にかかわらず、せひとも誰でもいつでも、何年でも研究できる、研究組織としての大学を、今、こしらえておく必要があるように思う。誰でも行くのだから、大きな箱物を用意する必要があると思いがちだが、必ずしもそうではない。インターネット大学を考えればいいと思う。私も自由に講義を聴けるならば、わざわざ京都に行ってもいいが、行かずともネットで見るしくみは今でもあるのだ。

そもそも、学問が想像していたほど楽ではないことが、私を追い越していったクラスメートも感じたのではないか。つまり、大学を誰でも行けるとしても、そんなに人数は増えないのではないかと思う。初年度は、確かに大にぎわいだろうと思うが、結局の所、オタク的に好きではないと続けることができないのが学問の世界だ。自由化することでそのことが明らかになることもいい効果だと思う。苦労して勉強しても何の「保証書」も「資格」も得られないとなると、なおさら大学離れが起きるのではないか。しかし、それこそ学問の真実の姿ではないのか。

新しい生命は、男と女が出会い、たくさんの「愛」があってこそ生まれる。よくドラマのテーマにされることではあるが、忘れてしまいやすいことだ。学問の成果は、なかなか得られるものではないのだが、「愛」に相当するものは、個々人の「努力」ではないかと思う。途方もない手間を惜しむことなく、努力した結果、次の段階に進み、新たな成果が生まれるかもしれない。この国のような、「なぜそうなるのか?」を問わない「努力」からは、何も生まれない。私は、この国の現在の劣化ぶりは、「なぜ?」を問わない学問のシステムにあると思っている。

浪人時代の私の努力は、受験という行事にはほとんど役に立たなかったが、学問のきっかけとか、好奇心を刺激するという意味では大きな意味があると思っている。学問をやるということは、たいへんな試練と努力を要することではあるが、一方でおもしろくなくては続かない。この国の学生が勉強して来なかった理由は、そのおもしろ味をほんの少しでさえも味わったことがないからではないか。その程度の勉強しかしていない人間が医者になったのであれば、マニュアル通りのことしかできないことも理解できる。そして、薬漬け医療が現在も横行している。

私は、私と同世代か下の世代の「大卒」に対してかなり偏見を持って見ている。彼らも私のことを「負け犬の遠吠え」としか見ていないと思う。大学を出てもその程度の「学力」なのかというのが私の言い分だ。彼らの反論は、先にあげた通りだ。現在のこの国の基準では、「大卒」の方が能力が高く、企業に入れば収入も多くなるようになっている。しかし、私は人間の実力に大した差は無いと考えている。実際、コンピュータに接してみると、「大卒」だからうまく使えるということはないのだ。地道な経験と好奇心のみが上達を助けてくれる。「大卒」だから有能だと考えるのは幻想なのだ。

就職にしても、「大卒」だからその後の能力が高いということはなく、あくまでも経験や出会いによる自己鍛錬が大きい。したがって、仕事をする前にはその能力はわからず、してみなければわからないものだ。この評価システムを変えることが、景気を上向きにすることでもあると思う。個人の「やる気」を無視して人間を評価するシステムなど存在しないのだ。

私はそれでも大学に期待するし、若い人にとって憧れの場所であって欲しいと思う。確かに人との出会いということもあるかもしれないのだが、ある人がいなければ先に進まないということはない。自分の好奇心をたよりに大きく前進することは可能な世界だ。私のような変わり者でも高校・浪人時代を通じて大切な恩師との出会いがあったし、それをきっかけとして自分でささやかな努力もしてきた。大学は、自己鍛錬のためにきっかけを見つける場所でいいと思う。国をあげて、学問に興味を持った人に対して十分応えることのできる研究機関に育てることが重要だ。今のままではとても研究機関とは言えない。新政権に大きく期待するところでもある。

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