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「うつ」あるいは、それに近いと自分で思っている人々にある提言がある。しょうもないことかもしれない。しかし、実践してみてはどうだろうか。
1.テレビは、10時以降見ない。
2.10時以降は、ラジオを聞く。
3.調子の良い時は、午後11時頃までパソコンでネットを見る。
4.調子が悪い時は、10時頃でパソコンはやめる。
5.ubuntu Linuxを勉強してみる。
6.パソコンにubuntu Linuxをインストールしてみる。
以上だ。
1.から4.は日頃から書いてきたことで新鮮味が無いのだが、実際に私はこれで調子良く生活できている。テレビを見ないことの本当の意味は、マスコミを信用してはいけないということだ。むろん、ラジオもネットのマスコミが垂れ流すニュースも同じ事だ。結局、自分の判断力を育てて欲しいということが言いたかったわけだ。
あまりにテレビになじんだ生活をしているとマスコミが作った現実が正しいと思い込むようになってしまい危険ではないかと思うからだ。「うつ病」の「治療」には「第一選択」とされている抗うつ薬を飲むことが当たり前となっている現実は、いったい誰が作ったのだろうか。厚労省がまったく国民のことなど考えていない組織であることが、年金詐欺を通じてわかったのだが、同じ組織で薬を使った「人体実験」がずっと続けられているのだ。薬害C型肝炎をとってみてもこの組織にとって国民の命は、材料に過ぎない。
テレビでアホなアナウンサーたちが局に言わされるままをしゃべるのを聞いていると自分の判断というものが無くなってしまい、60数年前のこの国の民衆のようになってしまう。政治のニュースも同じことでどこまで行っても、自民と公明の宣伝をするだけだ。ドラマやバラエティーならいいのかというとそうでもない。基本は、「勝ち組」のおとぎ話に過ぎないからだ。知らないうちに、都合良く体制に従うことを頭に刷り込まれる危険性が高い。
ラジオも基本は同じだが、目が疲れない分、利用価値があるというものだ。何かをしながらでも聞けるのがいい。これで結構、頭の体操になるのだ。頭は、言葉を頼りに想像を働かせようと動いてくれるからだ。経験的にもかなり効果はあると思っている。
言いたかったのは、5.と6.なのだが、まず、言っておきたいのは、この作業、かなり疲れるということだ。弱っているのに疲れることをしていいのかという不安はあるのだが、疲れた方が眠れるのではないかという単純な理屈だ。安静にして、運動もしなかったら今度は眠ることが目的になってしまい、いつまでも薬から抜けることはできないと思うからだ。薬がやめられないというのは、まさにそういうことではないか。
だが、ubuntu Linuxとつきあうという冒険をするといくら「簡単インストール」といえどもつまずきは結構ある。その一つ一つが面倒で非常に疲れる。なにしろ、本を読んだり、ネットを検索したりして情報を仕入れなければどうにもならないからだ。ネット環境、プロバイダ、自分のパソコン環境と不確定要素が多いので、コレと決められないことが多いのだ。
ubuntu Linuxに限らず、フリーのOSと向き合うと一日があっという間だ。はまってしまった場合の夜は、格別につらい。何度、失意の内に眠ることになったことか。この時、不眠に陥らないのかというとそんな余裕はない、少なくとも私にはなかった。ひどく疲れるので泥のように眠ることが通例だった。ubuntu Linuxとつきあうことで薬を使わずに眠たくなるとしたらもうけものだ。
「疲れる」ことばかり書いたが、本当の目的はそうではない。このOSがMacやWindowsと違っているのは、多少の「手当て」が必要だということ。この「多少」というのがくせ者で人によっては、「大変な」ものかもしれない。少し使ってみた限りではWindows的な使い方ができるのだが、ハードメーカーとの合作ではないので音が鳴らなかったり、マウスが動かなかったりすることもあるが、その際にまさにUNIX的なコマンド操作が必要なこともある。これも経験の無い人にはものすごく疲れることだろう。
まさに、そこにプラスの面もあると私は考えているわけだ。どうしても最初は疲れるだけで終わるが、ある程度慣れてくると、今度は「手当て」が快感になってくる。「育てよう」という気持ちが芽生えた時がその段階ではないかと思う。難しいから調べようとするし、手当てが必要だから、そんなに安心できないという気持ちが生じる。しかし、本当に不明なことはフリーのOSなのでもっとわかった人が解決してくれる。他のフリーOSも同じだ。むしろ、商用のOSよりも安心できる。
ubuntuだけではなく、フリーのOSの真の難しさは意外なところにある。たとえば、メールの設定などだ。うまく行けばいいのだが、たいていはつまずくものだ。その際に、商用のOSならば、自分の無知を責めるのだが、フリーのOSの場合はOSのバグを疑ってしまうのだ。私も何度もこのことで悩んできた。本当のバグのこともあるのだろうが、私はまだ出会っていない。すべて、自分の凡ミスなのだ。タイポというか、サーバー名を間違えて入力していたりするのだ。
こういう単純ミスを乗り越えてうまくつきあえるようになると、長いつきあいになる。この多少の手当てが必要なOSが意外な働きをすると思うようになったのは、今年になってからだ。過去、FreeBSDを育てた経験から、そのくらいはわかっていて良かったようなものなのだが、当時は最初の経験でもあったのでこんなものだろう、くらいにしか考えていなかったのだ。
今回、久しぶりにフリーのOSにゼロからさわってみたことで私の意欲に火がついたのは、もちろん過去の経験から思い当たることがあったからなのだろう。ここで初めてubuntuに接する人は、特に感動も無いかもしれない。むしろ、迷惑なばかりかもしれない。しかし、考えること、調べること、想像すること、そして創造することは本来脳にとっていいことだ。未知のことにふれることは、脳科学的にも大事なことで不安などの感情に強い脳を育てる方向に働く。
いや、こんなことは私が書くまでもなくわかっていることだと思う。あと一歩を踏み出す冒険者魂があればいいだけのことだ。うつが脳の不調であるならば、これに限らず、脳が喜ぶことを適当な期間をおいて用意すれば回復するのではないか。仕事のストレスがいつの間にか、「楽しい」と思うことをやらせなくさせている。気がつくうちはまだいいのだが、気がついた時には眠れなくなっているとしたら深刻だ。
仕事は、確かにストレスの地雷原だ。ネット上で見る「うつ」の方々のきっかけのほとんどは職場で起きているようだ。だから、最終的には仕事を辞めるという結論となる。一方で何か経済活動に参加していないと生きて行けないという現実もある。ubuntu Linuxのように「多少」であればいいのだが、仕事でのストレスは集中豪雨的なものだ。しかも、食いぶちがかかっているだけに、熾烈だ。忘れろ、と言われてもなかなかできることではない。
少しでも人間的な感情を持っている方が調子を崩すのはどうしたことだろうか。あまりに不合理なことに思える。まともな方が勝ち残れるすべはないのだろうか。これは、仕事だけに限らない。受験でも、学校でもそうだ。いつもやられるのは、理性的な側だ。
結局、私の結論というか「仮説」じみたものを述べるとするならば、心が弱ったと思ったら、「好きなことをやりなさい」ということだ。いくらなんでも長年生きてきて、好きなこと、感動すること、楽しいことが何も無かったという人はいないだろう。ストレスの結果、バランス良く好きなことをやれなくなったので「うつ」となったのだと思う。時間がかかると思うが、自分が楽しいと思うことをやると意外に回復は早い。
もし、「何も無い」という人がいれば私は迷わずすすめたいものがある。それは、「生き方」という方が近い。それは、人類という視点で生きること。この国では、どんなものを食べてどんな生活をしていたのかということを振り返ってみることだ。油だらけの洋食ばかり食べていて健康でいれるはずがないのだ。あるいは、人種的に近い人々のことを知ることだ。そこにはどう生きればいいのかという答えが歴史的にも出ている。
1.テレビは、10時以降見ない。
2.10時以降は、ラジオを聞く。
3.調子の良い時は、午後11時頃までパソコンでネットを見る。
4.調子が悪い時は、10時頃でパソコンはやめる。
5.ubuntu Linuxを勉強してみる。
6.パソコンにubuntu Linuxをインストールしてみる。
以上だ。
1.から4.は日頃から書いてきたことで新鮮味が無いのだが、実際に私はこれで調子良く生活できている。テレビを見ないことの本当の意味は、マスコミを信用してはいけないということだ。むろん、ラジオもネットのマスコミが垂れ流すニュースも同じ事だ。結局、自分の判断力を育てて欲しいということが言いたかったわけだ。
あまりにテレビになじんだ生活をしているとマスコミが作った現実が正しいと思い込むようになってしまい危険ではないかと思うからだ。「うつ病」の「治療」には「第一選択」とされている抗うつ薬を飲むことが当たり前となっている現実は、いったい誰が作ったのだろうか。厚労省がまったく国民のことなど考えていない組織であることが、年金詐欺を通じてわかったのだが、同じ組織で薬を使った「人体実験」がずっと続けられているのだ。薬害C型肝炎をとってみてもこの組織にとって国民の命は、材料に過ぎない。
テレビでアホなアナウンサーたちが局に言わされるままをしゃべるのを聞いていると自分の判断というものが無くなってしまい、60数年前のこの国の民衆のようになってしまう。政治のニュースも同じことでどこまで行っても、自民と公明の宣伝をするだけだ。ドラマやバラエティーならいいのかというとそうでもない。基本は、「勝ち組」のおとぎ話に過ぎないからだ。知らないうちに、都合良く体制に従うことを頭に刷り込まれる危険性が高い。
ラジオも基本は同じだが、目が疲れない分、利用価値があるというものだ。何かをしながらでも聞けるのがいい。これで結構、頭の体操になるのだ。頭は、言葉を頼りに想像を働かせようと動いてくれるからだ。経験的にもかなり効果はあると思っている。
言いたかったのは、5.と6.なのだが、まず、言っておきたいのは、この作業、かなり疲れるということだ。弱っているのに疲れることをしていいのかという不安はあるのだが、疲れた方が眠れるのではないかという単純な理屈だ。安静にして、運動もしなかったら今度は眠ることが目的になってしまい、いつまでも薬から抜けることはできないと思うからだ。薬がやめられないというのは、まさにそういうことではないか。
だが、ubuntu Linuxとつきあうという冒険をするといくら「簡単インストール」といえどもつまずきは結構ある。その一つ一つが面倒で非常に疲れる。なにしろ、本を読んだり、ネットを検索したりして情報を仕入れなければどうにもならないからだ。ネット環境、プロバイダ、自分のパソコン環境と不確定要素が多いので、コレと決められないことが多いのだ。
ubuntu Linuxに限らず、フリーのOSと向き合うと一日があっという間だ。はまってしまった場合の夜は、格別につらい。何度、失意の内に眠ることになったことか。この時、不眠に陥らないのかというとそんな余裕はない、少なくとも私にはなかった。ひどく疲れるので泥のように眠ることが通例だった。ubuntu Linuxとつきあうことで薬を使わずに眠たくなるとしたらもうけものだ。
「疲れる」ことばかり書いたが、本当の目的はそうではない。このOSがMacやWindowsと違っているのは、多少の「手当て」が必要だということ。この「多少」というのがくせ者で人によっては、「大変な」ものかもしれない。少し使ってみた限りではWindows的な使い方ができるのだが、ハードメーカーとの合作ではないので音が鳴らなかったり、マウスが動かなかったりすることもあるが、その際にまさにUNIX的なコマンド操作が必要なこともある。これも経験の無い人にはものすごく疲れることだろう。
まさに、そこにプラスの面もあると私は考えているわけだ。どうしても最初は疲れるだけで終わるが、ある程度慣れてくると、今度は「手当て」が快感になってくる。「育てよう」という気持ちが芽生えた時がその段階ではないかと思う。難しいから調べようとするし、手当てが必要だから、そんなに安心できないという気持ちが生じる。しかし、本当に不明なことはフリーのOSなのでもっとわかった人が解決してくれる。他のフリーOSも同じだ。むしろ、商用のOSよりも安心できる。
ubuntuだけではなく、フリーのOSの真の難しさは意外なところにある。たとえば、メールの設定などだ。うまく行けばいいのだが、たいていはつまずくものだ。その際に、商用のOSならば、自分の無知を責めるのだが、フリーのOSの場合はOSのバグを疑ってしまうのだ。私も何度もこのことで悩んできた。本当のバグのこともあるのだろうが、私はまだ出会っていない。すべて、自分の凡ミスなのだ。タイポというか、サーバー名を間違えて入力していたりするのだ。
こういう単純ミスを乗り越えてうまくつきあえるようになると、長いつきあいになる。この多少の手当てが必要なOSが意外な働きをすると思うようになったのは、今年になってからだ。過去、FreeBSDを育てた経験から、そのくらいはわかっていて良かったようなものなのだが、当時は最初の経験でもあったのでこんなものだろう、くらいにしか考えていなかったのだ。
今回、久しぶりにフリーのOSにゼロからさわってみたことで私の意欲に火がついたのは、もちろん過去の経験から思い当たることがあったからなのだろう。ここで初めてubuntuに接する人は、特に感動も無いかもしれない。むしろ、迷惑なばかりかもしれない。しかし、考えること、調べること、想像すること、そして創造することは本来脳にとっていいことだ。未知のことにふれることは、脳科学的にも大事なことで不安などの感情に強い脳を育てる方向に働く。
いや、こんなことは私が書くまでもなくわかっていることだと思う。あと一歩を踏み出す冒険者魂があればいいだけのことだ。うつが脳の不調であるならば、これに限らず、脳が喜ぶことを適当な期間をおいて用意すれば回復するのではないか。仕事のストレスがいつの間にか、「楽しい」と思うことをやらせなくさせている。気がつくうちはまだいいのだが、気がついた時には眠れなくなっているとしたら深刻だ。
仕事は、確かにストレスの地雷原だ。ネット上で見る「うつ」の方々のきっかけのほとんどは職場で起きているようだ。だから、最終的には仕事を辞めるという結論となる。一方で何か経済活動に参加していないと生きて行けないという現実もある。ubuntu Linuxのように「多少」であればいいのだが、仕事でのストレスは集中豪雨的なものだ。しかも、食いぶちがかかっているだけに、熾烈だ。忘れろ、と言われてもなかなかできることではない。
少しでも人間的な感情を持っている方が調子を崩すのはどうしたことだろうか。あまりに不合理なことに思える。まともな方が勝ち残れるすべはないのだろうか。これは、仕事だけに限らない。受験でも、学校でもそうだ。いつもやられるのは、理性的な側だ。
結局、私の結論というか「仮説」じみたものを述べるとするならば、心が弱ったと思ったら、「好きなことをやりなさい」ということだ。いくらなんでも長年生きてきて、好きなこと、感動すること、楽しいことが何も無かったという人はいないだろう。ストレスの結果、バランス良く好きなことをやれなくなったので「うつ」となったのだと思う。時間がかかると思うが、自分が楽しいと思うことをやると意外に回復は早い。
もし、「何も無い」という人がいれば私は迷わずすすめたいものがある。それは、「生き方」という方が近い。それは、人類という視点で生きること。この国では、どんなものを食べてどんな生活をしていたのかということを振り返ってみることだ。油だらけの洋食ばかり食べていて健康でいれるはずがないのだ。あるいは、人種的に近い人々のことを知ることだ。そこにはどう生きればいいのかという答えが歴史的にも出ている。
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