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和歌山毒入りカレー事件の件で思う。最高裁で上告が棄却されたので被告は、死刑が確定した。後は、再審請求が通らない限り本当に死刑になってしまう。今までならば、裁判所の判断とか検察の判断は正しいものだと信じ切っていたのでどうも思わなかったかもしれないが、裁判所や検察、警察の劣化を見てきた私には、これでいいのかと思える。
戦前は、「オイこら警察」といって庶民の生活の隅々まで警察が首をつっこんで来て、場合によっては逮捕もされたようだ。戦争が近くなると特高警察といって思想を取り締まる専門の警察が現れた。そのことを思うと、今度の西松事件では、全野党、自民、公明もこぞって検察を批判しなければならなかったが、そうはしなかった。自民・公明にとってみれば検察は、自分たちを守る「暴力装置」なので当然の働きをしたまでだと言わんばかりの態度だ。共産党の姿勢が一番わからないのだが、戦前、同志が特高に殺されたりもしているのに小沢党首を攻撃するありさまだ。共産党も思想的に劣化しているとしか言いようがないのだ。
だが、私は、権力の側の思惑で自由が奪われるような社会を望んでいない。ほとんどの人もそうではないかと思う。目の前で起きている小沢党首の秘書が逮捕された事件は、まさに、そのことが行われたにもかかわらず、そう見えないようにする偽装や説明がなされ、一人一人の民衆も自分のこととして考えられないようだ。
私のように、免許を見せなかったという理由で岡山県警西署に逮捕され、掌紋までとられた人間には、とても今の警察や検察、裁判官をそのまま信用するわけにはいかない。一度就職すると、倒産も無いし、辞めることも無い組織は、ここまで腐って行くのかと思ったものだ。当時を思い出してみると、あのやり方に批判的な連中もいたのだが、大きな声にはならなかったようだ。個々の警察官は、「どうしたんで?」とむしろ親切なのだ。
西署に行ってみてわかったのだが、そこの実務のトップらしき人間がガンだったようだ。私を見るなり「手間ーかけさすなの。」と人殺し面で言い放ったのだ。「どうすんな、泊まるんか、それとも、素直になって帰るんか。」と続けた。私は、ここで冤罪事件のけちな体験をしたのだった。ウソの供述調書に署名してしまったのだった。そうすれば、帰れると聞いたからだった。あまりにもけちな事件だったので私が黙ればそれで終わる、そういう事件だった。私も単に、堂々と正義を主張するだけではこの世の中は生きていけないと感じた事件だった。
後年、公安委員会にメールして、この冤罪事件を何とか解明して、私を犯罪者マスターから削除してもらいたいと訴えたことがあった。すると、「お気の毒ですけんど、犯罪者マスターとかいうものは無いそうで、人も移動してわからんのです。」という信じがたい説明をしてもらって、「納得」したのだった。このぼけたおやじの役割は、ボケに徹して諦めさせることだったのだろう。おかげで私の指紋から掌紋まで全ての個人情報が「犯罪者マスター」に登録されたままだ。さすがにこの国の警察といえども犯罪者を管理していないわけがないのだ。私は、性犯罪も含めて犯罪を犯す予定は無いので、どうでもいいことなのだが、そのような人間を脅すような行動を警察がやっていいのだろうか。
私には、こういう痛い経験があるのでどうしても警察や検察のことは信じがたいと思うようになっている。小沢氏の秘書が巻き込まれた事件も、小沢氏の資金集めのことよりも、検察の行動の方にこそ疑問を持ったくらいだ。野党であるということで、ここまでやられなければならないのかと思う。そして、私はマスコミも信用していない。考えてみれば、マスコミは戦前から正義とかそんな青い意識では行動してはいない。つまるところ、「儲かるか儲からないか」なのだ。特に新聞社は、それが顕著だ。今回の件でも小沢氏につくよりも検察についた方が「おいしい」のだ。まず、小沢叩きに加担しておいて、万一、小沢が「逃げ切った」場合、今度は、検察批判で儲けるというせこい魂胆なのだろう。もっとも腰抜けなので権力は批判しないというふぬけぶりだ。
選挙のことが気になる。検察の愚かな行動がこの国の未来まで狂わすことにならなければいいのだが。検察や警察もそうだが、批判され改革されなければいけない組織がこの国には山のようにある。これまで国民は生活に忙しく、あまり深く考えてこなかったが、そこにつけ込まれてしまい、ずる賢い連中がずっと権力を握り続けてきた。さして優秀でもなかったのは、現在のこの国を見ればわかるだろう。
権威を疑うという発想もこの国では育ちにくいようだが、そんなに難しいことではないと思う。冷静に目の前のことを見るだけのことだから。新聞はよく、この権威を使って情報操作をするのだが、これからは有名人の言動を自分の頭で再度考えてみることだ。小沢氏の秘書が巻き込まれた事件では、朝日新聞に載った立花隆の寄稿(奇行?)が最も悪質なものだった。田中角栄の時と違い、検察はそれほど賢明ではないということを大御所の立花隆は見抜けなかった。立花隆だけではない、森田実とか、山口二郎とか金子勝とか、これまで民主党よりかと思われた人間ものきなみ「転んでいる」ようだ。彼らは、「まさか検察が愚かな人間の集まりであるはずがない」と思うのだろう。今は、まさにそこが問われているということに気がつかない彼らは、引退すべきではないか。
9月までにある選挙は、「選択」の選挙だ。今まで通り、「おまかせ」で自分の自由もある日突然、奪われるかもしれない社会を選ぶのか、それとも、がんばって働けば後は、国家が老後の面倒を見てくれる社会を選ぶのか、だ。言うまでも無く自民と公明のカルト政権では年金詐欺を解決できないし、これまでのところその努力もしていると言い難い。いろんな経済政策よりも年金詐欺を解決することが、即、経済の活性化につながると私は思っている。
私のように「やる気」だけで生きて来た人間は、「不可能」ということを認めたくない。勉強も結局の所、「やる気」なのだから、入学試験を厳しくするのではなく、むしろ無くすくらいのことをやり、「やる気」を試すのだ。大学も何年在籍しても自由だが、一切の資格は与えられない。勉強したい人がどこまでも勉強して実力をつける機関に大学は再生する必要があると思う。仕事も似ている面があり、「組織防衛」的な発想では、発展は無い。仕事が無ければ、創造して産業を生むことが必要なのだ。それを忘れた組織は、衰退するだけだ。
(つづく)
戦前は、「オイこら警察」といって庶民の生活の隅々まで警察が首をつっこんで来て、場合によっては逮捕もされたようだ。戦争が近くなると特高警察といって思想を取り締まる専門の警察が現れた。そのことを思うと、今度の西松事件では、全野党、自民、公明もこぞって検察を批判しなければならなかったが、そうはしなかった。自民・公明にとってみれば検察は、自分たちを守る「暴力装置」なので当然の働きをしたまでだと言わんばかりの態度だ。共産党の姿勢が一番わからないのだが、戦前、同志が特高に殺されたりもしているのに小沢党首を攻撃するありさまだ。共産党も思想的に劣化しているとしか言いようがないのだ。
だが、私は、権力の側の思惑で自由が奪われるような社会を望んでいない。ほとんどの人もそうではないかと思う。目の前で起きている小沢党首の秘書が逮捕された事件は、まさに、そのことが行われたにもかかわらず、そう見えないようにする偽装や説明がなされ、一人一人の民衆も自分のこととして考えられないようだ。
私のように、免許を見せなかったという理由で岡山県警西署に逮捕され、掌紋までとられた人間には、とても今の警察や検察、裁判官をそのまま信用するわけにはいかない。一度就職すると、倒産も無いし、辞めることも無い組織は、ここまで腐って行くのかと思ったものだ。当時を思い出してみると、あのやり方に批判的な連中もいたのだが、大きな声にはならなかったようだ。個々の警察官は、「どうしたんで?」とむしろ親切なのだ。
西署に行ってみてわかったのだが、そこの実務のトップらしき人間がガンだったようだ。私を見るなり「手間ーかけさすなの。」と人殺し面で言い放ったのだ。「どうすんな、泊まるんか、それとも、素直になって帰るんか。」と続けた。私は、ここで冤罪事件のけちな体験をしたのだった。ウソの供述調書に署名してしまったのだった。そうすれば、帰れると聞いたからだった。あまりにもけちな事件だったので私が黙ればそれで終わる、そういう事件だった。私も単に、堂々と正義を主張するだけではこの世の中は生きていけないと感じた事件だった。
後年、公安委員会にメールして、この冤罪事件を何とか解明して、私を犯罪者マスターから削除してもらいたいと訴えたことがあった。すると、「お気の毒ですけんど、犯罪者マスターとかいうものは無いそうで、人も移動してわからんのです。」という信じがたい説明をしてもらって、「納得」したのだった。このぼけたおやじの役割は、ボケに徹して諦めさせることだったのだろう。おかげで私の指紋から掌紋まで全ての個人情報が「犯罪者マスター」に登録されたままだ。さすがにこの国の警察といえども犯罪者を管理していないわけがないのだ。私は、性犯罪も含めて犯罪を犯す予定は無いので、どうでもいいことなのだが、そのような人間を脅すような行動を警察がやっていいのだろうか。
私には、こういう痛い経験があるのでどうしても警察や検察のことは信じがたいと思うようになっている。小沢氏の秘書が巻き込まれた事件も、小沢氏の資金集めのことよりも、検察の行動の方にこそ疑問を持ったくらいだ。野党であるということで、ここまでやられなければならないのかと思う。そして、私はマスコミも信用していない。考えてみれば、マスコミは戦前から正義とかそんな青い意識では行動してはいない。つまるところ、「儲かるか儲からないか」なのだ。特に新聞社は、それが顕著だ。今回の件でも小沢氏につくよりも検察についた方が「おいしい」のだ。まず、小沢叩きに加担しておいて、万一、小沢が「逃げ切った」場合、今度は、検察批判で儲けるというせこい魂胆なのだろう。もっとも腰抜けなので権力は批判しないというふぬけぶりだ。
選挙のことが気になる。検察の愚かな行動がこの国の未来まで狂わすことにならなければいいのだが。検察や警察もそうだが、批判され改革されなければいけない組織がこの国には山のようにある。これまで国民は生活に忙しく、あまり深く考えてこなかったが、そこにつけ込まれてしまい、ずる賢い連中がずっと権力を握り続けてきた。さして優秀でもなかったのは、現在のこの国を見ればわかるだろう。
権威を疑うという発想もこの国では育ちにくいようだが、そんなに難しいことではないと思う。冷静に目の前のことを見るだけのことだから。新聞はよく、この権威を使って情報操作をするのだが、これからは有名人の言動を自分の頭で再度考えてみることだ。小沢氏の秘書が巻き込まれた事件では、朝日新聞に載った立花隆の寄稿(奇行?)が最も悪質なものだった。田中角栄の時と違い、検察はそれほど賢明ではないということを大御所の立花隆は見抜けなかった。立花隆だけではない、森田実とか、山口二郎とか金子勝とか、これまで民主党よりかと思われた人間ものきなみ「転んでいる」ようだ。彼らは、「まさか検察が愚かな人間の集まりであるはずがない」と思うのだろう。今は、まさにそこが問われているということに気がつかない彼らは、引退すべきではないか。
9月までにある選挙は、「選択」の選挙だ。今まで通り、「おまかせ」で自分の自由もある日突然、奪われるかもしれない社会を選ぶのか、それとも、がんばって働けば後は、国家が老後の面倒を見てくれる社会を選ぶのか、だ。言うまでも無く自民と公明のカルト政権では年金詐欺を解決できないし、これまでのところその努力もしていると言い難い。いろんな経済政策よりも年金詐欺を解決することが、即、経済の活性化につながると私は思っている。
私のように「やる気」だけで生きて来た人間は、「不可能」ということを認めたくない。勉強も結局の所、「やる気」なのだから、入学試験を厳しくするのではなく、むしろ無くすくらいのことをやり、「やる気」を試すのだ。大学も何年在籍しても自由だが、一切の資格は与えられない。勉強したい人がどこまでも勉強して実力をつける機関に大学は再生する必要があると思う。仕事も似ている面があり、「組織防衛」的な発想では、発展は無い。仕事が無ければ、創造して産業を生むことが必要なのだ。それを忘れた組織は、衰退するだけだ。
(つづく)
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