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新曲「夢は眠っていないか?」の発売祈念ライブへ行った翌日のきのう、私は例によって鼻水たらたらの出勤だった。涙で前が見えにくくなるほどだった。実際、花粉症のため同じような症状になることがよくある。
しかし、この日は花粉症のためそうなったのではなかった。実際に泣いていた、いや、泣けてしまったのだった。むろん、悲しいからではない。龍雲を聴いての翌日なので、じわーんと感慨にふけっての涙だったと思う。浪人時代からこれまでのことが一気に思い出されてつい、出てしまった涙なのかもしれない。私のような人間(人付き合いの悪い、という意味)にもいろんな出会いと別れがあった。
龍雲が「流れよ」をオールナイトニッポンのエンディングで使ってから、はや28年経つ。大学受験→京都での生活→岡山での就職→東京での生活というふうに私にはめまぐるしい変化の時代と感じた。ライブのテーマは、若き日の夢と現実の「ズレ」だった。大学で星やロケットの研究がしたかった私だが、今では出版社の仕事をしている。ズレてはいないのか。夢を追っていない現実をどう正当化できるのか。
ひょっとしてこの日の涙は、そのことが口惜しくての涙だったのかもしれない。実際に、大学を諦めてからの私は、その後数年間も放心状態だったのだ。自分には、やる気があるのだから、何の目的も無く大学に行くような人間とは違うとして4浪までがんばったのだったが、結局、入学すらできなかった。私のやる気と現実とのギャップの激しさに悲憤やるかたない日々だったのだ。今の仕事を始めて、これで生きて行こうと思った時までこの思いは間歇的ながら続いていたと思う。
もちろん、その後はぴたりと悔しさは止んだのかというと、そんなことはない。今の仕事は仕事、かつて自分が抱いていた夢は夢と切り分けて個別に対処しようとしている自分を見つけるのだった。現実に納得しているのならともかく、私は納得していない。そうである以上は、何らかの手段でかつての夢を追求するべきではないかと思う。そんな青臭い思いをまたぞろ思い出させてくれたライブであった。
私の父が生前、語っていたように「おめえの夢は、おめえの子供に託せ。」と私自身も思っている。実際に、ほとんどの人がそのようにしてたくましく生きていることだろう。私も、そういう生き方が嫌いではない。私の場合は、そうできないだけで、「しない」わけではないのだ。子供に夢を託せない場合は、自分で何とか追い続けるしかないのだろう。
ライブの感想をさっそく龍雲に送ったのだが、最後に私の要望も付け加えておいた。龍雲が「第1期永井龍雲の最後」と表現した時代のアルバムに「永遠への船出」という歌がある。
はげしい暴雨(あらし)にうたれ
くじけそうな時も
僕の岸辺に 艫づなを
おろして 待ってておくれ
という感じの詩だが、あるいは、「明日に架ける橋」を意識して作ったのかもしれない。また、龍雲には17歳の時に経験したお母さんの死を直接あつかった「母さんの唄」という曲があるのだが、これはこれで胸をかきむしられるような、壮絶な曲だが、その時から数十年の歳月を経て「ルリカケス」という歌を数年前に上梓している。私は、これを「もうひとつの母さんの唄」と表現しているのだが、実際に奄美大島出身のお母さんのことを思って作った歌だ。龍雲の若き日の悔恨の思いや感謝の気持ちが手に取るようにわかり、単に悲しいという思いがここまで昇華されるのかという気がする。
私が、「永遠への船出」に対する「もう一つの永遠への船出」を作って欲しいと書いたのは、全く同じ理由からだった。「母さんの唄」が全く個人的な私小説だとすると、「ルリカケス」は、個人的な経験を背景に持ちながらも普遍的な文学に仕上がっているのではないかと思う。誰もが経験しなければならない、親の死というものに龍雲は若くしてあい、50近くになってその悲しみさえも生への希望へと歌い上げてくれたのだった。
今の龍雲にならば、単に「ガンバロー」ソングでもなく、私小説的な恋愛ソングでもない、まさに、「明日への希望」を抱けるような歌が作れるのではないかと期待したのであった。そして、それは龍雲自身の祈りでもあるし、今を苦しんで生きている人への応援ソングでもある。この曲が出来たとき、武道館、東京ドーム公演が実現するのではないか。
私は、あまり、きらびやかな所は好まないのだが、龍雲が注目され大ヒットすることは切望している。人気が出ればなかなか聴きに行くことはできなくなると思うが、その時は静かに見守っていたいと思う。どこか静かなホールでやってくれたら、また行きたいと思う。
しかし、この日は花粉症のためそうなったのではなかった。実際に泣いていた、いや、泣けてしまったのだった。むろん、悲しいからではない。龍雲を聴いての翌日なので、じわーんと感慨にふけっての涙だったと思う。浪人時代からこれまでのことが一気に思い出されてつい、出てしまった涙なのかもしれない。私のような人間(人付き合いの悪い、という意味)にもいろんな出会いと別れがあった。
龍雲が「流れよ」をオールナイトニッポンのエンディングで使ってから、はや28年経つ。大学受験→京都での生活→岡山での就職→東京での生活というふうに私にはめまぐるしい変化の時代と感じた。ライブのテーマは、若き日の夢と現実の「ズレ」だった。大学で星やロケットの研究がしたかった私だが、今では出版社の仕事をしている。ズレてはいないのか。夢を追っていない現実をどう正当化できるのか。
ひょっとしてこの日の涙は、そのことが口惜しくての涙だったのかもしれない。実際に、大学を諦めてからの私は、その後数年間も放心状態だったのだ。自分には、やる気があるのだから、何の目的も無く大学に行くような人間とは違うとして4浪までがんばったのだったが、結局、入学すらできなかった。私のやる気と現実とのギャップの激しさに悲憤やるかたない日々だったのだ。今の仕事を始めて、これで生きて行こうと思った時までこの思いは間歇的ながら続いていたと思う。
もちろん、その後はぴたりと悔しさは止んだのかというと、そんなことはない。今の仕事は仕事、かつて自分が抱いていた夢は夢と切り分けて個別に対処しようとしている自分を見つけるのだった。現実に納得しているのならともかく、私は納得していない。そうである以上は、何らかの手段でかつての夢を追求するべきではないかと思う。そんな青臭い思いをまたぞろ思い出させてくれたライブであった。
私の父が生前、語っていたように「おめえの夢は、おめえの子供に託せ。」と私自身も思っている。実際に、ほとんどの人がそのようにしてたくましく生きていることだろう。私も、そういう生き方が嫌いではない。私の場合は、そうできないだけで、「しない」わけではないのだ。子供に夢を託せない場合は、自分で何とか追い続けるしかないのだろう。
ライブの感想をさっそく龍雲に送ったのだが、最後に私の要望も付け加えておいた。龍雲が「第1期永井龍雲の最後」と表現した時代のアルバムに「永遠への船出」という歌がある。
はげしい暴雨(あらし)にうたれ
くじけそうな時も
僕の岸辺に 艫づなを
おろして 待ってておくれ
という感じの詩だが、あるいは、「明日に架ける橋」を意識して作ったのかもしれない。また、龍雲には17歳の時に経験したお母さんの死を直接あつかった「母さんの唄」という曲があるのだが、これはこれで胸をかきむしられるような、壮絶な曲だが、その時から数十年の歳月を経て「ルリカケス」という歌を数年前に上梓している。私は、これを「もうひとつの母さんの唄」と表現しているのだが、実際に奄美大島出身のお母さんのことを思って作った歌だ。龍雲の若き日の悔恨の思いや感謝の気持ちが手に取るようにわかり、単に悲しいという思いがここまで昇華されるのかという気がする。
私が、「永遠への船出」に対する「もう一つの永遠への船出」を作って欲しいと書いたのは、全く同じ理由からだった。「母さんの唄」が全く個人的な私小説だとすると、「ルリカケス」は、個人的な経験を背景に持ちながらも普遍的な文学に仕上がっているのではないかと思う。誰もが経験しなければならない、親の死というものに龍雲は若くしてあい、50近くになってその悲しみさえも生への希望へと歌い上げてくれたのだった。
今の龍雲にならば、単に「ガンバロー」ソングでもなく、私小説的な恋愛ソングでもない、まさに、「明日への希望」を抱けるような歌が作れるのではないかと期待したのであった。そして、それは龍雲自身の祈りでもあるし、今を苦しんで生きている人への応援ソングでもある。この曲が出来たとき、武道館、東京ドーム公演が実現するのではないか。
私は、あまり、きらびやかな所は好まないのだが、龍雲が注目され大ヒットすることは切望している。人気が出ればなかなか聴きに行くことはできなくなると思うが、その時は静かに見守っていたいと思う。どこか静かなホールでやってくれたら、また行きたいと思う。
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