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自分が不安に陥った時のことを書いておきたいと思うのだが、実際の所よくわからない。気がつけば、不眠に陥り、仕事も休みにくく思うようになり、どうしようもなくなるのだ。しかし、正しい処方箋は休むことなのだ。1日でも2日でも平日に休むことでぐっと楽になれる。何も永遠に仕事に戻れないということはないだろう。
問題は、「心」だけのことではないからだと思う。それまでにどんなものを食べていたのか、どんな運動状況だったのか、どんなことを思い生きていたのかが重要だ。私の経験では、シンドイと思うほど運動をしていれば、まず大丈夫だ。私自身、中学・高校とテニス部でブイブイいわせてきたのだが、この期間にパニック障害らしき経験をしたことは無い。よく食べ、よく運動し、思い悩んだ。食べて運動していれば少々の悩みはむしろ刺激になり得る。
おっさんになると運動ができにくくなるので不安になると始末が悪い。せいぜい歩くくらしか効果的な運動はできないのだが、もちろん歩くだけで十分効果的だ。気分を晴らすものが必要なのだが、ここでほとんどの人は行き詰まることだろう。映画とか音楽だとかいっても普段から接していることでもあるので目新しくない。かといって新しい趣味を見つけられるほど元気は無い。ぼーとするしかなくなるものだ。だから、できることならば、こうなる前にいろいろと趣味を見つけておきたいものだ。
何も無い人は、趣味で語学をやるというのもいい。それなりにわかるようになるとおもしろくなってくる。ただし、これも完璧を目指すようになるとシンドクなるはずだ。あくまでも趣味でやることだ。そうすると土日に限らず、空いた時間がもったいなく思えてついつい参考書を開いてみたくなる。調子の悪い時というのは、ぼーとするというのも有効だが、適度な負荷も必要なのだ。過剰なリラックスは、かえってストレスの増大につながってしまう。この時期に難しいと思うが「大丈夫!大丈夫!」と思うように心がけることが大事だ。
実際、自分のことは自分が一番よくわかっているので医者に頼っても無理な話なのだ。自分の体調や心の動きをつぶさに検討することがそのまま、不安に陥ることを防止することになる。医者にかかるということは、ある意味自分が見落としていたことを発見してもらえるかもしれないという長所もあるのだが、今の時代の精神科医はすべてヤブ医者だと思って行動しないと危険だ。抗うつ薬や抗不安薬が点数も高く、儲かるのですぐに処方され薬漬けにされてしまうだろう。
心の問題と正面から向き合っていると思えるのは、ブッダだと私には思える。それで、私は自分がピンチの時にはスマナサーラ長老の著書を何冊も読んだ。最初は、私にとって無名の人だったのでおっかなびっくりだったのだが、読むほどになじんできた。オウムや創価学会のようにカルト宗教が世の中にはびこっているだけに宗教的な話を出すのは心苦しいのだが、ブッダの考えを今に伝えようとする宗派は傾聴に値するのではないかと考えている。
ほとんどの人は、うつやパニックを脳の病気だと思いこまされている。いつかは結論が出るのかもしれないが、今のところよくわかっていないというのが実情だ。しかし、一方でストレスが増大するままに放置することで異常が起こるのも事実のようだ。回復するものと現在までのところ回復していないものとの区別はどこにあるのか。
ここにも心の問題があると私は思っている。それは、私の行動パターンがすべては「やる気」に左右されているからだ。私が病的なほど、いろんなことに興味を示すのは、「やる気」だと思っている。本当は、この「やる気」を「やる気を失った人々」に分けてあげたいのだが、今のところそんな荒技は見つかっていない。それ故に、「あれをやってみ、これをやってみ」とおせっかいをやいては嫌われている。
私がここまで生きてこられたのは「やる気」があったからだった。残念ながら大学には、「やる気」があっても首尾良く合格はできなかったのだが、やる気を出して生きていたら第二の道も開けてきたのだった。大学受験は、自信家の私にとっては「痛い」敗北経験だった。しかし、あの時、一時期的にせよ、その事実を忘れることによって生きようとしたのだ。京都に出て働きながら何かを見つけようとしていた。
つまり、問題を一時的に「うっちゃる」ことで前を向くことはできる。後、どうするかは運と自分の努力次第だ。私の経験が示しているのは、「やる気」のある人間は救われるということだ。外的な刺激で「やる気」を回復できるといいのだが、どんな刺激がいいのか千差万別なのでうまく行かないのではないかと思う。私にとって「やる気」とは人がなぜそのように考えたのかを探ることで引き起こされる。その道を断たれることで「やる気」を失ってしまうのだ。大学受験とは、まさにやる気を失う経験だった。
「やる気」さえ出れば、もう勝ったも同然で、後はその興味のネットワークを広げて、いかにつなげるかに過ぎない。脳の構造もまさにそのようになっている。年齢と共に脳の神経細胞が減ることは事実のようだが、ネットワークは広がっている。これを鍛えることで若者のごとく生きることも可能なのだ。そう、脳の病気とされている現象は、このネットワークのトラブルではないかと思っている。それ故に年齢に関係なく不調に陥ってしまう。
ネットワークは、恐らく個人の興味に深く関係することなのでこれを鍛えるということは自分にしかできないしわからない。その方法もわからない始末だ。興味をひかれることにただ漫然と近づくことでもいいかもしれないが、何らかの加工が必要な場合もあるだろう。私なら、やる気を出すために子供のような遊びもあえてやるし、実際にやってきた。おもしろいと思ったことをやればいいと思ったからだ。無駄もあったと思うが、結果的に回復につながっている。ここでも「大丈夫!大丈夫!」と考える大ざっぱな思考をするようにしているわけだ。実際、そうしないと誰かが保障してくれるわけではないからだ。
結局、不安は何らかの原因で自信を喪失し、脳のネットワークが不調に陥ってしまうことから引き起こされる現象ではないかと思う。回復のためには、興味あることを中心に慣らして行くことから始める。そして、調べを始めるというレベルまで向かえば、勝ったも同然で、今度は小さな自信を生むことにつながる。経験と知識はすぐには身に付かないのだが、細かな自信を多く持つことで結果的に大きな自信につながり、全体として回復ということになりはしないか。それは「思い込み」でもいいことは、多くの天才的な科学者が証明してくれている。
問題は、「心」だけのことではないからだと思う。それまでにどんなものを食べていたのか、どんな運動状況だったのか、どんなことを思い生きていたのかが重要だ。私の経験では、シンドイと思うほど運動をしていれば、まず大丈夫だ。私自身、中学・高校とテニス部でブイブイいわせてきたのだが、この期間にパニック障害らしき経験をしたことは無い。よく食べ、よく運動し、思い悩んだ。食べて運動していれば少々の悩みはむしろ刺激になり得る。
おっさんになると運動ができにくくなるので不安になると始末が悪い。せいぜい歩くくらしか効果的な運動はできないのだが、もちろん歩くだけで十分効果的だ。気分を晴らすものが必要なのだが、ここでほとんどの人は行き詰まることだろう。映画とか音楽だとかいっても普段から接していることでもあるので目新しくない。かといって新しい趣味を見つけられるほど元気は無い。ぼーとするしかなくなるものだ。だから、できることならば、こうなる前にいろいろと趣味を見つけておきたいものだ。
何も無い人は、趣味で語学をやるというのもいい。それなりにわかるようになるとおもしろくなってくる。ただし、これも完璧を目指すようになるとシンドクなるはずだ。あくまでも趣味でやることだ。そうすると土日に限らず、空いた時間がもったいなく思えてついつい参考書を開いてみたくなる。調子の悪い時というのは、ぼーとするというのも有効だが、適度な負荷も必要なのだ。過剰なリラックスは、かえってストレスの増大につながってしまう。この時期に難しいと思うが「大丈夫!大丈夫!」と思うように心がけることが大事だ。
実際、自分のことは自分が一番よくわかっているので医者に頼っても無理な話なのだ。自分の体調や心の動きをつぶさに検討することがそのまま、不安に陥ることを防止することになる。医者にかかるということは、ある意味自分が見落としていたことを発見してもらえるかもしれないという長所もあるのだが、今の時代の精神科医はすべてヤブ医者だと思って行動しないと危険だ。抗うつ薬や抗不安薬が点数も高く、儲かるのですぐに処方され薬漬けにされてしまうだろう。
心の問題と正面から向き合っていると思えるのは、ブッダだと私には思える。それで、私は自分がピンチの時にはスマナサーラ長老の著書を何冊も読んだ。最初は、私にとって無名の人だったのでおっかなびっくりだったのだが、読むほどになじんできた。オウムや創価学会のようにカルト宗教が世の中にはびこっているだけに宗教的な話を出すのは心苦しいのだが、ブッダの考えを今に伝えようとする宗派は傾聴に値するのではないかと考えている。
ほとんどの人は、うつやパニックを脳の病気だと思いこまされている。いつかは結論が出るのかもしれないが、今のところよくわかっていないというのが実情だ。しかし、一方でストレスが増大するままに放置することで異常が起こるのも事実のようだ。回復するものと現在までのところ回復していないものとの区別はどこにあるのか。
ここにも心の問題があると私は思っている。それは、私の行動パターンがすべては「やる気」に左右されているからだ。私が病的なほど、いろんなことに興味を示すのは、「やる気」だと思っている。本当は、この「やる気」を「やる気を失った人々」に分けてあげたいのだが、今のところそんな荒技は見つかっていない。それ故に、「あれをやってみ、これをやってみ」とおせっかいをやいては嫌われている。
私がここまで生きてこられたのは「やる気」があったからだった。残念ながら大学には、「やる気」があっても首尾良く合格はできなかったのだが、やる気を出して生きていたら第二の道も開けてきたのだった。大学受験は、自信家の私にとっては「痛い」敗北経験だった。しかし、あの時、一時期的にせよ、その事実を忘れることによって生きようとしたのだ。京都に出て働きながら何かを見つけようとしていた。
つまり、問題を一時的に「うっちゃる」ことで前を向くことはできる。後、どうするかは運と自分の努力次第だ。私の経験が示しているのは、「やる気」のある人間は救われるということだ。外的な刺激で「やる気」を回復できるといいのだが、どんな刺激がいいのか千差万別なのでうまく行かないのではないかと思う。私にとって「やる気」とは人がなぜそのように考えたのかを探ることで引き起こされる。その道を断たれることで「やる気」を失ってしまうのだ。大学受験とは、まさにやる気を失う経験だった。
「やる気」さえ出れば、もう勝ったも同然で、後はその興味のネットワークを広げて、いかにつなげるかに過ぎない。脳の構造もまさにそのようになっている。年齢と共に脳の神経細胞が減ることは事実のようだが、ネットワークは広がっている。これを鍛えることで若者のごとく生きることも可能なのだ。そう、脳の病気とされている現象は、このネットワークのトラブルではないかと思っている。それ故に年齢に関係なく不調に陥ってしまう。
ネットワークは、恐らく個人の興味に深く関係することなのでこれを鍛えるということは自分にしかできないしわからない。その方法もわからない始末だ。興味をひかれることにただ漫然と近づくことでもいいかもしれないが、何らかの加工が必要な場合もあるだろう。私なら、やる気を出すために子供のような遊びもあえてやるし、実際にやってきた。おもしろいと思ったことをやればいいと思ったからだ。無駄もあったと思うが、結果的に回復につながっている。ここでも「大丈夫!大丈夫!」と考える大ざっぱな思考をするようにしているわけだ。実際、そうしないと誰かが保障してくれるわけではないからだ。
結局、不安は何らかの原因で自信を喪失し、脳のネットワークが不調に陥ってしまうことから引き起こされる現象ではないかと思う。回復のためには、興味あることを中心に慣らして行くことから始める。そして、調べを始めるというレベルまで向かえば、勝ったも同然で、今度は小さな自信を生むことにつながる。経験と知識はすぐには身に付かないのだが、細かな自信を多く持つことで結果的に大きな自信につながり、全体として回復ということになりはしないか。それは「思い込み」でもいいことは、多くの天才的な科学者が証明してくれている。
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