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心が不安定な人はよく自分が「壊れそう」とか言うのだが、恐らく大丈夫だと思う。証明してくれと言われても、不可能だが。研究機関の人間にも無理なのだ。それは、今のところ無理なのか今後も無理なのか知りたいものだが、相手は「脳」であり、実験など簡単にできるわけではないので、今後も難しいのではないかと私自身は思っている。
それでは、なぜ、薬を飲みたくなるほどに調子が悪いのかというと、「バランス」が悪いのではないかと私は考えている。自分が調子が悪い時もまさにそうだと言えるからだ。私の最も調子の悪い時代は、浪人時代だったのだが、あの時代がバランスが良いとはとても言えないだろう。私としては、もっといろんな世界を知るべきだったと思う。しかし、私は「大学合格」に固執して他のことは考えられなかった。これでは、「脳」も悲鳴をあげるだろう。ただ、若さがあったのでいわゆる「キチガイ」にはならなかったのだろう。
数年前に仕事の行き詰まりから絶不調に陥ったが、この時も著しく「バランス」を欠いていた。自分が変わらずに、他人を変えようとしていたのだった。これでは、どんどん調子は悪くなる。
ここで難しいのは、精神的に調子が悪いことは、「気の持ちよう」なのか、ということだ。それは、正しくもあるが不正確でもある。気持ちを何とかすれば、調子が良くなるというものではないからだ。誰でもそんな芸当ができるならば苦労しないのだ。そうできないから苦しいわけだ。私の浪人時代に、気分を変えることで体調不良が治っただろうか。そんなことはなかったと思う。私の場合、大学に合格するか、諦めるかしか無かったのだ。そして、私は諦めることで一時的に救われた。
結局、紆余曲折して自分で決断することが問題解決につながる。当たり前のことなのだが、真っ直中にいるとそのことにも気がつかない。今の私もそうかもしれない。私は、少なくとも今は調子が悪いとは思っていない。しかし、果たして「正常」だろうか。というのも部屋は、ゴミ屋敷だからだ。部屋には、調子の悪い時代に買い集めた本やDVDで埋まっており、とても正常には思えないのだ。このような私から見ると、むしろ、自分が「壊れている」と感じている人の方がむしろ、「正常」なのではないかと思える。少なくとも私には、自分が「壊れている」という自覚が無いのだ。
では、どうすればいいのか。ゴミ屋敷を解消すべく片付けを始めればいいだけのことだ。そう思うまで何年かかっただろうか。昨夜から、ゴミ屋敷の掃除に手を付けている。今夜は寝る場所が無い感じだが、それでも気分はいい。誰もが普通にやっている「片付け」を私もやっていて、しかも「うれしい」感じなのだ。いろいろやりたいことはあるのだが、まず、掃除を選んだのがスゴイことなのだ、私にしてみれば。
「探し物」があり、それを探すために片付けるはめになったというのが真相なのだが、これまでもそういうことはあった。しかし、片付けはせずに「探す」だけに終わっていた。大事になることはいつもわかっていたので、最小限の「探し」しかやらなかったように思う。今回、片付けてみようと思えたのは、体調の良さも反映していると思う。曲がりなりにもバランス良く食べ、運動していることの結果なのではないかとも思っている。
そうして、「ちょっと片付けてみようか」と思うまでになるには、大きな飛躍があると思うが、上に書いたようにきっかけは、「探し物」だった。1点ものならば、「みっけ!」で終わりなのだが、相手は何冊にも分かれている「漫画」だ。漫画は、過去の焼き直しであっても数ヶ月に分けて発売される。従って私の保管もあちこちに散らばってしまい、「ゴミ屋敷」に埋まってしまうという原理だ。こういう状況の時に、山は崩さず、すべてを揃えようという技は不可能に近い。結局、片付けるしかなくなるのだった。
目標は、いつも書いてきたように天体望遠鏡を常時、置いておけるような空間を作ることだ。私の部屋は布団と天体望遠鏡だけでいい。春までにできればやってしまいたい。今の心境ならできそうな気がする。もちろん、場所が無いのが原因で片付かないのだから、一部荷物を田舎に送るという反則技も使うだろう。今後、無茶な買い物をしないということでこれもありとしたい。いろんな意味で今回のゴミ屋敷そうじは、出発点となるだろうと思う。
それでは、なぜ、薬を飲みたくなるほどに調子が悪いのかというと、「バランス」が悪いのではないかと私は考えている。自分が調子が悪い時もまさにそうだと言えるからだ。私の最も調子の悪い時代は、浪人時代だったのだが、あの時代がバランスが良いとはとても言えないだろう。私としては、もっといろんな世界を知るべきだったと思う。しかし、私は「大学合格」に固執して他のことは考えられなかった。これでは、「脳」も悲鳴をあげるだろう。ただ、若さがあったのでいわゆる「キチガイ」にはならなかったのだろう。
数年前に仕事の行き詰まりから絶不調に陥ったが、この時も著しく「バランス」を欠いていた。自分が変わらずに、他人を変えようとしていたのだった。これでは、どんどん調子は悪くなる。
ここで難しいのは、精神的に調子が悪いことは、「気の持ちよう」なのか、ということだ。それは、正しくもあるが不正確でもある。気持ちを何とかすれば、調子が良くなるというものではないからだ。誰でもそんな芸当ができるならば苦労しないのだ。そうできないから苦しいわけだ。私の浪人時代に、気分を変えることで体調不良が治っただろうか。そんなことはなかったと思う。私の場合、大学に合格するか、諦めるかしか無かったのだ。そして、私は諦めることで一時的に救われた。
結局、紆余曲折して自分で決断することが問題解決につながる。当たり前のことなのだが、真っ直中にいるとそのことにも気がつかない。今の私もそうかもしれない。私は、少なくとも今は調子が悪いとは思っていない。しかし、果たして「正常」だろうか。というのも部屋は、ゴミ屋敷だからだ。部屋には、調子の悪い時代に買い集めた本やDVDで埋まっており、とても正常には思えないのだ。このような私から見ると、むしろ、自分が「壊れている」と感じている人の方がむしろ、「正常」なのではないかと思える。少なくとも私には、自分が「壊れている」という自覚が無いのだ。
では、どうすればいいのか。ゴミ屋敷を解消すべく片付けを始めればいいだけのことだ。そう思うまで何年かかっただろうか。昨夜から、ゴミ屋敷の掃除に手を付けている。今夜は寝る場所が無い感じだが、それでも気分はいい。誰もが普通にやっている「片付け」を私もやっていて、しかも「うれしい」感じなのだ。いろいろやりたいことはあるのだが、まず、掃除を選んだのがスゴイことなのだ、私にしてみれば。
「探し物」があり、それを探すために片付けるはめになったというのが真相なのだが、これまでもそういうことはあった。しかし、片付けはせずに「探す」だけに終わっていた。大事になることはいつもわかっていたので、最小限の「探し」しかやらなかったように思う。今回、片付けてみようと思えたのは、体調の良さも反映していると思う。曲がりなりにもバランス良く食べ、運動していることの結果なのではないかとも思っている。
そうして、「ちょっと片付けてみようか」と思うまでになるには、大きな飛躍があると思うが、上に書いたようにきっかけは、「探し物」だった。1点ものならば、「みっけ!」で終わりなのだが、相手は何冊にも分かれている「漫画」だ。漫画は、過去の焼き直しであっても数ヶ月に分けて発売される。従って私の保管もあちこちに散らばってしまい、「ゴミ屋敷」に埋まってしまうという原理だ。こういう状況の時に、山は崩さず、すべてを揃えようという技は不可能に近い。結局、片付けるしかなくなるのだった。
目標は、いつも書いてきたように天体望遠鏡を常時、置いておけるような空間を作ることだ。私の部屋は布団と天体望遠鏡だけでいい。春までにできればやってしまいたい。今の心境ならできそうな気がする。もちろん、場所が無いのが原因で片付かないのだから、一部荷物を田舎に送るという反則技も使うだろう。今後、無茶な買い物をしないということでこれもありとしたい。いろんな意味で今回のゴミ屋敷そうじは、出発点となるだろうと思う。
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