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スマナサーラ長老によると老いても楽しく生きるために少なくとも3つのことを心がける必要があるという。
「欲」
「怒り」
「無知」
だ。『老いは楽し』(国書刊行会)を読んで改めて確認したのだが、してみると私は、未だどれも解決できていない。
以前よりは、怒らなくなったものの、まだまだ怒りのエネルギーを問題解決に向けるという知恵は乏しいと思っている。怒ることそのものは、いいと思うのだが、それを暴発させては意味が無いということだ。戦国時代ではないのだから、現存する難問の解決にそのパワーを注がなければ、認められることはない。
「欲」は、口にするのも恥ずかしいくらいだ。毎日、物欲には悩んでいる。ただ、不思議に有名になりたいとか、そこそこの地位を得たいという欲は無い。ほぼ、そうしたことを望んでも無理なので諦めの境地ということもあるだろうが、昔からそうだ。見せかけよりも、実質が欲しいだけのことだから。アホウ太郎や安倍チンのような人間にはなりたくないといつも思う。
「無知」は私が最も嫌うことで、もちろん、日々これと闘うことが仕事だと思っている。少年老いやすく、学成りがたし、とはよく言ったもので、なかなか知識というものは入れられるものではない。お金もかかる。ここは、「欲望」とちょっとつながっている。純粋な欲望なのか、知識を得たいための手段なのか判別することは簡単ではない。後ろめたさも基準にはならない。あくまでも結果で判断するべきだ。結果が出なければ、それは単なる「欲望」かもしれない。
ただ、欲望と無知の問題を解決することで楽しくなることは事実だ。無知を解決するためと称して新製品を買うことはよくあることだ。結果を出すこともあるし、惨敗することもある。また、そういう判断があるからこそ、商売が成り立つのであり、まったく何も買わないということになると、景気は非常に悪くなる。買うことにためらった時には、「無知を克服するため」と思うことだ。
私の場合、学問的なこと、仕事のこと以外でも「知らない」ということに非常に反応する。悔しいという気持ちもあるが、ある人が知っている漫画とかゲームとかを自分が知らないということを恥ずかしく思うのだ。他人にあって自分がそのことに関心が無いということを激しく後悔する。関心が無いと興味も無い、従って知識とはならない。これは遊びだからということではなく学問でも仕事でもスポーツでも同じ事だと思っている。関心があるということが全ての原点なのだ。
勉強という意味では、過去、大きく自信喪失してきた。私が大学に行けなかったことによるものだ。優しい人は、私も選べば大学へ行けたのではないかと言ってくれるのだが、そもそも受験勉強に興味が無かったので無理だったと思っている。政権が代わり、受験が廃止されでもすれば、私が大学へ行くこともあるかもしれないが。
だが、それも過去の話でこの10数年間、コンピュータと闘う日々の中である結論に達した。コンピュータの勉強と同じく大学での研究も「経験」なのだ。自分で思索し答えを出す訓練をしていない人間は、何年大学にいようが勉強はできないということ。「有名大学」を優秀な成績で「卒業」しても同じ事だ。私が最も気にしていた学歴も見せかけのものに過ぎないということだ。
私がすんなりと大学へ行っていたという仮定は成り立たないのだが、行っていたとして、すんなりと卒業はできていなかったと思う。何か好きなことをやっていたと思うが、それはこの国の大学では評価されないのだろう。カリキュラムに沿って勉強しない者は卒業させないのではないか。自分のことはいいのだが、おそらく死ぬまで未来のことが気になることだろう。この国の大学が個人の研究を支援する機関でなければこの国の未来は無いと思う。
今、医者が足らないからといって医学部の定員を増やすなどということが行われるらしい。バカが、バカを教えてどうなるというのか。医者は、人命救助という使命があると思うが、今の医者にどれだけその認識があるだろうか。若くして「先生」などと甘やかされているので勉強を怠っているとしか思えない。むしろ、今の医者の大半を首にして、医学的に無知な人でもやる気のある人間を医者に養成するといった方法の方が現実的ではないかと思う。
この国に起きている病理は、根本的なことで「やる気」が無いことから様々な問題が発生していると私は思っている。「大卒」という見せかけの経歴に個人も企業も逃げている。興味も無いのに医学を志していたりする。安易にそれでも食っていけるようなシステムが問題だろう。
私は、企業にも大学にも人を育てることにコストをかけて欲しいと思う。今のやり方は安易すぎると言うべきだろう。忘年会でちょっと耳にしたのだが、「良い子」を採らないようにしているものの、今のシステムでは結果的に有名大学の似たり寄ったりの人間が集まるようだ。こんなシステムなど止めればいいのだが、会社となるとできないのだろう。問題を先送りして、廃業した会社もあるだけに学べないのだろうかと思う。企業はともかく、大学の制度的な変革にはぜひ私も意見を残したいと思う。そんなことを考えていると妙に元気になる私だった。
「欲」
「怒り」
「無知」
だ。『老いは楽し』(国書刊行会)を読んで改めて確認したのだが、してみると私は、未だどれも解決できていない。
以前よりは、怒らなくなったものの、まだまだ怒りのエネルギーを問題解決に向けるという知恵は乏しいと思っている。怒ることそのものは、いいと思うのだが、それを暴発させては意味が無いということだ。戦国時代ではないのだから、現存する難問の解決にそのパワーを注がなければ、認められることはない。
「欲」は、口にするのも恥ずかしいくらいだ。毎日、物欲には悩んでいる。ただ、不思議に有名になりたいとか、そこそこの地位を得たいという欲は無い。ほぼ、そうしたことを望んでも無理なので諦めの境地ということもあるだろうが、昔からそうだ。見せかけよりも、実質が欲しいだけのことだから。アホウ太郎や安倍チンのような人間にはなりたくないといつも思う。
「無知」は私が最も嫌うことで、もちろん、日々これと闘うことが仕事だと思っている。少年老いやすく、学成りがたし、とはよく言ったもので、なかなか知識というものは入れられるものではない。お金もかかる。ここは、「欲望」とちょっとつながっている。純粋な欲望なのか、知識を得たいための手段なのか判別することは簡単ではない。後ろめたさも基準にはならない。あくまでも結果で判断するべきだ。結果が出なければ、それは単なる「欲望」かもしれない。
ただ、欲望と無知の問題を解決することで楽しくなることは事実だ。無知を解決するためと称して新製品を買うことはよくあることだ。結果を出すこともあるし、惨敗することもある。また、そういう判断があるからこそ、商売が成り立つのであり、まったく何も買わないということになると、景気は非常に悪くなる。買うことにためらった時には、「無知を克服するため」と思うことだ。
私の場合、学問的なこと、仕事のこと以外でも「知らない」ということに非常に反応する。悔しいという気持ちもあるが、ある人が知っている漫画とかゲームとかを自分が知らないということを恥ずかしく思うのだ。他人にあって自分がそのことに関心が無いということを激しく後悔する。関心が無いと興味も無い、従って知識とはならない。これは遊びだからということではなく学問でも仕事でもスポーツでも同じ事だと思っている。関心があるということが全ての原点なのだ。
勉強という意味では、過去、大きく自信喪失してきた。私が大学に行けなかったことによるものだ。優しい人は、私も選べば大学へ行けたのではないかと言ってくれるのだが、そもそも受験勉強に興味が無かったので無理だったと思っている。政権が代わり、受験が廃止されでもすれば、私が大学へ行くこともあるかもしれないが。
だが、それも過去の話でこの10数年間、コンピュータと闘う日々の中である結論に達した。コンピュータの勉強と同じく大学での研究も「経験」なのだ。自分で思索し答えを出す訓練をしていない人間は、何年大学にいようが勉強はできないということ。「有名大学」を優秀な成績で「卒業」しても同じ事だ。私が最も気にしていた学歴も見せかけのものに過ぎないということだ。
私がすんなりと大学へ行っていたという仮定は成り立たないのだが、行っていたとして、すんなりと卒業はできていなかったと思う。何か好きなことをやっていたと思うが、それはこの国の大学では評価されないのだろう。カリキュラムに沿って勉強しない者は卒業させないのではないか。自分のことはいいのだが、おそらく死ぬまで未来のことが気になることだろう。この国の大学が個人の研究を支援する機関でなければこの国の未来は無いと思う。
今、医者が足らないからといって医学部の定員を増やすなどということが行われるらしい。バカが、バカを教えてどうなるというのか。医者は、人命救助という使命があると思うが、今の医者にどれだけその認識があるだろうか。若くして「先生」などと甘やかされているので勉強を怠っているとしか思えない。むしろ、今の医者の大半を首にして、医学的に無知な人でもやる気のある人間を医者に養成するといった方法の方が現実的ではないかと思う。
この国に起きている病理は、根本的なことで「やる気」が無いことから様々な問題が発生していると私は思っている。「大卒」という見せかけの経歴に個人も企業も逃げている。興味も無いのに医学を志していたりする。安易にそれでも食っていけるようなシステムが問題だろう。
私は、企業にも大学にも人を育てることにコストをかけて欲しいと思う。今のやり方は安易すぎると言うべきだろう。忘年会でちょっと耳にしたのだが、「良い子」を採らないようにしているものの、今のシステムでは結果的に有名大学の似たり寄ったりの人間が集まるようだ。こんなシステムなど止めればいいのだが、会社となるとできないのだろう。問題を先送りして、廃業した会社もあるだけに学べないのだろうかと思う。企業はともかく、大学の制度的な変革にはぜひ私も意見を残したいと思う。そんなことを考えていると妙に元気になる私だった。
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