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私が今の仕事を始めてから既に10数年が過ぎた。必死でやって来たのだが、技術的には大したことはできていない。せいぜいフリーソフトの巨匠が作ったものを使わせてもらう程度だ。しかし、それさえもできず悩むことも多かった。この悩みは、少ない技術的進歩にとって欠かせないものだった。
今でもそういう悩みは持っている。従って毎日が苦しい。これを乗り越えなければ、進歩は止まるからだ。しかし、お決まりのことだが、誰も教えてはくれない。それがフリーソフトの厳しいが当たり前の掟なのだ。さすがに、2週間近く悩んでいると、そろそろ収束か、という期待もある。
これまでは、そういう時、決まって秋葉へ本を買いに行ったものだった。今では、それもできないのだ。お金が無いということではなく、本が無いからだ。新しい技術や技は、すぐには本にはならない。数年後に誰かがまとめて本にして売り出すのだろう。私には、今、欲しいのだが。
ただ、新しいことを書いているわけでは無い本を、今、読みたい気がする。そこには何かヒントがあるからだ。難しいのだが、私のこういう姿を正確に記述して同僚にも伝えたいものだと思う。それでこそ、松明を渡すことになるからだ。わかってしまう時は、いっきにわかるだけに明日こそはと信じたい。
だが、惜しいところまで行っただけで、完璧な理解には届かなかった。正確なデータ処理をするためには、まだまだ覚束ない。来週初めには、これをほぼ確実な知識に高めないといけない。幸いにも私のいいパターンになって来た。帰りの電車の中で必死に復習をしていたのだ。移動の電車の中というのは、私の最良の勉強場だったし、今もそうなのだ。
「本の読み方」というのも再確認した。参考書は、いきなり読んではいけない。まず、ネットの断片的な情報を集める。統一的ではない、その情報を自分の中で整理する。そして、その情報を元に自分のコンピュータで「実行」してみる。うまく行けば、その時点で参考書を読むのだ。もちろん、うまく行かない場合もそこで本を読む。
断片的な情報があるのでむしろ、スラスラ読める。自分の経験も加わってより具体的なイメージがわく。コンピュータ関係の本はそうやって読むのがいい。これまでずっとそうやって来たと思う。いきなり本を読んでも理解できないのは、イメージがわかないからだ。書き手も文学者ではないので実務的なことしか表現できないので当然のことなのだ。
それでもわからなければ、さらに本を買うしかない。私がよく秋葉原に行っていたのは、この段階だったのだ。大した収入も無いのに1万を超える買い物をしていたと思う。私は、その金額に興奮して、さらに勉強を進めたと思う。土日は、研究時間のためにあったようなものだった。普通ならば苦しいはずだが、岡山での無職の時代を思えば、少しも苦ではなかった。
今でもそういう悩みは持っている。従って毎日が苦しい。これを乗り越えなければ、進歩は止まるからだ。しかし、お決まりのことだが、誰も教えてはくれない。それがフリーソフトの厳しいが当たり前の掟なのだ。さすがに、2週間近く悩んでいると、そろそろ収束か、という期待もある。
これまでは、そういう時、決まって秋葉へ本を買いに行ったものだった。今では、それもできないのだ。お金が無いということではなく、本が無いからだ。新しい技術や技は、すぐには本にはならない。数年後に誰かがまとめて本にして売り出すのだろう。私には、今、欲しいのだが。
ただ、新しいことを書いているわけでは無い本を、今、読みたい気がする。そこには何かヒントがあるからだ。難しいのだが、私のこういう姿を正確に記述して同僚にも伝えたいものだと思う。それでこそ、松明を渡すことになるからだ。わかってしまう時は、いっきにわかるだけに明日こそはと信じたい。
だが、惜しいところまで行っただけで、完璧な理解には届かなかった。正確なデータ処理をするためには、まだまだ覚束ない。来週初めには、これをほぼ確実な知識に高めないといけない。幸いにも私のいいパターンになって来た。帰りの電車の中で必死に復習をしていたのだ。移動の電車の中というのは、私の最良の勉強場だったし、今もそうなのだ。
「本の読み方」というのも再確認した。参考書は、いきなり読んではいけない。まず、ネットの断片的な情報を集める。統一的ではない、その情報を自分の中で整理する。そして、その情報を元に自分のコンピュータで「実行」してみる。うまく行けば、その時点で参考書を読むのだ。もちろん、うまく行かない場合もそこで本を読む。
断片的な情報があるのでむしろ、スラスラ読める。自分の経験も加わってより具体的なイメージがわく。コンピュータ関係の本はそうやって読むのがいい。これまでずっとそうやって来たと思う。いきなり本を読んでも理解できないのは、イメージがわかないからだ。書き手も文学者ではないので実務的なことしか表現できないので当然のことなのだ。
それでもわからなければ、さらに本を買うしかない。私がよく秋葉原に行っていたのは、この段階だったのだ。大した収入も無いのに1万を超える買い物をしていたと思う。私は、その金額に興奮して、さらに勉強を進めたと思う。土日は、研究時間のためにあったようなものだった。普通ならば苦しいはずだが、岡山での無職の時代を思えば、少しも苦ではなかった。
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