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「仲間」は、失ってみてはじめてわかるのだが、「貴重」だ。それまで何の気兼ねも無かった仲間がいなくなるということは、正直こたえる。私は仕事を始めてからは何度かそういう場面に出くわして来たのだが、常にウエットでじめじめしていたのを覚えている。
京都に出て最初の大きな組織でのアルバイトの時だった。いつも一緒に仕事をしていた人が突然辞めた。少なくとも私には突然のように思えた。話を聞くと店長と衝突したそうだ。京都の大学へ行き、そのまま特に考えず就職したようだ。最後の日に一緒に飲みに行って一晩泊めてもらったのを記憶している。何回か年賀状のやりとりはあったのだが、私の方が大変な状況になり、やりとりは途絶えてしまった。
同じ組織では、アルバイトの集会のようなものがあった。団体交渉などもあって賃金の交渉やボーナスの交渉までやっていた。その中で出会った人だが、親しくなったと思ったら、もうお別れだった。その人は辞めて名古屋の方に行くのだと言っていた。おもしろいことにネットで過去の情報ながら消息が見られる。
京都で私は出会いや別れを何度か経験したのだが、どれもそれなりにじわーんと切ない思い出がある。中国人ならば、出会いも別れも日常茶飯事で、いちいち感傷的になどなっている暇が無いのだろう。私の場合は、どれも印象的であり、今につながる経験だと思っている。ロクな経験が無いのだが、女との出会いと別れも経験している。決して逃げて帰るような経験ではなかったのだが、あまり話したくない。自分が切なくなってしまうからだ。
岡山で仕事にあぶれてからの1年あまりの間の仕事仲間は、ちょっと異質だった。今でも当たり前のように仕事をやっていると思うが、運送業の仕事で引っ越しがメインであった。コンピュータを5年近くやった私には、耐えられないような重労働だった。34歳だったが、既に体力は相当に落ちていた。
一日仕事をやって8千円足らずで、2トントラックを運転すると千円ほどアップした。普通車しか運転したことのない私にとってボックス付きのトラックを運転することは冒険だった。なにしろ後ろが見えないのだから。よく事故を起こさなかったものだと思う。岡山では仕事が無いので歯をくいしばってでも仕事をする必要があったのだ。
そこで、いろんな階層の人と出会えたのが収穫だった。中国人もいたのがすごいところだった。今ならもっと外国人がいるのではないだろうか。ほとんどの人がわけありで集まっているだけに常に一触即発状態でケンカもあったそうだ。運送会社の専務が一人でスケジュールをきりもりしていたのがすごかったと思う。毎日仕事が無いので家に待機している。仕事があれば前日に電話があるという日々だった。
ギャンブル好きのおじさんといつも一緒に仕事をしていたのだが、そのおじさんはチップをもらうとすぐにパチンコに行き全部使ってしまうのだった。別れの少し前に私が東京で仕事を見つけたことを言うと、「ええのう、成功したらわしを呼んでくれー。」と言っていた。一度、ハガキを出したことがあるのだが、返事は無かった。
京都時代の友人とは付き合いが無いわけではないのだが、さすがに日常の接点が無いだけに離れてしまうとメールの交換も無くなる。私が青春時代を過ごした街の思い出なので大切にしているのだが、私の思い出だけにしまっておくのがいいのだろう。
今年は、とうとう京都に行くチャンスを逃してしまった。仕事に引きずられて予約するタイミングを逃したのだ。夏を見送ったまでは良かったのだが、秋の京都は人気が高く、要領の悪い私が勝てるはずもなかったのかもしれない。仕事があれば、もう一度、京都で暮らしてみたい気がする。
今後の私はというと、ちょっとした知り合いでも何らかの形で仕事上の付き合いができるようでありたいと思っている。さすがに、それ以外で付き合うとなると嫁さん候補でもない限り難しい。出会いというのを大切にして行きたいというのが私の真意だ。だから、確かな関係を築けずに別れを迎えるのがつらいのだ。
京都に出て最初の大きな組織でのアルバイトの時だった。いつも一緒に仕事をしていた人が突然辞めた。少なくとも私には突然のように思えた。話を聞くと店長と衝突したそうだ。京都の大学へ行き、そのまま特に考えず就職したようだ。最後の日に一緒に飲みに行って一晩泊めてもらったのを記憶している。何回か年賀状のやりとりはあったのだが、私の方が大変な状況になり、やりとりは途絶えてしまった。
同じ組織では、アルバイトの集会のようなものがあった。団体交渉などもあって賃金の交渉やボーナスの交渉までやっていた。その中で出会った人だが、親しくなったと思ったら、もうお別れだった。その人は辞めて名古屋の方に行くのだと言っていた。おもしろいことにネットで過去の情報ながら消息が見られる。
京都で私は出会いや別れを何度か経験したのだが、どれもそれなりにじわーんと切ない思い出がある。中国人ならば、出会いも別れも日常茶飯事で、いちいち感傷的になどなっている暇が無いのだろう。私の場合は、どれも印象的であり、今につながる経験だと思っている。ロクな経験が無いのだが、女との出会いと別れも経験している。決して逃げて帰るような経験ではなかったのだが、あまり話したくない。自分が切なくなってしまうからだ。
岡山で仕事にあぶれてからの1年あまりの間の仕事仲間は、ちょっと異質だった。今でも当たり前のように仕事をやっていると思うが、運送業の仕事で引っ越しがメインであった。コンピュータを5年近くやった私には、耐えられないような重労働だった。34歳だったが、既に体力は相当に落ちていた。
一日仕事をやって8千円足らずで、2トントラックを運転すると千円ほどアップした。普通車しか運転したことのない私にとってボックス付きのトラックを運転することは冒険だった。なにしろ後ろが見えないのだから。よく事故を起こさなかったものだと思う。岡山では仕事が無いので歯をくいしばってでも仕事をする必要があったのだ。
そこで、いろんな階層の人と出会えたのが収穫だった。中国人もいたのがすごいところだった。今ならもっと外国人がいるのではないだろうか。ほとんどの人がわけありで集まっているだけに常に一触即発状態でケンカもあったそうだ。運送会社の専務が一人でスケジュールをきりもりしていたのがすごかったと思う。毎日仕事が無いので家に待機している。仕事があれば前日に電話があるという日々だった。
ギャンブル好きのおじさんといつも一緒に仕事をしていたのだが、そのおじさんはチップをもらうとすぐにパチンコに行き全部使ってしまうのだった。別れの少し前に私が東京で仕事を見つけたことを言うと、「ええのう、成功したらわしを呼んでくれー。」と言っていた。一度、ハガキを出したことがあるのだが、返事は無かった。
京都時代の友人とは付き合いが無いわけではないのだが、さすがに日常の接点が無いだけに離れてしまうとメールの交換も無くなる。私が青春時代を過ごした街の思い出なので大切にしているのだが、私の思い出だけにしまっておくのがいいのだろう。
今年は、とうとう京都に行くチャンスを逃してしまった。仕事に引きずられて予約するタイミングを逃したのだ。夏を見送ったまでは良かったのだが、秋の京都は人気が高く、要領の悪い私が勝てるはずもなかったのかもしれない。仕事があれば、もう一度、京都で暮らしてみたい気がする。
今後の私はというと、ちょっとした知り合いでも何らかの形で仕事上の付き合いができるようでありたいと思っている。さすがに、それ以外で付き合うとなると嫁さん候補でもない限り難しい。出会いというのを大切にして行きたいというのが私の真意だ。だから、確かな関係を築けずに別れを迎えるのがつらいのだ。
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