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昨日、取引先の方がわざわざ仕事場を訪ねてくれてお話をした。今後、お互いに発展して行きましょうね、という仕事の挨拶なのだが、仕事を改めて考え直すいい機会になったと思う。
辞書や事典のデータを作ったりする仕事は、本来、楽しいものだ。多少なりともコンピュータをさわることが好きで、ほんの少しでも本に興味があれば十分向いていると思う。私は、女性の天職ではないかと思っている。
だが、リーダーがアホだったりすると、この仕事が苦しくなる。楽しいことが楽しくなくなってしまうのだ。仕事が無い時代のことを考えれば、あるだけマシということもあるのだが、そこは求めるモノが多くなるのでもっと、快適にとなり、現状が耐えられなくなる。一番の苦しみは、「休み」ではないかと思った。
今回、夏休みと称して5日休んだだけなのだが、これで大きく違う。嫌だと感じた仕事でもやる気がみなぎってくるのだ。普段、こういうことが普通にできていれば少しも問題は無いのだが、盆から年末までの期間、大きな休みも無いので仕事にドップリと浸かった感じになる。
アホなリーダー代表の私は、従業員を見て疲れていると感じたなら強制的にでも休ませるという指導ができないのだ。自分のことで手一杯ということだ。これでは、会社というのは発展の余地が無い。現実にそうなっている。私が感じているように、従業員は感じていないということを敏感に察知すべきなのだが、それができていない。
つまり、私は勝手に休むことができるが、従業員は多少なりとも遠慮があるということ。このことを理解していないと、裸の王様と変わらない。もちろん、私とてそう自由があるわけではない。あまりに休みが多くなると契約に響くだろうから。雇用と労働の違いという意味の違いを言っているのだが、私から見る場合と従業員から見る場合はその点が大きく異なることを知らなければならない。
きのうの帰りがけのことだった。ずっと悩んでいた文字コードの変換の件でひらめきがあった。そして、実行してみたらどうやら正しい感じだ。詳しくは今日行って調べるのだが、楽しみで仕方ない。仕事というのは、本来、こういうものなのだ。楽しくて仕方ない、だから続くのだ。私が感じているように従業員にも感じられるよう指導したいというのが私の願いだ。
あと、10年と最近の私はよく口にする。実際にどうなるのかは、誰にもわからない。私自身の直感では、あと、10年は「がんばれそうだ」と思うだけのことだ。それがどうしたのかというと、この期間に次の世代へのバトンタッチ、松明を渡すことができればと思うのだ。パートナーにもそんな言い方をした。
私が十数年前、岡山で仕事が無く苦しんだのは、岡山人の性格もあるかもしれないが、基本は企業の採用担当に「人を育てる」意志など無かったからだと思っている。そんなことをしても利益が無いと言わんばかりだ。しかし、経験者もいて、未熟な者もいての世の中だ。経験者ばかりで固めようとしても仕事は活性化されない。そこが岡山を含め多くの地方人のわかっていない点だ。したがって、今なお停滞している。
我が社と私が目指すこの国の未来は、それで終わらせたくないと思っている。自分が、それにわずかでも貢献できるとしたら幸せなのだ。会社をちゃんと育てるという事からでも協力できると思っている。今の悩みは、その会社をいかに建て直して行くのかということだ。宣伝しなくても人が集まる、そんな組織でないと意味が無いのだ。
今朝の私のように、「仕事が楽しみだ」と感じられるような、会社は有望だ。私だけでなく、従業員がそう感じられるような会社のしくみというものにこだわるのだ。これからの10年が次の世代の人々が育つのに使われるとしたら、これ以上の喜びはないと思う。もちろん、私も積極的に協力したいと思っている。
辞書や事典のデータを作ったりする仕事は、本来、楽しいものだ。多少なりともコンピュータをさわることが好きで、ほんの少しでも本に興味があれば十分向いていると思う。私は、女性の天職ではないかと思っている。
だが、リーダーがアホだったりすると、この仕事が苦しくなる。楽しいことが楽しくなくなってしまうのだ。仕事が無い時代のことを考えれば、あるだけマシということもあるのだが、そこは求めるモノが多くなるのでもっと、快適にとなり、現状が耐えられなくなる。一番の苦しみは、「休み」ではないかと思った。
今回、夏休みと称して5日休んだだけなのだが、これで大きく違う。嫌だと感じた仕事でもやる気がみなぎってくるのだ。普段、こういうことが普通にできていれば少しも問題は無いのだが、盆から年末までの期間、大きな休みも無いので仕事にドップリと浸かった感じになる。
アホなリーダー代表の私は、従業員を見て疲れていると感じたなら強制的にでも休ませるという指導ができないのだ。自分のことで手一杯ということだ。これでは、会社というのは発展の余地が無い。現実にそうなっている。私が感じているように、従業員は感じていないということを敏感に察知すべきなのだが、それができていない。
つまり、私は勝手に休むことができるが、従業員は多少なりとも遠慮があるということ。このことを理解していないと、裸の王様と変わらない。もちろん、私とてそう自由があるわけではない。あまりに休みが多くなると契約に響くだろうから。雇用と労働の違いという意味の違いを言っているのだが、私から見る場合と従業員から見る場合はその点が大きく異なることを知らなければならない。
きのうの帰りがけのことだった。ずっと悩んでいた文字コードの変換の件でひらめきがあった。そして、実行してみたらどうやら正しい感じだ。詳しくは今日行って調べるのだが、楽しみで仕方ない。仕事というのは、本来、こういうものなのだ。楽しくて仕方ない、だから続くのだ。私が感じているように従業員にも感じられるよう指導したいというのが私の願いだ。
あと、10年と最近の私はよく口にする。実際にどうなるのかは、誰にもわからない。私自身の直感では、あと、10年は「がんばれそうだ」と思うだけのことだ。それがどうしたのかというと、この期間に次の世代へのバトンタッチ、松明を渡すことができればと思うのだ。パートナーにもそんな言い方をした。
私が十数年前、岡山で仕事が無く苦しんだのは、岡山人の性格もあるかもしれないが、基本は企業の採用担当に「人を育てる」意志など無かったからだと思っている。そんなことをしても利益が無いと言わんばかりだ。しかし、経験者もいて、未熟な者もいての世の中だ。経験者ばかりで固めようとしても仕事は活性化されない。そこが岡山を含め多くの地方人のわかっていない点だ。したがって、今なお停滞している。
我が社と私が目指すこの国の未来は、それで終わらせたくないと思っている。自分が、それにわずかでも貢献できるとしたら幸せなのだ。会社をちゃんと育てるという事からでも協力できると思っている。今の悩みは、その会社をいかに建て直して行くのかということだ。宣伝しなくても人が集まる、そんな組織でないと意味が無いのだ。
今朝の私のように、「仕事が楽しみだ」と感じられるような、会社は有望だ。私だけでなく、従業員がそう感じられるような会社のしくみというものにこだわるのだ。これからの10年が次の世代の人々が育つのに使われるとしたら、これ以上の喜びはないと思う。もちろん、私も積極的に協力したいと思っている。
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