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「うつ」は病気かどうかという問題は、決着がついているようだが、私は少なくとも風邪のようなウイルスが原因の病気という範疇には入らないと考えている。当人は、病気だと言いたいと思うが、その気持ちはわかるにしても、なお病気ではないから大丈夫なのだと言いたい。もちろん、「うつ」とは無縁な人に説明するのは難しいので、「うつは病気だ」と言うのはかまわないと思う。将来、うつがどうして起こるのかが科学的にわかる日が来るかもしれないが、その時までの問題提起をしておきたい。
私が、「うつは病気だ」という見方に反対なのは、その盲信にある。特に勉強しているわけでもない精神科医を信じ切ったり、薬の効果を疑わなかったり。薬で改善したという結果が出ているのならともかく、医者もお手上げ状態というのが現状だ。医者は、「患者が欲しがるので」薬を出すのだという。「患者」は説明もされないまま、何年も危険な薬を飲み続ける。おかしいのではないか?
うつは経験した人でないとその苦しみはわからない。私は、自分でも経験しているのだが、知り合いに言わせると「あんたのは、本当のうつではない!」そうだ。だから、私にうつを語る資格が無いとでも言いたいのだろうか。うつの定義もいろいろとあるのだが、どれもあいまいと言わざるをえない。十人十色の定義にまどわされることなくうつを検討しなければならない。
私がうつの「核心」だと思うのは、その、「考え方」だ。医者は、それは認めずに、むしろ「人格障害」というカテゴリーをもうけて分類しているようだ。精神科医は、「文学者」かと思えるほどいろいろな表現を使うようだ。自分で手に負えないとなった場合には、ご丁寧にも「難治性」という枕詞をつける。これでは治るものもますます治らなくなるのは明らかだ。私のようにものの「考え方」が原因だという立場からは、当然で「難治性」と暗示をかけられるとますます悪くなるだろうと想像できる。本人の考え方が偏っているのでそれにそった方向でしか動かないからだ。
そうではなく、人格が変わったかと思えるほど、他の考え方を入れることができるならば結果は大きく違ったことだろうと思う。そして、それは、不可能なことではない。ちょっとしたタイミングを選ぶことと納得できる人物に助言されることでいい。現実には、それがなかなか難しいので「うつ」は治らないという結果のみが残ることになる。
私も思えば頑なな人間だったと思う。同窓会ではクラスメートが私を「おめーは、どこまでも我が道を行く人間じゃ。」と評するほどの強烈なキャラクターだったようだ。その私が、大学受験に失敗して「うつ」状態になり、さらにそれ以上悪くならなかったのはなぜかと言えば、「変わった」からに他ならない。私にしてみれば、人格を変えるほどの譲歩だったのかもしれない。たまたま、出会った教師のおかげで私は、素直になれる自分を感じていた。
自分が通ってきた道をたどってみると、「うつ」の傾向というのがわかる。強烈な自我がその通り、思いを遂げることができれば何も問題は無いのだが、現実にはそんなことは滅多にない。さらに強烈な自我(あるいは現実)と出会い、曲げられてしまう。その時の対処次第では、「うつ」に陥ってしまう。うつを治すということはとりもなおさず、多様な意見を聞き入れること、これに尽きる。何も大事な人と運命的に出会うことが必要条件では無いということだ。自分が受け入れることで変化は可能なのだ。
私は、「うつ」を治すのに薬を中心とした「治療」に反対する。これで治療できているとするには根拠が薄すぎる。また、抗不安薬を中心とした不眠治療にも反対する。いくら薬が効いたとしても、根本的な解決にはなっていない。医者を儲けさせるだけのことだ。
うつを治すには、第一段階としてすべての薬を止めるというのが必要なことだ。第二段階では、運動や筋トレを日常の中に取り入れることが必要だ。同時に専門医にかかり、栄養の偏りがあれば正すこと。そして第三段階では、ものの考え方について検討してみること。いろんな本を読むことが大事だと思うのだが、そもそもそれでは偏ってしまうかもしれない。偏りの根本に強烈過ぎる自己があるからだ。自己を見つめ直す鍛錬はどうしたらいいかということだ。
(つづく)
私が、「うつは病気だ」という見方に反対なのは、その盲信にある。特に勉強しているわけでもない精神科医を信じ切ったり、薬の効果を疑わなかったり。薬で改善したという結果が出ているのならともかく、医者もお手上げ状態というのが現状だ。医者は、「患者が欲しがるので」薬を出すのだという。「患者」は説明もされないまま、何年も危険な薬を飲み続ける。おかしいのではないか?
うつは経験した人でないとその苦しみはわからない。私は、自分でも経験しているのだが、知り合いに言わせると「あんたのは、本当のうつではない!」そうだ。だから、私にうつを語る資格が無いとでも言いたいのだろうか。うつの定義もいろいろとあるのだが、どれもあいまいと言わざるをえない。十人十色の定義にまどわされることなくうつを検討しなければならない。
私がうつの「核心」だと思うのは、その、「考え方」だ。医者は、それは認めずに、むしろ「人格障害」というカテゴリーをもうけて分類しているようだ。精神科医は、「文学者」かと思えるほどいろいろな表現を使うようだ。自分で手に負えないとなった場合には、ご丁寧にも「難治性」という枕詞をつける。これでは治るものもますます治らなくなるのは明らかだ。私のようにものの「考え方」が原因だという立場からは、当然で「難治性」と暗示をかけられるとますます悪くなるだろうと想像できる。本人の考え方が偏っているのでそれにそった方向でしか動かないからだ。
そうではなく、人格が変わったかと思えるほど、他の考え方を入れることができるならば結果は大きく違ったことだろうと思う。そして、それは、不可能なことではない。ちょっとしたタイミングを選ぶことと納得できる人物に助言されることでいい。現実には、それがなかなか難しいので「うつ」は治らないという結果のみが残ることになる。
私も思えば頑なな人間だったと思う。同窓会ではクラスメートが私を「おめーは、どこまでも我が道を行く人間じゃ。」と評するほどの強烈なキャラクターだったようだ。その私が、大学受験に失敗して「うつ」状態になり、さらにそれ以上悪くならなかったのはなぜかと言えば、「変わった」からに他ならない。私にしてみれば、人格を変えるほどの譲歩だったのかもしれない。たまたま、出会った教師のおかげで私は、素直になれる自分を感じていた。
自分が通ってきた道をたどってみると、「うつ」の傾向というのがわかる。強烈な自我がその通り、思いを遂げることができれば何も問題は無いのだが、現実にはそんなことは滅多にない。さらに強烈な自我(あるいは現実)と出会い、曲げられてしまう。その時の対処次第では、「うつ」に陥ってしまう。うつを治すということはとりもなおさず、多様な意見を聞き入れること、これに尽きる。何も大事な人と運命的に出会うことが必要条件では無いということだ。自分が受け入れることで変化は可能なのだ。
私は、「うつ」を治すのに薬を中心とした「治療」に反対する。これで治療できているとするには根拠が薄すぎる。また、抗不安薬を中心とした不眠治療にも反対する。いくら薬が効いたとしても、根本的な解決にはなっていない。医者を儲けさせるだけのことだ。
うつを治すには、第一段階としてすべての薬を止めるというのが必要なことだ。第二段階では、運動や筋トレを日常の中に取り入れることが必要だ。同時に専門医にかかり、栄養の偏りがあれば正すこと。そして第三段階では、ものの考え方について検討してみること。いろんな本を読むことが大事だと思うのだが、そもそもそれでは偏ってしまうかもしれない。偏りの根本に強烈過ぎる自己があるからだ。自己を見つめ直す鍛錬はどうしたらいいかということだ。
(つづく)
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