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18年前の今日、父が逝った。がんの痛みを和らげるために点滴で入れた鎮痛薬が効きすぎて、3日くらい昏睡が続いていてどうなることかと思っていたのが7月の末だった。意識が戻って、皆で良かった良かったと喜んだのも束の間ですぐに機嫌が悪くなっていった。父も、もう良くなるとは思っていなかったと思う。
前の晩に母と別れの言葉を交わし、そのまま寝てしまったという。朝、交代で病院へ行き、母と普通に話をしていたら、なんと父の瞳孔が開いていた。おかしいと言っていたら、脈が急激に落ちてきて医者が飛び込んで来てそのまま逝ってしまった。瞳孔の開いた顔が恐ろしくて、今でもはっきりと覚えているくらいだ。それは、驚いたような、ひどく疲れたような、そんな顔だった。一番元気だった父が60歳で死ぬなど考えたこともなかった。
今ならば、ビタミンCの点滴療法もあるのだし、助からないまでも最後まで元気に生きられたかもしれない。当時から、やっている所ではやっていたのだから、私が無知だったと思う。当時は、医学も役に立たないものだという気がしていたのだが、それは今でもそんなに変わらないことだ。つまり、マニュアル医師の手にかかると助かる命も助からないということ。
父の死により、残された私たちの生活がガラリと変わったのは言うまでもない。ただ、私は無職で京都から帰ったばかりだった。このまま遊んで暮らせるわけもなく、しかし、仕事が簡単に見つかるわけでもなく、どうしようかという段階だったのだ。ほんの2ヶ月前に病床で父と仕事のこととか、結婚相手のこととかを話したばかりだったのだが、その父がもういないのだ。
母は、この日を境に「うつ病」のようになって行った。ただし、これは連れ合いを失ったことによるものなので理由がわからないということではなかった。ユーロジンもこの頃から飲み始めたようだ。(現在は、止めることができている。)仕事の無い私は、常にイライラして、そうでなくとも弱気になっている母に悪態をつくことも一度や二度では無かったと思う。その度に母は、まさに「うつ病」のようになって行った。
ただ、3年くらいしてから母は復活したかのように元気になって行った。私も仕事を何とかこなしていたので、仕事があるうちは何とかうまく生きられていた。しかし、世の中、うまく行かないもので、私もまた冬の時代を迎えるのであった。5年まで行かなかったと思うが、勤めていたオフィスコンピュータ向けソフト開発会社が傾き始め、私もリストラとなったわけだ。形としては、自主的に退社なのだが、止めざるを得ない状況だったのだ。
私は、岡山で唯一、いつでも仕事がある「引っ越し屋」稼業に転身した。完全な日雇い労働で同じような人がたくさんいた。もちろん、私と同じように30代の人もいた。多くは、50歳代で同じく仕事が無いという人だったように思うが。浪人時代以来のことなので、体がバラバラになりそうなくらいきつく感じた。こういう仕事を1年くらい続けた後で、また、ソフトウエア開発会社でアルバイトの口があり、そちらにまた転身したのだが、数ヶ月で終わってしまった。あの阪神大震災があった年のことだった。
再び、引っ越し屋に戻った私は、ひょっとしたらこの仕事を生涯続けることになるのかなと思ったり、まったく先が見えないと思ったりの毎日だった。世の中は、まだパソコン通信の時代で、私は、かねてから温めていたいた企画をある出版社に送った。今では、信じられないことなのだが、すぐに反応があった。そして、それが今の仕事につながっているのだから、世の中、わからないものだ。
私にはそれでも一つ心配なことがあった。弱っていた母のことだ。しかし、母は、私に仕事が入ってきたことを喜び、自分もがんばると言い出した。こうなるともう何も障害がないので、私がいなければ不要のクルマを処分して、その金でこちらに出てくる資金を捻出することになった。私は、その後も何年間か、無いクルマにお金を払い続けた。この時期も非常に苦しかった。何よりも、精神的に苦しかった。
東京での生活も、そう、うまく行くはずもなく、いつ転職するか、そういうことばかりを考えていた。ただ、父が死んでまともな就職を決めたものの、絵に描いたように転落し、また復活した。人生、そんなにうまく行くはずもないことを少しは学んだような気がしていた。そうこうしているうちに出会うことになったのが、パートナーだったのだ。
父の命日に際して、今後どう生きるのか、どうしたいのか、どうすべきなのか、そんなことを考えてみた。人を育てるということができなければならないだろう。自分も大事なのだが、今後は、それは置いておいても私よりもずっと長生きする人たちのことを考えて生きるべきだろうと思う。
前の晩に母と別れの言葉を交わし、そのまま寝てしまったという。朝、交代で病院へ行き、母と普通に話をしていたら、なんと父の瞳孔が開いていた。おかしいと言っていたら、脈が急激に落ちてきて医者が飛び込んで来てそのまま逝ってしまった。瞳孔の開いた顔が恐ろしくて、今でもはっきりと覚えているくらいだ。それは、驚いたような、ひどく疲れたような、そんな顔だった。一番元気だった父が60歳で死ぬなど考えたこともなかった。
今ならば、ビタミンCの点滴療法もあるのだし、助からないまでも最後まで元気に生きられたかもしれない。当時から、やっている所ではやっていたのだから、私が無知だったと思う。当時は、医学も役に立たないものだという気がしていたのだが、それは今でもそんなに変わらないことだ。つまり、マニュアル医師の手にかかると助かる命も助からないということ。
父の死により、残された私たちの生活がガラリと変わったのは言うまでもない。ただ、私は無職で京都から帰ったばかりだった。このまま遊んで暮らせるわけもなく、しかし、仕事が簡単に見つかるわけでもなく、どうしようかという段階だったのだ。ほんの2ヶ月前に病床で父と仕事のこととか、結婚相手のこととかを話したばかりだったのだが、その父がもういないのだ。
母は、この日を境に「うつ病」のようになって行った。ただし、これは連れ合いを失ったことによるものなので理由がわからないということではなかった。ユーロジンもこの頃から飲み始めたようだ。(現在は、止めることができている。)仕事の無い私は、常にイライラして、そうでなくとも弱気になっている母に悪態をつくことも一度や二度では無かったと思う。その度に母は、まさに「うつ病」のようになって行った。
ただ、3年くらいしてから母は復活したかのように元気になって行った。私も仕事を何とかこなしていたので、仕事があるうちは何とかうまく生きられていた。しかし、世の中、うまく行かないもので、私もまた冬の時代を迎えるのであった。5年まで行かなかったと思うが、勤めていたオフィスコンピュータ向けソフト開発会社が傾き始め、私もリストラとなったわけだ。形としては、自主的に退社なのだが、止めざるを得ない状況だったのだ。
私は、岡山で唯一、いつでも仕事がある「引っ越し屋」稼業に転身した。完全な日雇い労働で同じような人がたくさんいた。もちろん、私と同じように30代の人もいた。多くは、50歳代で同じく仕事が無いという人だったように思うが。浪人時代以来のことなので、体がバラバラになりそうなくらいきつく感じた。こういう仕事を1年くらい続けた後で、また、ソフトウエア開発会社でアルバイトの口があり、そちらにまた転身したのだが、数ヶ月で終わってしまった。あの阪神大震災があった年のことだった。
再び、引っ越し屋に戻った私は、ひょっとしたらこの仕事を生涯続けることになるのかなと思ったり、まったく先が見えないと思ったりの毎日だった。世の中は、まだパソコン通信の時代で、私は、かねてから温めていたいた企画をある出版社に送った。今では、信じられないことなのだが、すぐに反応があった。そして、それが今の仕事につながっているのだから、世の中、わからないものだ。
私にはそれでも一つ心配なことがあった。弱っていた母のことだ。しかし、母は、私に仕事が入ってきたことを喜び、自分もがんばると言い出した。こうなるともう何も障害がないので、私がいなければ不要のクルマを処分して、その金でこちらに出てくる資金を捻出することになった。私は、その後も何年間か、無いクルマにお金を払い続けた。この時期も非常に苦しかった。何よりも、精神的に苦しかった。
東京での生活も、そう、うまく行くはずもなく、いつ転職するか、そういうことばかりを考えていた。ただ、父が死んでまともな就職を決めたものの、絵に描いたように転落し、また復活した。人生、そんなにうまく行くはずもないことを少しは学んだような気がしていた。そうこうしているうちに出会うことになったのが、パートナーだったのだ。
父の命日に際して、今後どう生きるのか、どうしたいのか、どうすべきなのか、そんなことを考えてみた。人を育てるということができなければならないだろう。自分も大事なのだが、今後は、それは置いておいても私よりもずっと長生きする人たちのことを考えて生きるべきだろうと思う。
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