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永井龍雲メールマガジン『ともしびクラブ発足記念イベント』へ行ってきた。夜の7時半始まりという、遅い時間のスタートだった。睡眠不足ではなかったが、夜になって外出というのは久しぶりなので、根っからの田舎者の私は、体調が悪かった。おまけに運動をしていない。
送られてきたハガキをよくよく見ると、「記念イベント」とあった。つまり、ライブではなく歌をうたうけども短いよ、という意思表示であった。案の定、最初は、トークの時間、小休憩してミニライブという感じだった。合計で2時間くらいだ。しかし、結果的にトークの時間だけでもよかったくらい安らいだ。
部屋に入ると、私が苦手な狭苦しい配置のレストラン風だった。デビュー30周年記念ライブを流していたのが目新しかった。席についても具合が悪く、途中で出るかもしれないなと思ったりした。そこへ、待ってましたとばかりに、「流れよ」が始まった。プロジェクターなので写りは悪かったが、3月の興奮がよみがえる瞬間だった。私の気分はみるみる良くなり、ドーパミンが出ているのがわかるくらいだった。
従来の私ならあり得ないことだが、今日は歌が作られた時のエピソードを知りたくはないかと、いきなり司会者が耳寄りな話題をふるので思わず手を挙げてしまった。龍雲の目にとまり、「流れよ!」と私は叫んだ。皆さんは、「おー」と声を上げていたから同じく知りたいことだったのかもしれない。龍雲は、「だから、流れの中で出来たんですよ。」と笑いをとった後で、当時、中国の旅行ガイドのような本があって、それに触発されて作ったようだった。これは、私が、「ラジオで大陸を意識して作ったと言われてました。」と突っ込んだら正直に答えてくれたのだった。「人の四季」なども同じ流れで作ったそうだ。
もちろん、きっかけはそうだったと思うが、中身は自分の当時の状況の反映であることは間違いない。そして、そこに私がぴたりとはまり息を吹き返したのだった。まさに、この「流れよ」という1曲で命の炎が消えかかっていた私が救われたのだった。私のような人間が龍雲という歌手に出会い、その詞、曲、声、顔により助けられた瞬間だった。若くして龍雲は大ヒットという幸運に恵まれなかった。しかし、まさにそれと引き替えにして、人をも救うことができる、本当の歌を作れる歌手として育つこととなったのであった。
秋には、ニューアルバム、年末には東京、大阪でコンサートホールでのコンサートをやるそうだ。龍雲としては、第二期黄金期をと躍起になっているようだ。30年の修行があるだけにそれも夢ではないように思えてくるから恐ろしい。やはり、他の歌手に提供した楽曲が大ヒットという形をとり、龍雲も大ヒットという図式となるだろうか。私はファンとして大してかかわれないのがつらいところだ。
今日は、間に合わなかったのだが、来月のライブではマイケルのアナサジフルートを持って行くつもりだ。龍雲が気に入ってくれるかどうかわからないのだが、私の気持ちは受け取って欲しい。ファンクラブの代表の方と挨拶は交わした。まだ私のブログは見ていないと言っていた。仕事が忙しくそれどころではないのかもしれない。
「流れよ」の啓示によって死を免れた私は、ここまで生きてきて何かいいことはあったろうか。答えは、「大あり」だ。パートナーと出会えたことでも、生きていればこそなのだ。京都時代は、必ずしもいいことばかりではなかったが、その後を生きるための準備期間であったことは自分でも納得している。最近では、マイケルにも出会えて笛まで吹き始めた。私自身は、まだ人を助けるまでのカリスマ性は無いのだが、私の目標は、人を救うまでに力のある文章を書くことだ。龍雲が30年前に示してくれたことを今度は私がしてみたい。
送られてきたハガキをよくよく見ると、「記念イベント」とあった。つまり、ライブではなく歌をうたうけども短いよ、という意思表示であった。案の定、最初は、トークの時間、小休憩してミニライブという感じだった。合計で2時間くらいだ。しかし、結果的にトークの時間だけでもよかったくらい安らいだ。
部屋に入ると、私が苦手な狭苦しい配置のレストラン風だった。デビュー30周年記念ライブを流していたのが目新しかった。席についても具合が悪く、途中で出るかもしれないなと思ったりした。そこへ、待ってましたとばかりに、「流れよ」が始まった。プロジェクターなので写りは悪かったが、3月の興奮がよみがえる瞬間だった。私の気分はみるみる良くなり、ドーパミンが出ているのがわかるくらいだった。
従来の私ならあり得ないことだが、今日は歌が作られた時のエピソードを知りたくはないかと、いきなり司会者が耳寄りな話題をふるので思わず手を挙げてしまった。龍雲の目にとまり、「流れよ!」と私は叫んだ。皆さんは、「おー」と声を上げていたから同じく知りたいことだったのかもしれない。龍雲は、「だから、流れの中で出来たんですよ。」と笑いをとった後で、当時、中国の旅行ガイドのような本があって、それに触発されて作ったようだった。これは、私が、「ラジオで大陸を意識して作ったと言われてました。」と突っ込んだら正直に答えてくれたのだった。「人の四季」なども同じ流れで作ったそうだ。
もちろん、きっかけはそうだったと思うが、中身は自分の当時の状況の反映であることは間違いない。そして、そこに私がぴたりとはまり息を吹き返したのだった。まさに、この「流れよ」という1曲で命の炎が消えかかっていた私が救われたのだった。私のような人間が龍雲という歌手に出会い、その詞、曲、声、顔により助けられた瞬間だった。若くして龍雲は大ヒットという幸運に恵まれなかった。しかし、まさにそれと引き替えにして、人をも救うことができる、本当の歌を作れる歌手として育つこととなったのであった。
秋には、ニューアルバム、年末には東京、大阪でコンサートホールでのコンサートをやるそうだ。龍雲としては、第二期黄金期をと躍起になっているようだ。30年の修行があるだけにそれも夢ではないように思えてくるから恐ろしい。やはり、他の歌手に提供した楽曲が大ヒットという形をとり、龍雲も大ヒットという図式となるだろうか。私はファンとして大してかかわれないのがつらいところだ。
今日は、間に合わなかったのだが、来月のライブではマイケルのアナサジフルートを持って行くつもりだ。龍雲が気に入ってくれるかどうかわからないのだが、私の気持ちは受け取って欲しい。ファンクラブの代表の方と挨拶は交わした。まだ私のブログは見ていないと言っていた。仕事が忙しくそれどころではないのかもしれない。
「流れよ」の啓示によって死を免れた私は、ここまで生きてきて何かいいことはあったろうか。答えは、「大あり」だ。パートナーと出会えたことでも、生きていればこそなのだ。京都時代は、必ずしもいいことばかりではなかったが、その後を生きるための準備期間であったことは自分でも納得している。最近では、マイケルにも出会えて笛まで吹き始めた。私自身は、まだ人を助けるまでのカリスマ性は無いのだが、私の目標は、人を救うまでに力のある文章を書くことだ。龍雲が30年前に示してくれたことを今度は私がしてみたい。
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