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当ブログで勝手にリンクを張らせていただいている、『たまごのブログ』さんのBBSでちょっとした波乱が起きている。たまごエンジェルさんのBBSが「さくら」だらけではないのかという人が現れたのだった。他にも、たまごエンジェルさんが実験目的にブログを運営しているのではないかという疑問も投げかけている。もちろん、たまごエンジェルさんは、カンカンで今後、投稿をするならまず謝罪を、とえらい剣幕だ。
私は、こう想像する。
「匿名」さん(投稿者は、匿名と名乗っている)もまた、「薬がなぜいけないのか」について悩み、今の医者と同等な「権威」が欲しいのだと思う。「匿名」さん自身も薬からの離脱に踏み切っているらしいので、どちらかと言えば薬を見限っている方に属するのだと思う。そして、その中で『たまごのブログ』に出会い、BBSで活発な離脱議論を読み、今の医者と釣り合う裏付けも無い現状のままで、「薬を止めよう」という議論が盛り上がっていることに違和感を感じた。そして、そこに離脱症状の影響もあって「鬼」を見たのではないか。
つまり、何もかも信じられなくなっている不安定な中で疑心暗鬼に陥っているということだ。残念ながら、「匿名」さんは、謝罪して議論に参加するのではなく、もう投稿しないという道を選んでしまった。せっかく生まれた出会いの場が波紋を残した瞬間だった。お隣の中国では、「ケンカをすればするほど仲良くなれる」ということわざが常識のようになっていると聞く。「匿名」さんもそれにならい、これをチャンスに切り替えるべきではなかったか。
権威という言葉が合わないとすると、「確かなもの」と言い換えてもいい。私も自分の経験から、理由のある不安やうつに対して薬は必要ないと訴えてきたのだが、意外にも薬信奉者からの反撃に遭遇することがあった。「薬は必要悪だ」と。あるいは、止めたところで何も変わらなかった、それならば、まだ、薬に賭けてみる価値があると。私は耳を疑ったが、それが事実だった。私にとっては、ベンゾジアゼピン誘導体の薬が激しい異存を生じること、免疫の細胞まで眠らせてしまうことを聞くだけで、断薬の動機として十分だったのに!そこに証拠や権威や「確かなもの」など必要なかった。
しかし、そうは考えない人たちがいるということを認識することが私の再出発地点だった。また、厳密には私の動機というのは「他人任せ」であった。つまり、大事な人が同じく薬漬けにされてしまっている現実があった。これを何とか救いたいという思いが強かった。私が先にお手本を示して、大丈夫だということを知らせる必要があったのだ。だからこそ、私の「薬から離脱」への信念は、強力なものがあった。そうした信念が見当たらない人々にとって、薬を断つということは、確かに厳しいものがあると思える。
ただ、自分が薬を断ち、大事な人の離脱を見届けるにあたって、我慢とちょっとした知識が足らなかったように思う。相手にじっくりと考える時間をあげる必要があったということ。離脱するまでには、人によって何年もかかるかもしれない、という知識だ。後者は、たまごエンジェルさんのブログを読んで初めて知ったのだった。自分の経験では、長くとも半年レベルで離脱できると思っていたのだ。だから、いつまでも不調を訴える相手に対して、いたわりの言葉が欠けていたと思う。
薬を止めたからといって、心の不調が治るとは限らないことは事実だ。断薬は、スタート地点に過ぎないからだ。不調を治すには、その原因を突き止め、変えるしかない。それが、他人の言動によるものであれば、変えることはできないことを知らなければならない。あくまでも変化が可能なのは、自分だけだ。また、原因が会社のような組織ならば、臆すること無く自分の考えを述べて必要ならば、辞めることも検討しなければならない。それが、変わることなのだ。そのような会社は、やがて行き詰まることだろうと思う。会社を辞めるのは自分なのはなぜか?と思う人もあると思うが、この世の中の動きはそんなものなのだ、ということを知らなければならないということだ。体調を崩してまでもしがみつくには、あまりに、あまりに価値の無い存在なのだということに気がつくかどうかが重要なのだ。
薬からの離脱に現実的に役立つことは、運動だ。ただ、歩くだけでもいい。私は、膝をいわしてしまうほど歩いた。真冬でも汗が出るほど歩いた。パートナーのためだと思うと、俄然、張り切ることができた。一歩、歩くごとに前向きな考えになることを感じた。そして、反跳性の不眠にはCDの自然音をよく利用した。何でもいいと思うが自分が安らぐ音を適当なサイクルで変えるのが良かったように思う。それでも眠れない夜は、ザウルスでネットを散策した。もうザウルスは古いので今時のモバイル機器を使えばいいだろう。画面が小さいもので普通にネットが見られるとなると富士通、LOOX Uがいいように思うがそれは、好みの問題だろう。私の場合は、2時半頃までネットを見ると疲れて眠れていた。
5ヶ月くらい経った頃、パニック的な感情や頭の重さ、不眠から徐々に解放されてきた。これをもって「離脱完了」としていいのかどうかわからないのだが、私の場合は、そうした。ただ、それでも去年の暑さとかにはさすがに耐えきれず、気分が悪くなることも度々だった。あるいは、リバウンドであったのかもしれない。真冬でもパニックになったこともあった。この時は、アルコールがまずかったようだ。要するに、脳が混乱するようなものは、しばらくの間は控えた方がいいということだろう。どれだけかということは自分が決めるしかない。
医者から処方された向精神薬は、飲むべきではないというのが私の結論だ。これは、麻薬に近い危険な薬だからだ。飲むとしたら、入院して医者の厳重な管理が必要だと言えるくらい危険なものだ。『薬のチェックは命のチェック』を発行している浜先生は、この雑誌で「医者の言いなりにならないように」ということを繰り返し主張している。私もこれが正しい態度だと思う。昔も今も医者は、権威者ではないのだ。人の意見はよく聞くべきだと思うが、言いなりになってはいけないということだ。
これまでのことを悲観することはないと思う。いい経験だと思って、むしろ喜ぶべきだと思うことだ。離脱は困難ではあるが、できないことではない。適度な運動と栄養、そして、何らかの信念があれば強力だ。できれば、自分にとって無理の無い形で他人の意見を聞けるようになれれば、なおいい。しかし、無理をしないことだ。
私は、仕事柄、わからないことがあれば徹底的に研究しなければ納得できないたちだ。「知識」というのが唯一の商売道具だからだ。ベンゾジアゼピン誘導体の薬である、コンスタンで薬漬けになった時には、あらゆる情報を集めて医者を切り、断薬を決行した。今の世の中では、向精神薬で国民を自殺に追い込んだり、殺人を犯させたりするのが、どうやら国策のようなので、医者に離脱を指導してもらうことは無理なのだ。腹を決めることが大切だ。
当然、他の人も同じようにふるまうのかと思いきや、そうではなかった。薬を飲めば、治ると思う人もまた、いっぱいいるのだ。そういう人々に自論をぶつけてみても虚しい結果に終わることを確認した。どうしていいのかわからない不安の中で薬を飲む、飲まざるを得ない人々も大勢いるのだ。私は、そうした人々への配慮を欠いていたように思う。納得できるかどうかはわからないが、判断に迷う場合は、両極端の意見をとりあえず聞くことでやり過ごすのでいいのではないか。医者の意見ばかりでなく、長年、薬害タミフルと闘ってきた、医薬ビジランスセンターの浜六郎先生のような人の意見も聞くべきだと思う。そして、どちらが自分にとって役立つかを決めればいい。
そして、自分でも調べたり、気分が良ければ趣味に没頭したりすればいいと思う。せっかく生きているのだから、楽しまないと損だ。
私は、こう想像する。
「匿名」さん(投稿者は、匿名と名乗っている)もまた、「薬がなぜいけないのか」について悩み、今の医者と同等な「権威」が欲しいのだと思う。「匿名」さん自身も薬からの離脱に踏み切っているらしいので、どちらかと言えば薬を見限っている方に属するのだと思う。そして、その中で『たまごのブログ』に出会い、BBSで活発な離脱議論を読み、今の医者と釣り合う裏付けも無い現状のままで、「薬を止めよう」という議論が盛り上がっていることに違和感を感じた。そして、そこに離脱症状の影響もあって「鬼」を見たのではないか。
つまり、何もかも信じられなくなっている不安定な中で疑心暗鬼に陥っているということだ。残念ながら、「匿名」さんは、謝罪して議論に参加するのではなく、もう投稿しないという道を選んでしまった。せっかく生まれた出会いの場が波紋を残した瞬間だった。お隣の中国では、「ケンカをすればするほど仲良くなれる」ということわざが常識のようになっていると聞く。「匿名」さんもそれにならい、これをチャンスに切り替えるべきではなかったか。
権威という言葉が合わないとすると、「確かなもの」と言い換えてもいい。私も自分の経験から、理由のある不安やうつに対して薬は必要ないと訴えてきたのだが、意外にも薬信奉者からの反撃に遭遇することがあった。「薬は必要悪だ」と。あるいは、止めたところで何も変わらなかった、それならば、まだ、薬に賭けてみる価値があると。私は耳を疑ったが、それが事実だった。私にとっては、ベンゾジアゼピン誘導体の薬が激しい異存を生じること、免疫の細胞まで眠らせてしまうことを聞くだけで、断薬の動機として十分だったのに!そこに証拠や権威や「確かなもの」など必要なかった。
しかし、そうは考えない人たちがいるということを認識することが私の再出発地点だった。また、厳密には私の動機というのは「他人任せ」であった。つまり、大事な人が同じく薬漬けにされてしまっている現実があった。これを何とか救いたいという思いが強かった。私が先にお手本を示して、大丈夫だということを知らせる必要があったのだ。だからこそ、私の「薬から離脱」への信念は、強力なものがあった。そうした信念が見当たらない人々にとって、薬を断つということは、確かに厳しいものがあると思える。
ただ、自分が薬を断ち、大事な人の離脱を見届けるにあたって、我慢とちょっとした知識が足らなかったように思う。相手にじっくりと考える時間をあげる必要があったということ。離脱するまでには、人によって何年もかかるかもしれない、という知識だ。後者は、たまごエンジェルさんのブログを読んで初めて知ったのだった。自分の経験では、長くとも半年レベルで離脱できると思っていたのだ。だから、いつまでも不調を訴える相手に対して、いたわりの言葉が欠けていたと思う。
薬を止めたからといって、心の不調が治るとは限らないことは事実だ。断薬は、スタート地点に過ぎないからだ。不調を治すには、その原因を突き止め、変えるしかない。それが、他人の言動によるものであれば、変えることはできないことを知らなければならない。あくまでも変化が可能なのは、自分だけだ。また、原因が会社のような組織ならば、臆すること無く自分の考えを述べて必要ならば、辞めることも検討しなければならない。それが、変わることなのだ。そのような会社は、やがて行き詰まることだろうと思う。会社を辞めるのは自分なのはなぜか?と思う人もあると思うが、この世の中の動きはそんなものなのだ、ということを知らなければならないということだ。体調を崩してまでもしがみつくには、あまりに、あまりに価値の無い存在なのだということに気がつくかどうかが重要なのだ。
薬からの離脱に現実的に役立つことは、運動だ。ただ、歩くだけでもいい。私は、膝をいわしてしまうほど歩いた。真冬でも汗が出るほど歩いた。パートナーのためだと思うと、俄然、張り切ることができた。一歩、歩くごとに前向きな考えになることを感じた。そして、反跳性の不眠にはCDの自然音をよく利用した。何でもいいと思うが自分が安らぐ音を適当なサイクルで変えるのが良かったように思う。それでも眠れない夜は、ザウルスでネットを散策した。もうザウルスは古いので今時のモバイル機器を使えばいいだろう。画面が小さいもので普通にネットが見られるとなると富士通、LOOX Uがいいように思うがそれは、好みの問題だろう。私の場合は、2時半頃までネットを見ると疲れて眠れていた。
5ヶ月くらい経った頃、パニック的な感情や頭の重さ、不眠から徐々に解放されてきた。これをもって「離脱完了」としていいのかどうかわからないのだが、私の場合は、そうした。ただ、それでも去年の暑さとかにはさすがに耐えきれず、気分が悪くなることも度々だった。あるいは、リバウンドであったのかもしれない。真冬でもパニックになったこともあった。この時は、アルコールがまずかったようだ。要するに、脳が混乱するようなものは、しばらくの間は控えた方がいいということだろう。どれだけかということは自分が決めるしかない。
医者から処方された向精神薬は、飲むべきではないというのが私の結論だ。これは、麻薬に近い危険な薬だからだ。飲むとしたら、入院して医者の厳重な管理が必要だと言えるくらい危険なものだ。『薬のチェックは命のチェック』を発行している浜先生は、この雑誌で「医者の言いなりにならないように」ということを繰り返し主張している。私もこれが正しい態度だと思う。昔も今も医者は、権威者ではないのだ。人の意見はよく聞くべきだと思うが、言いなりになってはいけないということだ。
これまでのことを悲観することはないと思う。いい経験だと思って、むしろ喜ぶべきだと思うことだ。離脱は困難ではあるが、できないことではない。適度な運動と栄養、そして、何らかの信念があれば強力だ。できれば、自分にとって無理の無い形で他人の意見を聞けるようになれれば、なおいい。しかし、無理をしないことだ。
私は、仕事柄、わからないことがあれば徹底的に研究しなければ納得できないたちだ。「知識」というのが唯一の商売道具だからだ。ベンゾジアゼピン誘導体の薬である、コンスタンで薬漬けになった時には、あらゆる情報を集めて医者を切り、断薬を決行した。今の世の中では、向精神薬で国民を自殺に追い込んだり、殺人を犯させたりするのが、どうやら国策のようなので、医者に離脱を指導してもらうことは無理なのだ。腹を決めることが大切だ。
当然、他の人も同じようにふるまうのかと思いきや、そうではなかった。薬を飲めば、治ると思う人もまた、いっぱいいるのだ。そういう人々に自論をぶつけてみても虚しい結果に終わることを確認した。どうしていいのかわからない不安の中で薬を飲む、飲まざるを得ない人々も大勢いるのだ。私は、そうした人々への配慮を欠いていたように思う。納得できるかどうかはわからないが、判断に迷う場合は、両極端の意見をとりあえず聞くことでやり過ごすのでいいのではないか。医者の意見ばかりでなく、長年、薬害タミフルと闘ってきた、医薬ビジランスセンターの浜六郎先生のような人の意見も聞くべきだと思う。そして、どちらが自分にとって役立つかを決めればいい。
そして、自分でも調べたり、気分が良ければ趣味に没頭したりすればいいと思う。せっかく生きているのだから、楽しまないと損だ。
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