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私の癒しのカリスマと言えば、永井龍雲その人だ。3年前に体調を崩して以来、特にそう感じる。私もカメラをいじくるくらいで特に趣味を持たなかっただけに、この頃から「癒し」を求めて行動するようになった。
不眠にもずいぶんと悩み、いろんな工夫をしてみた。ほとんどの努力はそれなりに有効なのだが、「努力して」眠るわけには行かないのでなかなか苦しめられた。結果的には、不眠にもかかわらず、一日を楽しく過ごすという路線がいいということで現在に至っている。眠れないことを嘆くようでは、まだまだなのだ。実際、健康に見える人というのは、少々眠れなくともこだわっていない。このこだわらない姿勢が大切なのだ。
子供の頃からの夢だった、「星」の追求を始めたのも3年前くらいだった。ずっと、「いつかやろう」と思っていたのだが、「いつか」は無いのだと思い、行動したのだった。毎月5万の支払いは苦しかったが、初めて天体望遠鏡を手にした喜びは大きかった。しかし、その後この望遠鏡は、お蔵入りとなる。私の部屋の荷物が増えすぎて、置き場所さえも無くなったのだった。せっかくの機材が今に至るまで死んだままだ。この夏に復活を目指しているものの、未だ実現できていない。ただ、星を見るだけなのだが、それだけでも癒しの効果は大きい。誰にでもすすめられる事ではないのだが、隠れ家を発見したような喜びがあるのは確かだ。
そして、最近凝っているアナサジフルートと尺八が来る。昨年の暮れあたりから、何か違ったジャンルで癒しを求めていた私は、民族音楽に手を出したのであった。CDをまず入手してなかなかイケルことを確認した。サンポーニャとかケーナの演奏が聴けるものだ。本当ならば、これで満足というところだったのだが、入手したサンポーニャが、あまりにもウソ臭くて満足感は得られなかった。この国で安く手に入るのだが、どう見ても「おみやげ品」の域を出ていないのだった。
それではと、「ナバホフルート」にも手を出したのだが、こちらは、さらにおもちゃっぽいものだった。それなりにお金を出せば、本物っぽいものは入手できそうだったが、この時点で萎えてしまった。この国でいくら動いてみてもそれなりなものしか手に出来ないのだとあきらめかけた。
その直後だったと思うが、ネットで「輸入代行」というサービスがあるのを知った。もしかすると、向こうの商品を代行を通じて購入できるかもしれないと思った。さっそく手続きをしてお目当ての「アナサジフルート」を注文した。1ヶ月はみておかなければならないと思ったが、結局、3ヶ月もの長期間待たされてしまった。最後には、あきらめ気分だった。まともなモノが届けばそれで満足という気分だったのだ。
5月の中旬にそれは届いたのだが、これはスゴイという程でもないのだが、それなりに納得できるものだった。ちゃんと音も出るし、不具合も無い。説明書も何も無いというアメリカンな大ざっぱさはあるものの、満足感は高かった。適当に童謡などを吹いているとかなりの癒し効果があるのを改めて確認した。それまで笛を吹いている人を見ると何か難しそうだと感じたものだが、やってみると意外に簡単なのだった。要は、自分の感じた「音」を頼りに鳴らすだけのことだ。
尺八との関連を追及したくなるのだが、「筒」のようなもので音を鳴らそうと思えば、誰が作ってもだいたい同じような形になるということか。アナサジフルートがなかなか届かなかったという偶然が私に尺八をもやらせることになった。偶然ではあったが、うれしい偶然だった。普通に生きていて、「よし、尺八でも吹いてみよう」とは、なかなかならないからだ。私は、誰もついて来られないようなことをするのが無性にうれしいのだ。
今やこの国では、「尺八」とは性技の代名詞としてしか機能していないのではないだろうか。もったいないことだが、それも時代の流れと言うべきか。音楽家というよりも私のような八つぁん熊さんが演奏することに意義があるのだ。もともと、そういう楽器ではなかったのかと思う。アナサジフルートは、どういう使われ方をしたのか今となっては知るよしもないが、ただ、吹くだけで余計な詮索は必要ない気もする。眠たくなった時に吹いてみれば、頭もさえるので都合がいい。
とりあえずは、自分の興味の赴くままに手を広げるしかないのだが、今後もどんどん「癒し」に通ずるものにはどんどん手を出して行くつもりだ。そして、「癒し」を求めている人にこたえられるようになりたいと思っている。ほとんどの人の場合、「癒し」が得られるからといって「尺八」を持って来られても戸惑うばかりだろう。アナサジフルートとて同じことで、あまりに唐突にすぎる。
結局、私は、中枢神経を刺激する薬を使わずに同じような効果を出そうとしているに過ぎないのだ。薬を使わないので副作用も無い。知的な興奮とか感動、手指の細やかな運動、これらは脳に非常にいい刺激を与えることができるわけだ。
不眠にもずいぶんと悩み、いろんな工夫をしてみた。ほとんどの努力はそれなりに有効なのだが、「努力して」眠るわけには行かないのでなかなか苦しめられた。結果的には、不眠にもかかわらず、一日を楽しく過ごすという路線がいいということで現在に至っている。眠れないことを嘆くようでは、まだまだなのだ。実際、健康に見える人というのは、少々眠れなくともこだわっていない。このこだわらない姿勢が大切なのだ。
子供の頃からの夢だった、「星」の追求を始めたのも3年前くらいだった。ずっと、「いつかやろう」と思っていたのだが、「いつか」は無いのだと思い、行動したのだった。毎月5万の支払いは苦しかったが、初めて天体望遠鏡を手にした喜びは大きかった。しかし、その後この望遠鏡は、お蔵入りとなる。私の部屋の荷物が増えすぎて、置き場所さえも無くなったのだった。せっかくの機材が今に至るまで死んだままだ。この夏に復活を目指しているものの、未だ実現できていない。ただ、星を見るだけなのだが、それだけでも癒しの効果は大きい。誰にでもすすめられる事ではないのだが、隠れ家を発見したような喜びがあるのは確かだ。
そして、最近凝っているアナサジフルートと尺八が来る。昨年の暮れあたりから、何か違ったジャンルで癒しを求めていた私は、民族音楽に手を出したのであった。CDをまず入手してなかなかイケルことを確認した。サンポーニャとかケーナの演奏が聴けるものだ。本当ならば、これで満足というところだったのだが、入手したサンポーニャが、あまりにもウソ臭くて満足感は得られなかった。この国で安く手に入るのだが、どう見ても「おみやげ品」の域を出ていないのだった。
それではと、「ナバホフルート」にも手を出したのだが、こちらは、さらにおもちゃっぽいものだった。それなりにお金を出せば、本物っぽいものは入手できそうだったが、この時点で萎えてしまった。この国でいくら動いてみてもそれなりなものしか手に出来ないのだとあきらめかけた。
その直後だったと思うが、ネットで「輸入代行」というサービスがあるのを知った。もしかすると、向こうの商品を代行を通じて購入できるかもしれないと思った。さっそく手続きをしてお目当ての「アナサジフルート」を注文した。1ヶ月はみておかなければならないと思ったが、結局、3ヶ月もの長期間待たされてしまった。最後には、あきらめ気分だった。まともなモノが届けばそれで満足という気分だったのだ。
5月の中旬にそれは届いたのだが、これはスゴイという程でもないのだが、それなりに納得できるものだった。ちゃんと音も出るし、不具合も無い。説明書も何も無いというアメリカンな大ざっぱさはあるものの、満足感は高かった。適当に童謡などを吹いているとかなりの癒し効果があるのを改めて確認した。それまで笛を吹いている人を見ると何か難しそうだと感じたものだが、やってみると意外に簡単なのだった。要は、自分の感じた「音」を頼りに鳴らすだけのことだ。
尺八との関連を追及したくなるのだが、「筒」のようなもので音を鳴らそうと思えば、誰が作ってもだいたい同じような形になるということか。アナサジフルートがなかなか届かなかったという偶然が私に尺八をもやらせることになった。偶然ではあったが、うれしい偶然だった。普通に生きていて、「よし、尺八でも吹いてみよう」とは、なかなかならないからだ。私は、誰もついて来られないようなことをするのが無性にうれしいのだ。
今やこの国では、「尺八」とは性技の代名詞としてしか機能していないのではないだろうか。もったいないことだが、それも時代の流れと言うべきか。音楽家というよりも私のような八つぁん熊さんが演奏することに意義があるのだ。もともと、そういう楽器ではなかったのかと思う。アナサジフルートは、どういう使われ方をしたのか今となっては知るよしもないが、ただ、吹くだけで余計な詮索は必要ない気もする。眠たくなった時に吹いてみれば、頭もさえるので都合がいい。
とりあえずは、自分の興味の赴くままに手を広げるしかないのだが、今後もどんどん「癒し」に通ずるものにはどんどん手を出して行くつもりだ。そして、「癒し」を求めている人にこたえられるようになりたいと思っている。ほとんどの人の場合、「癒し」が得られるからといって「尺八」を持って来られても戸惑うばかりだろう。アナサジフルートとて同じことで、あまりに唐突にすぎる。
結局、私は、中枢神経を刺激する薬を使わずに同じような効果を出そうとしているに過ぎないのだ。薬を使わないので副作用も無い。知的な興奮とか感動、手指の細やかな運動、これらは脳に非常にいい刺激を与えることができるわけだ。
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