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やりたいことがあるのに、思い通りにならない。そうした時にまったく何もやる気がなくなる。体の状態の表現では、「だるい」という感じだ。「重い」と表現してもよく、まるで重力の異なる世界にいるかのような感じだ。
私が、その現象に出会ったのは、受験生時代のことで、浪人が決定的になる3月の大学の合格発表直後だった。それまでの苦労は水泡に帰し、また、来年の3月まで受験勉強が始まる。そう思うと何という無駄なことをしてしまったのかという悔悟の思い、あせり、いやます怒り等で私の心が壊れかけたのだった。
20歳よりも前のことだったので、今と比べれば精神的にもしなやかであったのか、何ヶ月も続くものではなかった。4月に入れば、すぐに浪人のための予備校(私の場合、母校が面倒見てくれた)の手続きをしなければならず、5月にもなれば、すぐに模試が始まる。うつうつとしておれる場合ではなかったのだった。特に努力するでもなく、体の不調は回復していたと記憶している。
もちろん、20年以上も前のことだから今のように「精神科」へ行くなど思いもよらなかった。自分では、「精神分裂病」になるのではないのか、と恐れていたのを覚えている。いろいろ調べてみて、精神的な不安が昂じて「精神分裂病」に発展することはないという記述を読んで安心したのだった。ただ、本当のところはどうなのか今でもよくわかえらない。今では「精神分裂病」ではなく「統合失調症」と呼ぶそうだ。
私の「うつ」経験をもって「それは、うつなんかではない」と思う人もいるかもしれない。しかし、うつは十人十色、「これが本当のうつ」というようなものは無いのだ。私は、うつは、期間の短さとか、薬を飲んだ飲まないとかで区別できるようなものではないと思っている。「心の風邪」とか言われるが、ウイルスで罹患するような病態でもないと思う。「本人にしかわからない病気状態」としか言いようがないものだ。あえて、「病気ではない」と言えないのは他人が評価できないからだ。どこまでも慎重に判断しなければならず、休養が必要な状態であることにはかわりはない。
見えないのは、「心」に問題があるからだ。きっかけが、精神の異常なまでの高まりにあるのだから、当然のことだと思う。製薬メーカーは、ここに着眼してセロトニンが欠乏しているからだとやってしまった。薬を作ってみたものの、セロトニンを増やすことはできず、薬をやめればセロトニン受容体が回復するのかどうかの実験データを示すこともできないくらい怪しい。恐らくは、公開できないような否定的な結果が出ているのだと思う。私が向精神薬を飲んではならない、飲んでいたら即、やめるように動かなければならないと言う理由だ。その他の内臓の病気と違い、脳のことはまだわからないことが多すぎるのだ。病因がわからなくとも病気を治すことはあり得ることで、「うつ」に対しても本当にあるのならばむしろ喜ばしいことだ。
実際には、向精神薬の歴史が示すようにそのようなものは無いと結論づけられつつある。製薬メーカーを守るために、国家的な規模で薬の効能を過大評価する事態がこの国でも欧米でも進んでいる。したがって、個々人が声をあげたくらいでは何の影響もない。日々、薬漬けにされる人々が増えている。事実を伝えるはずのマスコミもちゃんと報道することがない。彼らの内部にも「うつ」があり、五里霧中であることもあるだろうが、向精神薬を叩く記事はタブーとされているのだと思う。何のためかわからないが、国民を実験台にして薬の研究をしていると言われても仕方がないだろう。しかも、同意なしにだ。裁判がそれほど頻繁に行われるわけではない、この国では絶好の実験場として今後も壮大な実験が行われることだろう。
20年もの間、SNRIのトレドミンを飲んだ友人がいる。ずっと飲んでいたわけではなくて調子の悪いときには飲み続けるというふうにして足かけ20年という意味だ。その友人が最近語ったことによると「要するに、自覚やな」ということだった。うつに陥ると、薬をくれる人のことしか耳に入らなくなるらしく、SSRIやSNRIなどの向精神薬を飲んでいたのでは、治らないという自覚が無い。だから、ずるずるといつまでも薬を続けることになる。本人は、必死で「いつになったら治るのだろう、ちゃんと薬を飲んでいるのに!」となる。実際にそういう質問はネットでもよく見かける。薬を飲んでいる以上は、問題解決にならないということを自覚しないとどうにもならないのだ。
大学に落ちた私は、一人だった。まだ、両親はいたのだが、仕事でいなかった。私は、一人部屋に引きこもり、ただ、うなだれた。その日、私が何をやっていたのかと言えば、なんと小学生の頃によく遊んだように、磁石で一人野球だ。下敷きを坂にして、そこから丸い磁石を転がす。カーブを投げる時は、他の磁石を近づける。そんなことを一日中やっていた。自分が何をやっているのかは、わかるのだがやめられない、止まらない、自動運動のように続けたのだった。自分の行動に驚きながらも、他のことをやる元気は一切無かったのだ。
うつの起源を考えれば、この奇妙な行動も納得できるかもしれない。なにしろ、激しい感情の波で自分のことも見えないくらいになっているわけだ。することといっても単純なことしかできない。人と会って話せば、それなりに落ち着くだろうが、そんな気分にはなれなかったように思う。子供のお遊びは、意外にもうつ状態にある時に有効かもしれない。少し回復すれば、パズルなどがお勧めだが、慎重にやるべきだ。万人に楽しいこととは思えないからだ。
私は、自分の経験もあるのでうつから立ち直るのに、ゲームとかパズルとかの刺激が有効ではないかと考えている。単純で到達できやすいものである方がいい。難しいものを指向するようになればしめたもので、それは調子が良くなっていると思える。ただ、これだけでは不十分だと思えるのは、このままではただの退行現象でしかないからだ。目の前の現実があまりに苛烈なので、ひとまず心地よい世界に浸ろうというだけのこと。
もう一つ、最近、わかったのだが、懐かしい時代の映像、具体的には少年時代に見たアニメやドラマで昔の気分に浸るということも退行という意味で同じような効果をもたらす、私の場合は、という条件付きなのだが。過去を振り返ることは、現実が不安だからに他ならない。だから、気分が前向きの時には、昔のことなど忘れている。ひとたび、何か障害に出くわした時、どっぷりと過去に浸かりたくなる。私の場合、アニメに楽しい思い出があるのか、ただ見るだけで本当に30年ほど前に戻ったような気分になり自分でも驚いたくらいだ。もちろん、気分転換ができるわけだから非常に爽快な気分だし、頭の調子も良かった。万人向けではないが、チャレンジしたい人は、ぜひやってみて欲しい。
最後に、私は、うつからの究極の回復方法は、自己表現と思っている。何でもいいのだが、簡単にできることでは文章を書くこと。ブログが流行るのは、偶然ではないような気がする。多くの人が、文章を書くことでそれなりに精神の安定を得ているのではないか。私の場合は、さらに、調子が良くなるような気がしている。調子の悪い時には、とりあえず書いてから調子を出し、他にやりたいことをやる、というふうに。書くことで何かを始めることができるわけだ。特に意識していなかったのだが、そう感じることは多かったように思う。夜に文章を書くと逆に興奮を招いて眠りが来にくくなることもよく経験することだ。書くことで、脳が何らかのいい興奮を得られるのだと思う。
文章が苦手だという人は、作詞でも作曲でもいい、歌をうたってもいい。何かを作り、表現することがいいと思う。陶芸やただの粘土遊びでもいいだろう。カメラや絵画でもいいだろう。苛烈な現実のために忘れかけていた表現することの喜びを身につけたとき、うつは、ほどなく去って行くのではないのだろうか。
うつは、病原菌やウイルスで発病する病気では断じてない。脳内のセロトニンが欠乏して起こる病気でもない。あえて表現するならば、マスター臓器である「脳」が体に休養すること、生き方を再考することを知らせている状態だ。
自分なりの回復の仕方をできるだけ多く持てば、二度とかからなくなることだろうと思う。物事にはいろんなやり方があるということに気がつけば、もう、うつに限らず他の病気でもそれ程、恐がることはないのではないか。たとえガンであっても。人間は、いつかは必ず死ぬ。迷ったら、いかに生きるかを考えてみるといい。いつ死んでも悔いのない生き方、それがベストではないか。あまりに先のこと、理想の自分を追求していると、またまた現実が重荷になってしまう。苦しくなったなら、忘れること、昔に戻ること、自己を何らかの形で表現すること。敵は、自分の心なのである意味、手の内はわかっていると言うこともできる。少しでも調子が良くなれば、また、何か考えることを始めて脳を鍛えればいい。
(つづく)
私が、その現象に出会ったのは、受験生時代のことで、浪人が決定的になる3月の大学の合格発表直後だった。それまでの苦労は水泡に帰し、また、来年の3月まで受験勉強が始まる。そう思うと何という無駄なことをしてしまったのかという悔悟の思い、あせり、いやます怒り等で私の心が壊れかけたのだった。
20歳よりも前のことだったので、今と比べれば精神的にもしなやかであったのか、何ヶ月も続くものではなかった。4月に入れば、すぐに浪人のための予備校(私の場合、母校が面倒見てくれた)の手続きをしなければならず、5月にもなれば、すぐに模試が始まる。うつうつとしておれる場合ではなかったのだった。特に努力するでもなく、体の不調は回復していたと記憶している。
もちろん、20年以上も前のことだから今のように「精神科」へ行くなど思いもよらなかった。自分では、「精神分裂病」になるのではないのか、と恐れていたのを覚えている。いろいろ調べてみて、精神的な不安が昂じて「精神分裂病」に発展することはないという記述を読んで安心したのだった。ただ、本当のところはどうなのか今でもよくわかえらない。今では「精神分裂病」ではなく「統合失調症」と呼ぶそうだ。
私の「うつ」経験をもって「それは、うつなんかではない」と思う人もいるかもしれない。しかし、うつは十人十色、「これが本当のうつ」というようなものは無いのだ。私は、うつは、期間の短さとか、薬を飲んだ飲まないとかで区別できるようなものではないと思っている。「心の風邪」とか言われるが、ウイルスで罹患するような病態でもないと思う。「本人にしかわからない病気状態」としか言いようがないものだ。あえて、「病気ではない」と言えないのは他人が評価できないからだ。どこまでも慎重に判断しなければならず、休養が必要な状態であることにはかわりはない。
見えないのは、「心」に問題があるからだ。きっかけが、精神の異常なまでの高まりにあるのだから、当然のことだと思う。製薬メーカーは、ここに着眼してセロトニンが欠乏しているからだとやってしまった。薬を作ってみたものの、セロトニンを増やすことはできず、薬をやめればセロトニン受容体が回復するのかどうかの実験データを示すこともできないくらい怪しい。恐らくは、公開できないような否定的な結果が出ているのだと思う。私が向精神薬を飲んではならない、飲んでいたら即、やめるように動かなければならないと言う理由だ。その他の内臓の病気と違い、脳のことはまだわからないことが多すぎるのだ。病因がわからなくとも病気を治すことはあり得ることで、「うつ」に対しても本当にあるのならばむしろ喜ばしいことだ。
実際には、向精神薬の歴史が示すようにそのようなものは無いと結論づけられつつある。製薬メーカーを守るために、国家的な規模で薬の効能を過大評価する事態がこの国でも欧米でも進んでいる。したがって、個々人が声をあげたくらいでは何の影響もない。日々、薬漬けにされる人々が増えている。事実を伝えるはずのマスコミもちゃんと報道することがない。彼らの内部にも「うつ」があり、五里霧中であることもあるだろうが、向精神薬を叩く記事はタブーとされているのだと思う。何のためかわからないが、国民を実験台にして薬の研究をしていると言われても仕方がないだろう。しかも、同意なしにだ。裁判がそれほど頻繁に行われるわけではない、この国では絶好の実験場として今後も壮大な実験が行われることだろう。
20年もの間、SNRIのトレドミンを飲んだ友人がいる。ずっと飲んでいたわけではなくて調子の悪いときには飲み続けるというふうにして足かけ20年という意味だ。その友人が最近語ったことによると「要するに、自覚やな」ということだった。うつに陥ると、薬をくれる人のことしか耳に入らなくなるらしく、SSRIやSNRIなどの向精神薬を飲んでいたのでは、治らないという自覚が無い。だから、ずるずるといつまでも薬を続けることになる。本人は、必死で「いつになったら治るのだろう、ちゃんと薬を飲んでいるのに!」となる。実際にそういう質問はネットでもよく見かける。薬を飲んでいる以上は、問題解決にならないということを自覚しないとどうにもならないのだ。
大学に落ちた私は、一人だった。まだ、両親はいたのだが、仕事でいなかった。私は、一人部屋に引きこもり、ただ、うなだれた。その日、私が何をやっていたのかと言えば、なんと小学生の頃によく遊んだように、磁石で一人野球だ。下敷きを坂にして、そこから丸い磁石を転がす。カーブを投げる時は、他の磁石を近づける。そんなことを一日中やっていた。自分が何をやっているのかは、わかるのだがやめられない、止まらない、自動運動のように続けたのだった。自分の行動に驚きながらも、他のことをやる元気は一切無かったのだ。
うつの起源を考えれば、この奇妙な行動も納得できるかもしれない。なにしろ、激しい感情の波で自分のことも見えないくらいになっているわけだ。することといっても単純なことしかできない。人と会って話せば、それなりに落ち着くだろうが、そんな気分にはなれなかったように思う。子供のお遊びは、意外にもうつ状態にある時に有効かもしれない。少し回復すれば、パズルなどがお勧めだが、慎重にやるべきだ。万人に楽しいこととは思えないからだ。
私は、自分の経験もあるのでうつから立ち直るのに、ゲームとかパズルとかの刺激が有効ではないかと考えている。単純で到達できやすいものである方がいい。難しいものを指向するようになればしめたもので、それは調子が良くなっていると思える。ただ、これだけでは不十分だと思えるのは、このままではただの退行現象でしかないからだ。目の前の現実があまりに苛烈なので、ひとまず心地よい世界に浸ろうというだけのこと。
もう一つ、最近、わかったのだが、懐かしい時代の映像、具体的には少年時代に見たアニメやドラマで昔の気分に浸るということも退行という意味で同じような効果をもたらす、私の場合は、という条件付きなのだが。過去を振り返ることは、現実が不安だからに他ならない。だから、気分が前向きの時には、昔のことなど忘れている。ひとたび、何か障害に出くわした時、どっぷりと過去に浸かりたくなる。私の場合、アニメに楽しい思い出があるのか、ただ見るだけで本当に30年ほど前に戻ったような気分になり自分でも驚いたくらいだ。もちろん、気分転換ができるわけだから非常に爽快な気分だし、頭の調子も良かった。万人向けではないが、チャレンジしたい人は、ぜひやってみて欲しい。
最後に、私は、うつからの究極の回復方法は、自己表現と思っている。何でもいいのだが、簡単にできることでは文章を書くこと。ブログが流行るのは、偶然ではないような気がする。多くの人が、文章を書くことでそれなりに精神の安定を得ているのではないか。私の場合は、さらに、調子が良くなるような気がしている。調子の悪い時には、とりあえず書いてから調子を出し、他にやりたいことをやる、というふうに。書くことで何かを始めることができるわけだ。特に意識していなかったのだが、そう感じることは多かったように思う。夜に文章を書くと逆に興奮を招いて眠りが来にくくなることもよく経験することだ。書くことで、脳が何らかのいい興奮を得られるのだと思う。
文章が苦手だという人は、作詞でも作曲でもいい、歌をうたってもいい。何かを作り、表現することがいいと思う。陶芸やただの粘土遊びでもいいだろう。カメラや絵画でもいいだろう。苛烈な現実のために忘れかけていた表現することの喜びを身につけたとき、うつは、ほどなく去って行くのではないのだろうか。
うつは、病原菌やウイルスで発病する病気では断じてない。脳内のセロトニンが欠乏して起こる病気でもない。あえて表現するならば、マスター臓器である「脳」が体に休養すること、生き方を再考することを知らせている状態だ。
自分なりの回復の仕方をできるだけ多く持てば、二度とかからなくなることだろうと思う。物事にはいろんなやり方があるということに気がつけば、もう、うつに限らず他の病気でもそれ程、恐がることはないのではないか。たとえガンであっても。人間は、いつかは必ず死ぬ。迷ったら、いかに生きるかを考えてみるといい。いつ死んでも悔いのない生き方、それがベストではないか。あまりに先のこと、理想の自分を追求していると、またまた現実が重荷になってしまう。苦しくなったなら、忘れること、昔に戻ること、自己を何らかの形で表現すること。敵は、自分の心なのである意味、手の内はわかっていると言うこともできる。少しでも調子が良くなれば、また、何か考えることを始めて脳を鍛えればいい。
(つづく)
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