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秋葉原殺人事件で、「薬」の線がシロだとするといったい何なのかということをずっと考えていた。京都時代に私は、大日本印刷の京都工場で夜勤を体験したことがあった。実は、この時代にヒントとなるような経験をしたことがあった。
夜勤(朝朝夜夜休休というサイクル)という勤務形態は本当にひどいもので、人間を動物にするものだと感じたものだ。すなわち、食欲と性欲だけの生き物と化する。若い時代なので眠れないということはないのだが、それでも夜勤から帰って、朝眠るというのは本当に妙な感覚だった。
工場での仕事は、インクの粘度を計ったり、空き缶をつぶしたり、有機溶剤をくみにいったり、原反と呼ばれるラップのお化けのようなものを印刷機に装着するといった「誰でもできる仕事」だった。しかし、トルエンをはじめとする激しいシンナー臭の中での勤務だけに過酷この上ないことに変わりはない。
わずか6ヶ月の勤務だったが、私のように6ヶ月も勤めおおせるバカは、そういないそうだ。最初の数ヶ月だったと思うが、既に私は動物のようになっていた。昼間の時間帯には、女子職員が工場に来ることもあるのだが、なんとその場で押し倒して「いただきたい」とさえ思うのだった。
動物と違ったのは、妄想するだけで決して実行はされなかったということだ。いろいろ仕事は経験してきたが、女性を前にして、押し倒そうか、とまで思ったのは初めての経験だった。もちろん、それ以来、自分が恐ろしくなり早めに自分で「処理」することを心がけたくらいだった。
わずか1~2ヶ月で私は、食べることと性欲さえ満足できれば、後は何もいらないと言っても仕方のないような動物的な人間に変化して行った。何事も経験とはいえ、すさまじい経験をしたと今でも思う。仕事にあぶれて仕方なく、あるいは豪雪地帯の方々が季節工として仕事をしていたのだった。私のように、いい気なフリーターは、そんなにいなかったように思う。
本来ならば、そこまでの経験で済んだのだが、6ヶ月の長丁場となると別の経験もしなければならなかった。今度は、「苛立ち」の経験だ。現場では、常に苛立っている。各印刷機には比較的若いリーダーが割り当てられていて、その下にちょっと物覚えの悪い人が2人、そしてアルバイトが1人という感じで1チームとなっている。(私の記憶が正しければ。)
私の場合、わりと相性のいいリーダーとやることが多かったのだが、見るからに神経質そうな「リーダー」とやることも多くなり、この際に苛立つことが多かった。休憩時間がまだ残っていても早めに呼ばれたりすることも多かったからだ。それも、「おい!」だから余計に腹が立ったのだ。印刷機の音でほとんど聞こえないので次第にそれが普通のコミュニケーションになったのだと思いが。相性のいいリーダーは、ぱちんと両手を叩くことで合図を送っていた。
6ヶ月の満期間際には、私のストレスも頂点に達していて、この神経質なリーダーに溶剤を頭からかぶせて火を付けたらどうなるかな、と思ったこともあったくらいだ。秋葉原殺人事件というのは、こういう心理が最悪の形で実行に移った結果起きたのではないか。私も最初から6ヶ月という区切りがあったから良かったが、生涯、あの京都工場で働かなければならないとなるとどうだったろうか。普通ならば、辞めるという行動で済むことなのだが。
現時点でのこの国では、その辞めるという選択肢も無かったかもしれない。私が30代の頃、会社を辞めたくても辞められなかったのと同じように。鬱積した気持ちが暴走した結果、あのような事件を引き起こすことになったのだろうか。それにしても、憎しみの対象が、仕事場の連中ではなくまったく面識の無い人々だったというのが今でもよくわからない。
私が、これまでのところ本当に殺意を起こすようなことに出会ったことがないからなのか、犯人が特別な人格を持っていたからなのか。今の私ができることは、やる気のある若者を育てて行くことくらいだ。私がそうであったように人と出会うことで反社会的な行動は、かなりの部分は防げるのではないかというのが私の信念だ。
夜勤(朝朝夜夜休休というサイクル)という勤務形態は本当にひどいもので、人間を動物にするものだと感じたものだ。すなわち、食欲と性欲だけの生き物と化する。若い時代なので眠れないということはないのだが、それでも夜勤から帰って、朝眠るというのは本当に妙な感覚だった。
工場での仕事は、インクの粘度を計ったり、空き缶をつぶしたり、有機溶剤をくみにいったり、原反と呼ばれるラップのお化けのようなものを印刷機に装着するといった「誰でもできる仕事」だった。しかし、トルエンをはじめとする激しいシンナー臭の中での勤務だけに過酷この上ないことに変わりはない。
わずか6ヶ月の勤務だったが、私のように6ヶ月も勤めおおせるバカは、そういないそうだ。最初の数ヶ月だったと思うが、既に私は動物のようになっていた。昼間の時間帯には、女子職員が工場に来ることもあるのだが、なんとその場で押し倒して「いただきたい」とさえ思うのだった。
動物と違ったのは、妄想するだけで決して実行はされなかったということだ。いろいろ仕事は経験してきたが、女性を前にして、押し倒そうか、とまで思ったのは初めての経験だった。もちろん、それ以来、自分が恐ろしくなり早めに自分で「処理」することを心がけたくらいだった。
わずか1~2ヶ月で私は、食べることと性欲さえ満足できれば、後は何もいらないと言っても仕方のないような動物的な人間に変化して行った。何事も経験とはいえ、すさまじい経験をしたと今でも思う。仕事にあぶれて仕方なく、あるいは豪雪地帯の方々が季節工として仕事をしていたのだった。私のように、いい気なフリーターは、そんなにいなかったように思う。
本来ならば、そこまでの経験で済んだのだが、6ヶ月の長丁場となると別の経験もしなければならなかった。今度は、「苛立ち」の経験だ。現場では、常に苛立っている。各印刷機には比較的若いリーダーが割り当てられていて、その下にちょっと物覚えの悪い人が2人、そしてアルバイトが1人という感じで1チームとなっている。(私の記憶が正しければ。)
私の場合、わりと相性のいいリーダーとやることが多かったのだが、見るからに神経質そうな「リーダー」とやることも多くなり、この際に苛立つことが多かった。休憩時間がまだ残っていても早めに呼ばれたりすることも多かったからだ。それも、「おい!」だから余計に腹が立ったのだ。印刷機の音でほとんど聞こえないので次第にそれが普通のコミュニケーションになったのだと思いが。相性のいいリーダーは、ぱちんと両手を叩くことで合図を送っていた。
6ヶ月の満期間際には、私のストレスも頂点に達していて、この神経質なリーダーに溶剤を頭からかぶせて火を付けたらどうなるかな、と思ったこともあったくらいだ。秋葉原殺人事件というのは、こういう心理が最悪の形で実行に移った結果起きたのではないか。私も最初から6ヶ月という区切りがあったから良かったが、生涯、あの京都工場で働かなければならないとなるとどうだったろうか。普通ならば、辞めるという行動で済むことなのだが。
現時点でのこの国では、その辞めるという選択肢も無かったかもしれない。私が30代の頃、会社を辞めたくても辞められなかったのと同じように。鬱積した気持ちが暴走した結果、あのような事件を引き起こすことになったのだろうか。それにしても、憎しみの対象が、仕事場の連中ではなくまったく面識の無い人々だったというのが今でもよくわからない。
私が、これまでのところ本当に殺意を起こすようなことに出会ったことがないからなのか、犯人が特別な人格を持っていたからなのか。今の私ができることは、やる気のある若者を育てて行くことくらいだ。私がそうであったように人と出会うことで反社会的な行動は、かなりの部分は防げるのではないかというのが私の信念だ。
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