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先週、仕事中に永井龍雲を聴いていて涙したという時点から、自分としては何となく昔を懐かしむような気分に浸っている。ただ、「昔は良かった」ではない。私の場合、昔も今も、それほど良くないからだ。

私の青春時代と言える高校時代というのは、1970年代の半ばだ。そして、浪人時代は、1970年代の後半から1980年代だ。1980年に入ったことを象徴的に感じたことを覚えている。当時、浪人していた仲間とテニスをして遊んだりしていて、それなりに話をしていたからだ。私は、天文学だったが、仲間二人は、医学部へ行きたかったようだ。私と同じく、希望した所へは行けなかった。

龍雲との出会いは、私の浪人生活が「本格的に」始まった1980年頃だった。当時は、渦中にあったのでそんなことを考える余裕も無かったのだが、まだ、誰もががんばれば「いい生活ができる」と思える時代であったように思う。私も、勝ち馬に乗るべく努力していたのだが、残念ながら大学には行けなかった。「共通一次試験」に問題があると思っていたのだが、旧来の試験なら合格できたのかと言われれば、そんなこともなかった。

私の好奇心と、当時の(実は、今も同じ)大学が望む「学力」にかなりの開きがあったわけだ。私は私で、好奇心を持つ者が普通に大学へ行って勉強できる世の中にしなければならないという考えに傾いて行ったと思う。その後、私は京都で生活を始めたのだが、私の主張がかつての学生運動的だということも知った。私の歴史趣味と相まって、「ひとりひとりの自由民権運動」という構想をぶち上げ、100年後の世界を目指す、というようなことを書いたり、言ったりしていた。

京都での生活も破綻はしていなかったが、未来があるわけでもなかった。現在の、働いても働いてもお金はたまらない、ワーキングプアの先駆けだったのだ。もちろん、正社員を目指していたが、学歴や経験の無さ、資格の無さで空しい結果だった。京都に出てごく初期の頃だと思うが、私は、正社員になることを諦めていたように思う。

私のきままな生活が突然、終わりを告げたのは父の病気にあった。あの元気な父がガンだということがわかったのだった。父は、帰って来る必要はないと言っていたのだが、母の状態もあったので帰らないわけには行かなかった。4年間もの浪人生活をさせてくれ、京都に出る準備をしてくれたのはこの父と母だった。今の私があるのは、父と母がいたからだ、今度は私が少しでも役に立たなければ、という思いが強かった。

私が岡山に舞い戻ることを決めたのは、1980年代の終わりの春だった。その前年の秋に父と母が私の京都の下宿に遊びに来た。特に大きな変化も無く、普通に観光して食事をして帰っただけだったが、父の顔色が悪いことには気がついていた。しかし、歳をとると顔色も悪くなるのかな、くらいにしか思っていなかったのだ。

仕事をしているという意味では、今は確実に昔よりも進歩している。京都時代よりもはるかにいいだろう。だが、そんなことで満足してもしょうがない。私が最近、重視しているように「人」が重要なのだ。自分とは異なる個性の人間と関わり仕事を仕上げるしくみを一刻も早く持たなければならない。2月にパートナーとは完全に分かれたのだが、未だそう思えないのはなぜだろうか。
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