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よく話題にするように、私は「引きこもり」、「人間嫌い」、「自閉気味」、「非社交的」な性格なのにもかかわらず、決定的な瞬間、時期にいい人と出会い、これまで後戻りできないような問題も起こさず生きている。私にしても「人」は大きな存在だったということ。
なぜ、私が人間嫌いなのかと言うと、私自身が「余裕の無い」「いっぱいいっぱい」の人間だからということだ。他人に合わせることができないだけに人と接することが嫌なのだ。逆に親友のように何でもわかってくれている相手とはほとんどの場合、問題は無い。小さな頃に「いじめ」とかはあったかもしれないが、今となってはそれは小さな事ではないかと思う。問題なのは、「今」なのだ。
東京で岡山で私はクラスメートと「飲む」と称してわりと定期的に会う機会を持っている。「人間嫌い」にあるまじき行為だが、これはこれで楽しいと感じられたからそんなに問題ではなかったのだろう。ただ、連中の中の数人が吸ってくれるタバコがそろそろ鼻につき始めた。どうも、タバコと酒は一緒にはできないと思うようになってきた。酒を飲みに行くのはいいのだが、タバコは御免とういうことだ。この、「しこり」が原因で一気に会わなくなる可能性はあると思う。
抗不安薬で痛いめにあった私としては、タバコをやる人間に考えて欲しいと思っている。タバコをやらなければ生きられない問題をまず解決すべきではないのか。問題があるからこそ、タバコを口にしなければならないのは、明かになってきている。タバコが嗜好品だと思われていたのは、もう過去の話だ。明らかにガンの原因であり、精神的なことにも影響を与えている。吸う瞬間だけ、「落ち着く」ので吸うだけであり、自分の抱えている問題をそれで隠蔽しているだけだ。クラスメートにそこまで言ってとどめをさすのは、さすがの私にも憚られるのだ。
私に問題があったからこそ薬を飲んでいたのは事実だ。私の余裕の無い生き方に無理があったのでアホな精神科医にコロリと騙されたのだった。同じく、自分の生き方に無理があるから、タバコを今でも嗜好品と称して吸いつづけている愚かさがそこにはある。見かけは立派でも、問題ありの人間であることを知らなければならない。
今、私が東京まで出てきて人と出会い、一緒に仕事をしているのは、他でもない、生きるためであった。そのためには、「人間嫌い」などと言っている余裕は無かった。しかし、そこまでのことだ。会社の中とか、仕事を離れて人との「つきあい」があるかと言うと、それは無いのだ。一時期、グループ交際的なことも経験し、「もしかすると結婚?」という段階もあった。お決まりのように、それは、私の気の短さで終わりを告げた。それ以来、お遊びで人と付き合うことは無い。
グループで旅行に行くなど私にはもともと難しいし、高いハードルだった。私の中にも、もう嫌だという気持ちは高まっていたのかもしれない。相手の女性は、何も言わず、メールをくれなくなった。非常にさみしい経験だったが、今にして思えば、当然でもあり、私にとっても良かったのではないかと思う。女性経験の豊富な私の親友でも女の心をつかむのは難しいのに、私になど簡単にできるはずもないのだった。
ただ、私は、「合わせられないから」避けているだけであり、親友のような女ならば、大歓迎だろう。矛盾しているのだが、私の好みは、いわゆる「難しい女」だ。何でも理解してくれる女もいるとしたら、魅力的なのだが、飽きるのも速いだろう。しかし、「難しい女」は、ずっとハラハラさせられっぱなしだ。人間、ホッとすると寿命が尽きてしまうことを思えば、生涯、ハラハラの連続の方がむしろ幸せかもしれない。ただし、グループ交際の女性のように私の方が力尽きてしまうことは、あるかもしれない。その点は、バランスだろう。お互いに気にし合える仲でないと長続きはしないものだ。
人は、「人」によって幸せにもなれるし、不幸にもなる。幸せまで行かなくとも、とりあえず生活できている人は、今度は他人が出会えてうれしい「人」になれるよう目指すべきだ。私も、数々の失敗を犯して来たが、出会えて良かったと言われるような人間になりたいと思っている。人間嫌いの私が、たいそうな目標を持ったものだと思う。いつも思い出すが、浪人時代、私をどうしようもない人間としてではなく、なんとか社会に引き込もうとしてくれた恩師を忘れられない。私のような人間を正面から受け止め、無茶苦茶な志望にも現実的な助言を与え続けてくれた。浪人時代のわずか1年だったが、今でも私には強烈な印象を残してくれている。私も、一人でもいいから、「あんたがおったから、自分は助かった」と言われるような生き方をしてみたい。
なぜ、私が人間嫌いなのかと言うと、私自身が「余裕の無い」「いっぱいいっぱい」の人間だからということだ。他人に合わせることができないだけに人と接することが嫌なのだ。逆に親友のように何でもわかってくれている相手とはほとんどの場合、問題は無い。小さな頃に「いじめ」とかはあったかもしれないが、今となってはそれは小さな事ではないかと思う。問題なのは、「今」なのだ。
東京で岡山で私はクラスメートと「飲む」と称してわりと定期的に会う機会を持っている。「人間嫌い」にあるまじき行為だが、これはこれで楽しいと感じられたからそんなに問題ではなかったのだろう。ただ、連中の中の数人が吸ってくれるタバコがそろそろ鼻につき始めた。どうも、タバコと酒は一緒にはできないと思うようになってきた。酒を飲みに行くのはいいのだが、タバコは御免とういうことだ。この、「しこり」が原因で一気に会わなくなる可能性はあると思う。
抗不安薬で痛いめにあった私としては、タバコをやる人間に考えて欲しいと思っている。タバコをやらなければ生きられない問題をまず解決すべきではないのか。問題があるからこそ、タバコを口にしなければならないのは、明かになってきている。タバコが嗜好品だと思われていたのは、もう過去の話だ。明らかにガンの原因であり、精神的なことにも影響を与えている。吸う瞬間だけ、「落ち着く」ので吸うだけであり、自分の抱えている問題をそれで隠蔽しているだけだ。クラスメートにそこまで言ってとどめをさすのは、さすがの私にも憚られるのだ。
私に問題があったからこそ薬を飲んでいたのは事実だ。私の余裕の無い生き方に無理があったのでアホな精神科医にコロリと騙されたのだった。同じく、自分の生き方に無理があるから、タバコを今でも嗜好品と称して吸いつづけている愚かさがそこにはある。見かけは立派でも、問題ありの人間であることを知らなければならない。
今、私が東京まで出てきて人と出会い、一緒に仕事をしているのは、他でもない、生きるためであった。そのためには、「人間嫌い」などと言っている余裕は無かった。しかし、そこまでのことだ。会社の中とか、仕事を離れて人との「つきあい」があるかと言うと、それは無いのだ。一時期、グループ交際的なことも経験し、「もしかすると結婚?」という段階もあった。お決まりのように、それは、私の気の短さで終わりを告げた。それ以来、お遊びで人と付き合うことは無い。
グループで旅行に行くなど私にはもともと難しいし、高いハードルだった。私の中にも、もう嫌だという気持ちは高まっていたのかもしれない。相手の女性は、何も言わず、メールをくれなくなった。非常にさみしい経験だったが、今にして思えば、当然でもあり、私にとっても良かったのではないかと思う。女性経験の豊富な私の親友でも女の心をつかむのは難しいのに、私になど簡単にできるはずもないのだった。
ただ、私は、「合わせられないから」避けているだけであり、親友のような女ならば、大歓迎だろう。矛盾しているのだが、私の好みは、いわゆる「難しい女」だ。何でも理解してくれる女もいるとしたら、魅力的なのだが、飽きるのも速いだろう。しかし、「難しい女」は、ずっとハラハラさせられっぱなしだ。人間、ホッとすると寿命が尽きてしまうことを思えば、生涯、ハラハラの連続の方がむしろ幸せかもしれない。ただし、グループ交際の女性のように私の方が力尽きてしまうことは、あるかもしれない。その点は、バランスだろう。お互いに気にし合える仲でないと長続きはしないものだ。
人は、「人」によって幸せにもなれるし、不幸にもなる。幸せまで行かなくとも、とりあえず生活できている人は、今度は他人が出会えてうれしい「人」になれるよう目指すべきだ。私も、数々の失敗を犯して来たが、出会えて良かったと言われるような人間になりたいと思っている。人間嫌いの私が、たいそうな目標を持ったものだと思う。いつも思い出すが、浪人時代、私をどうしようもない人間としてではなく、なんとか社会に引き込もうとしてくれた恩師を忘れられない。私のような人間を正面から受け止め、無茶苦茶な志望にも現実的な助言を与え続けてくれた。浪人時代のわずか1年だったが、今でも私には強烈な印象を残してくれている。私も、一人でもいいから、「あんたがおったから、自分は助かった」と言われるような生き方をしてみたい。
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