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連休前半は、田舎に戻り法事に出席してきた。兄貴、兄貴の息子やいとこにも会えて久しぶりに懐かしい雰囲気を味わってきた。昔は、こういう雰囲気を嫌い、田舎は好きでも法事は不機嫌な私だった。
それが、今では率先して参加したり墓掃除にも出かけるようになった。これは、お袋のヨタヨタする姿を何年か前に見て「改心」した結果だった。もう、お袋も若くはないのだと実感させられたわけだ。
この国では、仏教を悲しみを癒すための儀式に利用してきたのだと思う。2500年前に、ブッダという人がいたという事実やどんなことを考えて生きていたのかという問いは、無かったのだそうだ。とにかく、「えらい人」に従っておけば間違いないという発想だろう。むろん、それで納得できればいいのだが、大半の人は冗談でないかぎり従うことはないと思う。私の若かった時の姿勢は正しいというか、自然な態度だったと思う。
私自身は、法事に出たり、お墓掃除に行ったとしてもそれ自体は、少しも敬虔な態度ではないと思っている。お袋が悲しまないように、と思うだけのことだからだ。ある人が解説してくれていたのだが、仏教は、確かに悲しみを癒すシステムとしては、非常にいいシステムなのだ。私に、その代わりができない以上は、従うほかないのだ。
ただ、日々の生活の中で感じる不条理や、運命とか自分の力だけではどうにもならないようなことについての苦悩は、とてもこの国の仏教では足らないように思う。ブッダが悟りを開いた時代に考えられたことを研究するのがいいのではないか?そういう思いがあって、私は、テーラワーダ仏教というのに首をつっこんだのだった。といっても本を少し読んだだけだが。本を読んで大きく変わるということはないが、確かにある種の苦悩には確実に効果があるように思えた。特に、怒りの制御について感銘を受けたと思う。結果的に、人との付き合いについても学ぶことになった。
もっともそれによって私が悩みを持つ人のカウンセリングができたりするようになったわけではない。そうそることを望んではいるのだが、人の悩みは千差万別で、まだ人生、はな垂れ小僧の私にできることではないのだ。特に、「生きることに意味があるのか」と問われてもすぐには答えが出ない。
休みの間に横山ノック氏が亡くなった。晩年はセクハラ問題でたいへんだったようだ。下手に守る生き方をしたばかりに過ちを認めることを怠った結果だ。旺盛な性欲自体は、責められるべきことではないのだが、嫌がる相手に向けた時、それは暴力に変わる。長く生きていても一瞬の迷いが命取りになった例だ。スケベな人間は、それだけ平素気をつけなければならない。精力的な人間が、変態性欲人間に成り下がってしまうから。
今日は、今日で小田実が胃ガンで入院するという。本人のメッセージでは、末期ガンだという。6月の誕生日まで生きているかどうかわからないそうだ。もう達観しているのだろうか。80年代に朝まで生テレビによく出演して政治に関する興味を広げてくれた人だ。最近では、拉致被害者に対して冷たい態度をとってしまい、トンデモ評論家の汚名をきせられていた。誤解だと思うのだが、本人からメッセージが聞けたらと思う。
私は、もうじき50を迎えるが、まだ自分の遺伝子を伝えることもできていない。何かあるのだろうが、私にはついぞわからない。相手がいなかったと言えば簡単だが、それは誰にでも同じ条件だからだ。最近、私は、女の能力を高く評価するようになったのだが、こういうところも原因としてあるのかもしれない。ただ、私の性格も変えることができるわけではないので、結婚相手といっても簡単ではない。フランスのように結婚していなくとも普通に子育てもできる社会が私には向いているかもしれない。今度の大統領候補の女性は、結婚していなくとも子育てをやってきた人だ。自然淘汰と言えばそれまでのことだ。私のような遺伝子は残らないということなのだ。残念だが、事実として認めなければ仕方のないことだと思う。
私にとって死は恐いことだ。特にガンは最悪だ。おやじの最後を見ているだけに恐ろしい。その痛みは、尋常ではないようだから。ただ、今では緩和ケアの概念が進んでいて、痛みはかなりのところまでコントロールできるという。いたずらに痛みを恐れて不安になることもないのかもしれない。考えても仕方のないことに悩み時間を費やすのはばからしいことだ。前向きに、前向きに考えて生きて行こう。私は、命ある限り、勉強し、悩む人に教え、また勉強するのみの生涯でいいと思っている。多少の足踏みもあるかもしれないが、わずかづつでも前進していきたい。
それが、今では率先して参加したり墓掃除にも出かけるようになった。これは、お袋のヨタヨタする姿を何年か前に見て「改心」した結果だった。もう、お袋も若くはないのだと実感させられたわけだ。
この国では、仏教を悲しみを癒すための儀式に利用してきたのだと思う。2500年前に、ブッダという人がいたという事実やどんなことを考えて生きていたのかという問いは、無かったのだそうだ。とにかく、「えらい人」に従っておけば間違いないという発想だろう。むろん、それで納得できればいいのだが、大半の人は冗談でないかぎり従うことはないと思う。私の若かった時の姿勢は正しいというか、自然な態度だったと思う。
私自身は、法事に出たり、お墓掃除に行ったとしてもそれ自体は、少しも敬虔な態度ではないと思っている。お袋が悲しまないように、と思うだけのことだからだ。ある人が解説してくれていたのだが、仏教は、確かに悲しみを癒すシステムとしては、非常にいいシステムなのだ。私に、その代わりができない以上は、従うほかないのだ。
ただ、日々の生活の中で感じる不条理や、運命とか自分の力だけではどうにもならないようなことについての苦悩は、とてもこの国の仏教では足らないように思う。ブッダが悟りを開いた時代に考えられたことを研究するのがいいのではないか?そういう思いがあって、私は、テーラワーダ仏教というのに首をつっこんだのだった。といっても本を少し読んだだけだが。本を読んで大きく変わるということはないが、確かにある種の苦悩には確実に効果があるように思えた。特に、怒りの制御について感銘を受けたと思う。結果的に、人との付き合いについても学ぶことになった。
もっともそれによって私が悩みを持つ人のカウンセリングができたりするようになったわけではない。そうそることを望んではいるのだが、人の悩みは千差万別で、まだ人生、はな垂れ小僧の私にできることではないのだ。特に、「生きることに意味があるのか」と問われてもすぐには答えが出ない。
休みの間に横山ノック氏が亡くなった。晩年はセクハラ問題でたいへんだったようだ。下手に守る生き方をしたばかりに過ちを認めることを怠った結果だ。旺盛な性欲自体は、責められるべきことではないのだが、嫌がる相手に向けた時、それは暴力に変わる。長く生きていても一瞬の迷いが命取りになった例だ。スケベな人間は、それだけ平素気をつけなければならない。精力的な人間が、変態性欲人間に成り下がってしまうから。
今日は、今日で小田実が胃ガンで入院するという。本人のメッセージでは、末期ガンだという。6月の誕生日まで生きているかどうかわからないそうだ。もう達観しているのだろうか。80年代に朝まで生テレビによく出演して政治に関する興味を広げてくれた人だ。最近では、拉致被害者に対して冷たい態度をとってしまい、トンデモ評論家の汚名をきせられていた。誤解だと思うのだが、本人からメッセージが聞けたらと思う。
私は、もうじき50を迎えるが、まだ自分の遺伝子を伝えることもできていない。何かあるのだろうが、私にはついぞわからない。相手がいなかったと言えば簡単だが、それは誰にでも同じ条件だからだ。最近、私は、女の能力を高く評価するようになったのだが、こういうところも原因としてあるのかもしれない。ただ、私の性格も変えることができるわけではないので、結婚相手といっても簡単ではない。フランスのように結婚していなくとも普通に子育てもできる社会が私には向いているかもしれない。今度の大統領候補の女性は、結婚していなくとも子育てをやってきた人だ。自然淘汰と言えばそれまでのことだ。私のような遺伝子は残らないということなのだ。残念だが、事実として認めなければ仕方のないことだと思う。
私にとって死は恐いことだ。特にガンは最悪だ。おやじの最後を見ているだけに恐ろしい。その痛みは、尋常ではないようだから。ただ、今では緩和ケアの概念が進んでいて、痛みはかなりのところまでコントロールできるという。いたずらに痛みを恐れて不安になることもないのかもしれない。考えても仕方のないことに悩み時間を費やすのはばからしいことだ。前向きに、前向きに考えて生きて行こう。私は、命ある限り、勉強し、悩む人に教え、また勉強するのみの生涯でいいと思っている。多少の足踏みもあるかもしれないが、わずかづつでも前進していきたい。
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