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ずっと仕事が苦痛だったのだが、締め切りが近づくにつれてそうでもなくなった。あれこれやることもあるし、欲しいものもあるし、散髪にも行かなければならない。一年は、これの繰り返しだ。特に不満は無いのだが、どうしてもやりたいこともある。
それは、仲間を作ること、人材を育てること。私は浪費家だが、金儲けにはさほど興味が無い。無ければ困るのだが、お金が第一の目的ではないということだ。協力し合って仕事を仕上げるというシステムが欲しいのだ。それは、会社を育てるということに他ならない。今は少数でも、これから大きくなるためのしくみを作っておきたい。
2月にパートナーがいなくなったことは、途方もなく大きな痛手だったと思う。私が仕事を始めて出会った仲間のうちで、もっとも有能な人物だった。我が社が始まって以来の逸材だった。私に、もう少し、優しさとか温かさがあれば、別れと言うことは無かったように思えてならない。私と同じく「難しい人」だったので、それなりの工夫の効いた接し方が必要だったことは理解していたつもりだ。浪人時代、あまりに、あまりにも頑なな私の心を慎重に開かせてくれた恩師のようにふるまえたらどんな結果だったろう。
私に時間は、そんなに残っていないと思っている。私たちの「老後」は非常に厳しい。年金は、カットされる、仮に長生きしても「老人処罰法」で早死を迫られる。「格差」を意図的に作っているこの社会では、政権交代が起きにくい。数としては、野党の支持の方が多いらしいが、それが政治に結びついていないのだ。国家権力に痛い目にあっている人々が自民・公明の狂気政権を支持したりする現実。これは、自分も「体制側」にいるような錯覚を起こすためのようだ。その結果、「老人処罰法」のような法律ができるわけだ。60数年前の狂気の戦争も、体制にいるかのような国民の錯覚をうまく利用した作戦だったと思う。
私には、「やる気」があるので大丈夫と思っていたのだが、現実には、そのやる気は、厚労省などのアホ官僚の老後の足しに使われることになる。年金もそのためにカットになるのだ。もちろん、私も老後に備えて今、がんばってはいるが、それは、自分を救うことにはならないのだ。どこまで行っても、政治家とかそれとつるんだ官僚を食わすために使われるだけなのだ。太古の昔から、この国では民衆のために税金が使われたことがなかったのだ。
となると、あと何年、元気で働けるかということになる。あと10年は大丈夫とは思うのだが、その保障はない。それまでにも苦難の道があるのみだと思う。ちょっとつらいからといって「うつ」になっている時間は無い。むしろ時間が無いということで、こだわらずに生きられるようになってきた感じだ。それまでは、抱えている問題が解決しないと天変地異が起こるかのようにこだわっていた。間違ったことを言う人間を黙って見過ごすことは出来なかったのだ。今では、そんなことはどうでもよくなった。それよりも、前に進むことが必要かな、と思える。
現時点で解決できていない問題を解決するべく行動することだ。そうすることで仲間も見つけて行きたい。もちろん、私自身は、生きている限り勉強を続けなければならない。万が一、成功するようなことがあれば、私を頼ってきた人をことごとく引き受けて仲間にしたい。その点は、中国式を見習いたいのだ。この国では、成功したら親戚・縁者とは関係を絶ってしまう傾向にあるようだが、中国では逆に面倒を見るのだそうだ。それが、「大物」の証なのだそうだ。さすがは、大陸の考え方だ。
それは、仲間を作ること、人材を育てること。私は浪費家だが、金儲けにはさほど興味が無い。無ければ困るのだが、お金が第一の目的ではないということだ。協力し合って仕事を仕上げるというシステムが欲しいのだ。それは、会社を育てるということに他ならない。今は少数でも、これから大きくなるためのしくみを作っておきたい。
2月にパートナーがいなくなったことは、途方もなく大きな痛手だったと思う。私が仕事を始めて出会った仲間のうちで、もっとも有能な人物だった。我が社が始まって以来の逸材だった。私に、もう少し、優しさとか温かさがあれば、別れと言うことは無かったように思えてならない。私と同じく「難しい人」だったので、それなりの工夫の効いた接し方が必要だったことは理解していたつもりだ。浪人時代、あまりに、あまりにも頑なな私の心を慎重に開かせてくれた恩師のようにふるまえたらどんな結果だったろう。
私に時間は、そんなに残っていないと思っている。私たちの「老後」は非常に厳しい。年金は、カットされる、仮に長生きしても「老人処罰法」で早死を迫られる。「格差」を意図的に作っているこの社会では、政権交代が起きにくい。数としては、野党の支持の方が多いらしいが、それが政治に結びついていないのだ。国家権力に痛い目にあっている人々が自民・公明の狂気政権を支持したりする現実。これは、自分も「体制側」にいるような錯覚を起こすためのようだ。その結果、「老人処罰法」のような法律ができるわけだ。60数年前の狂気の戦争も、体制にいるかのような国民の錯覚をうまく利用した作戦だったと思う。
私には、「やる気」があるので大丈夫と思っていたのだが、現実には、そのやる気は、厚労省などのアホ官僚の老後の足しに使われることになる。年金もそのためにカットになるのだ。もちろん、私も老後に備えて今、がんばってはいるが、それは、自分を救うことにはならないのだ。どこまで行っても、政治家とかそれとつるんだ官僚を食わすために使われるだけなのだ。太古の昔から、この国では民衆のために税金が使われたことがなかったのだ。
となると、あと何年、元気で働けるかということになる。あと10年は大丈夫とは思うのだが、その保障はない。それまでにも苦難の道があるのみだと思う。ちょっとつらいからといって「うつ」になっている時間は無い。むしろ時間が無いということで、こだわらずに生きられるようになってきた感じだ。それまでは、抱えている問題が解決しないと天変地異が起こるかのようにこだわっていた。間違ったことを言う人間を黙って見過ごすことは出来なかったのだ。今では、そんなことはどうでもよくなった。それよりも、前に進むことが必要かな、と思える。
現時点で解決できていない問題を解決するべく行動することだ。そうすることで仲間も見つけて行きたい。もちろん、私自身は、生きている限り勉強を続けなければならない。万が一、成功するようなことがあれば、私を頼ってきた人をことごとく引き受けて仲間にしたい。その点は、中国式を見習いたいのだ。この国では、成功したら親戚・縁者とは関係を絶ってしまう傾向にあるようだが、中国では逆に面倒を見るのだそうだ。それが、「大物」の証なのだそうだ。さすがは、大陸の考え方だ。
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