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後学のためにと思い、区の相談所へ行ってきた。SSRIやベンゾジアゼピン誘導体の薬をやめる指導をしてくれる医者を紹介してくれないかと思ったのだった。結果は、予想通り、惨憺たるものだった。出てきた女医は、強固な意志でSSRIや抗不安薬の効果について説いていた。特に注目すべきは、
(1)抗うつ剤には、依存性はあり得ません。
(2)抗うつ剤の副作用で自殺願望が起こったり、新たなうつが出たりすることは、あり得ません。
だろう。
(1)については、禁断症状という意味での依存ではないが、飲まないと離脱症状が起きて今まで薬で抑えていた症状がさらに強く出るので当事者には異常な恐怖感を味わう。そういう意味での「依存」であり、確かに医者にはわかりにくいことかもしれない。しかし、ちゃんと患者の言うことに耳を傾ければこの程度の情報は得られるはずだ。こう、言い切る医者は、ヤブだろう。SSRIがセロトニン神経のみを興奮させるとはいえ、薬理的な作用は、麻薬と同じなので危ないと考えなければいけない。
(2)については、やはり離脱症状とともに考えなければならない。長く使っているうちに薬剤耐性が出てくるために同じ薬の量では離脱症状が現れるのだ。もっとも危険な症状が、自殺願望であり、うつの新たな発生だ。これが副作用でないとなぜ言えるのか。そして、この医者が経験したことの無いであろう「個人差」があることを知るべきだろう。
私は、自分の主治医を含めて何人かの精神科医と接したり、メールを交わしたことがあるのだが、共通するのは「勉強不足」の一語だろうと思う。若い頃は、受験秀才であったように思う。受験秀才というのは、いわゆる受験には強い人間だ。しかし、特に勉強が好きだというわけではないのが困る点だ。
彼らは、おそらくは余裕をもって大学に合格し、精神科医にもなれたのだと思う。学会での立場もあるので論文なんかを読んだり書いたりの経験は、多少あるのかもしれない。しかし、目の前の人間を見るという訓練には極端に欠けていたのではないのか。それはつまり、医師として落第なのではないか。医師免許を剥奪されても仕方がないのではないか。彼らにあるのは、○×大学卒業という肩書きと、医師免許だけだ。こころの無い免許や肩書きに意味があるのだろうか。
他の科は知らないのだが、こと精神科については、企業の中に埋もれている無能サラリーマンと同じニオイを感じる。自分で経験して調べなければならないことには、彼らはめっぽう弱い。コンピュータで何かをすることには特に弱い。実経験が必要な作業だからだ。
精神科の仕事は、患者がいて、調べなければならない情報が山のようにある。薬学の知識、薬の作用の個人差、新薬の扱い、薬害への知識など。そして、日々書き換わっている新しい情報。実際には、ほとんどを省略しなければ自分の生活さえままならないのだろうと思う。その結果が、今の精神科の悪行三昧なのではないのか。
時間を節約するためには、今までの肩書きを「権威」として使わざるを得ないのだ。物語ならばそれでおもしろいのだが、これは現実だ。しかも、生きている人間を相手にしている極めて責任の重い仕事なのだ。連中のような所業は絶対に許されない。少しは、薬の勉強をしたらどうなのか。連中の知識ときたらド素人の私よりも無いのだ。これで医者とは冗談ではないか。
コンピュータの勉強は、受験秀才にとって極めて手強い。それは、固定することがないからだ。どんどんバージョンアップして新しいものが出てくる。日々の研究が必須となる。「権威者」としての権威が揺らぐ事態なのである。コンピュータの前では、受験秀才も受験敗者も立場は同じだ。やった者が強い。私は精神科医が、そういう点で受験秀才のままで大人になった人種と感じてしまう。分析を受け、時にはクスリを飲まなければならないのは、精神科医の方だろう。
医学とは何か。難しい話ではない。ただ、勉強することだ。他の学問となんら変わることはない。学問とは、終わることの無い営為だ。医学とて変わらない。日々の勉強が嫌ならば医者をやめればいいだけのことだ。人の一生がかかっているのだ、いい加減な覚悟でやって欲しくない。受験秀才は、即刻、医者を廃業して欲しい。
(1)抗うつ剤には、依存性はあり得ません。
(2)抗うつ剤の副作用で自殺願望が起こったり、新たなうつが出たりすることは、あり得ません。
だろう。
(1)については、禁断症状という意味での依存ではないが、飲まないと離脱症状が起きて今まで薬で抑えていた症状がさらに強く出るので当事者には異常な恐怖感を味わう。そういう意味での「依存」であり、確かに医者にはわかりにくいことかもしれない。しかし、ちゃんと患者の言うことに耳を傾ければこの程度の情報は得られるはずだ。こう、言い切る医者は、ヤブだろう。SSRIがセロトニン神経のみを興奮させるとはいえ、薬理的な作用は、麻薬と同じなので危ないと考えなければいけない。
(2)については、やはり離脱症状とともに考えなければならない。長く使っているうちに薬剤耐性が出てくるために同じ薬の量では離脱症状が現れるのだ。もっとも危険な症状が、自殺願望であり、うつの新たな発生だ。これが副作用でないとなぜ言えるのか。そして、この医者が経験したことの無いであろう「個人差」があることを知るべきだろう。
私は、自分の主治医を含めて何人かの精神科医と接したり、メールを交わしたことがあるのだが、共通するのは「勉強不足」の一語だろうと思う。若い頃は、受験秀才であったように思う。受験秀才というのは、いわゆる受験には強い人間だ。しかし、特に勉強が好きだというわけではないのが困る点だ。
彼らは、おそらくは余裕をもって大学に合格し、精神科医にもなれたのだと思う。学会での立場もあるので論文なんかを読んだり書いたりの経験は、多少あるのかもしれない。しかし、目の前の人間を見るという訓練には極端に欠けていたのではないのか。それはつまり、医師として落第なのではないか。医師免許を剥奪されても仕方がないのではないか。彼らにあるのは、○×大学卒業という肩書きと、医師免許だけだ。こころの無い免許や肩書きに意味があるのだろうか。
他の科は知らないのだが、こと精神科については、企業の中に埋もれている無能サラリーマンと同じニオイを感じる。自分で経験して調べなければならないことには、彼らはめっぽう弱い。コンピュータで何かをすることには特に弱い。実経験が必要な作業だからだ。
精神科の仕事は、患者がいて、調べなければならない情報が山のようにある。薬学の知識、薬の作用の個人差、新薬の扱い、薬害への知識など。そして、日々書き換わっている新しい情報。実際には、ほとんどを省略しなければ自分の生活さえままならないのだろうと思う。その結果が、今の精神科の悪行三昧なのではないのか。
時間を節約するためには、今までの肩書きを「権威」として使わざるを得ないのだ。物語ならばそれでおもしろいのだが、これは現実だ。しかも、生きている人間を相手にしている極めて責任の重い仕事なのだ。連中のような所業は絶対に許されない。少しは、薬の勉強をしたらどうなのか。連中の知識ときたらド素人の私よりも無いのだ。これで医者とは冗談ではないか。
コンピュータの勉強は、受験秀才にとって極めて手強い。それは、固定することがないからだ。どんどんバージョンアップして新しいものが出てくる。日々の研究が必須となる。「権威者」としての権威が揺らぐ事態なのである。コンピュータの前では、受験秀才も受験敗者も立場は同じだ。やった者が強い。私は精神科医が、そういう点で受験秀才のままで大人になった人種と感じてしまう。分析を受け、時にはクスリを飲まなければならないのは、精神科医の方だろう。
医学とは何か。難しい話ではない。ただ、勉強することだ。他の学問となんら変わることはない。学問とは、終わることの無い営為だ。医学とて変わらない。日々の勉強が嫌ならば医者をやめればいいだけのことだ。人の一生がかかっているのだ、いい加減な覚悟でやって欲しくない。受験秀才は、即刻、医者を廃業して欲しい。
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