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18年前の東京行きは、私なりの総決算だった。親父が亡くなり、何とか岡山で暮らし始めるも、たちまち貧乏に転落。会社も危なくなり、他に仕事も無し。今と同じような感じだった。そこに降ってわいたのが東京での仕事だった。もちろん、私の小さな小さな営業努力もあった。一つだけ心配なことは、東京に出るということだった。今なら仮想サーバーを作り、月に何回行きましょうか?という話で済むが、当時はそういうことも苦しかったように思う。
結局、周囲の理解、励ましもあり、行くことになったのだった。あとで考えれば、選択の余地など無かったのだろうが、当時は、それなりに悩んだのだった。阪神大震災があったりして、世の中は不安に満ちていた。その前に、京都時代で培った、一人暮らしのマニュアルが私にはあったので、何とかなるという思いはあった。しかし、未知の街であるし、危ない街という認識には変わりはなかった。田舎もんの私が暮らせる街ではないのではないかと思っていたからだ。
現実に、総武線の通勤をしばらく続けた時には、「これまでか」とさえ考えたほどだった。そう、地下鉄が恐くて乗れなかったのであった。今も思い出すが、どこかよそに連れて行かれるのではないかという、田舎もん独特の発想があったのだ。同僚によく話を聞いて、都営地下鉄に乗るようにすると、何とか落ち着いて通勤できることを知った。ただ、アパートにはバスも乗り継がなければならなかったため、非常に時間がかかった。
何を食っていたのか思い出せないが、夕食には困っていて、コンビニの弁当を食っては、口内炎を作っていた。3日、コンビニ弁当を食べると具合が悪くなる、というのが当時の経験則だった。311前なので、適当に食っても被曝することはなかったのでマシだとは思うが、それでも食品添加物の嵐だったのだろう。とにかく、食うものに困ったというのが当時の思い出にある。
精神衛生上、趣味を何か考えていたが、やはり音楽くらいだった。こちらで買ったボロステレオを持って行ったが、すぐに壊れた。龍雲のライブにはとにかくよく行ったと思う。年に4回くらいはあった。当時は、渋谷エッグマンとかでやっていた。その他は覚えていないが、とにかく仕事と一体化していたため、日曜日にはアキバのホコ天に行っていた。何度か同僚と行き、次第に一人で行くようになったのだろう。本や新しいパソコンに触れることが本当に楽しかった。まだ、ヨドバシが進出していない頃だったので、電気街も泥臭く楽しかった。
仕事は楽しかったのだが、責任も同時にあり、できないということは許されなかった。優しく言ってはいるが、できないということは即仕事が無くなることを意味していた。そのため休みの日も平日も常に仕事の悩みを抱えていた。具体的にデータベースの使い方がわからない、プログラミングの仕方がわからないという悩みだった。失敗するとデータを壊すことになり、一大事だった。土日でも私がパソコンから離れられなかった所以だった。5月の連休などは、トイレと風呂以外は、ずっとパソコンの前だった。仕事にくらいつくことで、知識も少しづつ付いて行ったのだろうと思う。
グループで付き合っていた仲間といろいろ行ったのだが、大島や今では行けない那須にも行った。私は、その中で恋もしたのだが、結果はさっぱりだった。どうも私の器の小ささが原因のようだった。今では付き合いは絶えているのだが、その中の一人だけとは、お別れをしてきた。メールだけなのだが。彼女を好きになった私だったが、先着がいたのだった。しかし、それでも楽しい仲というのは彼女の人柄なのだろうか。出会いから、ずっと優しいのだった。
以後は、よく書いてきたことだが、精神的にまいったり、仕事場でもめたりといろいろなことがあった。私が会社を作り、新しい仲間と付き合うようになり、また交友関係も変わった。というと何か別の人との付き合いがあるようだが、そんなことはなく、基本は一人だった。調子を崩して写真を撮りに行くようになった時も一人だった。
振り返ってみて、あの時にあれをやっておけば、というのはあるのだが、全ては過ぎ去ったこと。どうにもならない。付き合いのあった会社の変化は、私の力でどうにかなるものではない。できれば、私が去った時にいた連中は消えて欲しいと思うが、そうでもないのだろう。素人にできる仕事ではないだけに、心配だ。
特に依頼されたわけでもないのだが、行きがかり上、辞書のデータを作りたいと思っている。それもかなり面倒なものだ。時間もかかると思う。私がやらなくてもいいのなら、それでいいのだが、私がやらなければならない理由は、品質にこだわるからだ。ここにコストパフォーマンスなど言い出すとデータが壊れてしまう。作る時は、本気で作らなければならない。
私もいろんな人間と付き合ってきたのだが、自分を変える必要もあったのかもしれない。ただ、それはできずに衝突する所では衝突し、今に至っている。しかし、それで良かったのかもしれないと思うこともある。私を嫌う人間は結局、どう振舞おうと嫌いなのであって相手は変わらないのだから。東京に行きずっと直接の担当になっていた人や、衝突した人などは、そもそも私を信用すらしていなかったのだろう。その他の人は、私の実質だけを見て私の過去には興味無いかのようだった。その意味で友好的だったのだ。
そういう私なので、新たに付き合いを作るのは非常に難しく、現に今もってできていない。仕事本位で動いてくれる人がいいのだが。今のこの時期に辞書をやらせてくれるようであれば、私もラッキーだが、その人も幸運なのではないか。あのしんどい仕事をやらせてくれとまで言っているのだから。なかなか探すのは難しいはずだ。
千里の道も一歩から。今日も明るく、素直に、温かくの精神で仕事を待ちたい。
結局、周囲の理解、励ましもあり、行くことになったのだった。あとで考えれば、選択の余地など無かったのだろうが、当時は、それなりに悩んだのだった。阪神大震災があったりして、世の中は不安に満ちていた。その前に、京都時代で培った、一人暮らしのマニュアルが私にはあったので、何とかなるという思いはあった。しかし、未知の街であるし、危ない街という認識には変わりはなかった。田舎もんの私が暮らせる街ではないのではないかと思っていたからだ。
現実に、総武線の通勤をしばらく続けた時には、「これまでか」とさえ考えたほどだった。そう、地下鉄が恐くて乗れなかったのであった。今も思い出すが、どこかよそに連れて行かれるのではないかという、田舎もん独特の発想があったのだ。同僚によく話を聞いて、都営地下鉄に乗るようにすると、何とか落ち着いて通勤できることを知った。ただ、アパートにはバスも乗り継がなければならなかったため、非常に時間がかかった。
何を食っていたのか思い出せないが、夕食には困っていて、コンビニの弁当を食っては、口内炎を作っていた。3日、コンビニ弁当を食べると具合が悪くなる、というのが当時の経験則だった。311前なので、適当に食っても被曝することはなかったのでマシだとは思うが、それでも食品添加物の嵐だったのだろう。とにかく、食うものに困ったというのが当時の思い出にある。
精神衛生上、趣味を何か考えていたが、やはり音楽くらいだった。こちらで買ったボロステレオを持って行ったが、すぐに壊れた。龍雲のライブにはとにかくよく行ったと思う。年に4回くらいはあった。当時は、渋谷エッグマンとかでやっていた。その他は覚えていないが、とにかく仕事と一体化していたため、日曜日にはアキバのホコ天に行っていた。何度か同僚と行き、次第に一人で行くようになったのだろう。本や新しいパソコンに触れることが本当に楽しかった。まだ、ヨドバシが進出していない頃だったので、電気街も泥臭く楽しかった。
仕事は楽しかったのだが、責任も同時にあり、できないということは許されなかった。優しく言ってはいるが、できないということは即仕事が無くなることを意味していた。そのため休みの日も平日も常に仕事の悩みを抱えていた。具体的にデータベースの使い方がわからない、プログラミングの仕方がわからないという悩みだった。失敗するとデータを壊すことになり、一大事だった。土日でも私がパソコンから離れられなかった所以だった。5月の連休などは、トイレと風呂以外は、ずっとパソコンの前だった。仕事にくらいつくことで、知識も少しづつ付いて行ったのだろうと思う。
グループで付き合っていた仲間といろいろ行ったのだが、大島や今では行けない那須にも行った。私は、その中で恋もしたのだが、結果はさっぱりだった。どうも私の器の小ささが原因のようだった。今では付き合いは絶えているのだが、その中の一人だけとは、お別れをしてきた。メールだけなのだが。彼女を好きになった私だったが、先着がいたのだった。しかし、それでも楽しい仲というのは彼女の人柄なのだろうか。出会いから、ずっと優しいのだった。
以後は、よく書いてきたことだが、精神的にまいったり、仕事場でもめたりといろいろなことがあった。私が会社を作り、新しい仲間と付き合うようになり、また交友関係も変わった。というと何か別の人との付き合いがあるようだが、そんなことはなく、基本は一人だった。調子を崩して写真を撮りに行くようになった時も一人だった。
振り返ってみて、あの時にあれをやっておけば、というのはあるのだが、全ては過ぎ去ったこと。どうにもならない。付き合いのあった会社の変化は、私の力でどうにかなるものではない。できれば、私が去った時にいた連中は消えて欲しいと思うが、そうでもないのだろう。素人にできる仕事ではないだけに、心配だ。
特に依頼されたわけでもないのだが、行きがかり上、辞書のデータを作りたいと思っている。それもかなり面倒なものだ。時間もかかると思う。私がやらなくてもいいのなら、それでいいのだが、私がやらなければならない理由は、品質にこだわるからだ。ここにコストパフォーマンスなど言い出すとデータが壊れてしまう。作る時は、本気で作らなければならない。
私もいろんな人間と付き合ってきたのだが、自分を変える必要もあったのかもしれない。ただ、それはできずに衝突する所では衝突し、今に至っている。しかし、それで良かったのかもしれないと思うこともある。私を嫌う人間は結局、どう振舞おうと嫌いなのであって相手は変わらないのだから。東京に行きずっと直接の担当になっていた人や、衝突した人などは、そもそも私を信用すらしていなかったのだろう。その他の人は、私の実質だけを見て私の過去には興味無いかのようだった。その意味で友好的だったのだ。
そういう私なので、新たに付き合いを作るのは非常に難しく、現に今もってできていない。仕事本位で動いてくれる人がいいのだが。今のこの時期に辞書をやらせてくれるようであれば、私もラッキーだが、その人も幸運なのではないか。あのしんどい仕事をやらせてくれとまで言っているのだから。なかなか探すのは難しいはずだ。
千里の道も一歩から。今日も明るく、素直に、温かくの精神で仕事を待ちたい。
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