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コンピュータのハードで迷うことはほとんど無い。これは、最初から諦めているからだろうか。基盤の構造を見てどこがおかしいかとかは、一切わからないし、その意味では諦めも当然かと思っている。
ソフトウエアで迷うことは非常に多いし、学ばなければならないことは山のようにある。有志が先んじて挑戦した結果を書き残していてくれたりすると、それを元に問題を解決できたりする。情報が無ければ何年も放置することもある。しかし、コンピュータを扱うということは、そういうことだと思って生きてきた。誰かに教えてもらうものではなく、学ぼうとするものなのだ。
それ故に、遅れて来た人々に対して私の態度はそっけないかもしれない。私自身、すぐに問題解決を教えてもその人が今後、自分で学ぼうとしないことは明らかなので無駄なことだとよくわかっている。コンピュータの勉強は特に難しいわけではないのだが、他の日常生活の中にそれが食い込んで来ることが苦しいのだ。
しかも、けっこうな歳をとってから日々勉強しなければついて行けない。これは、多くの人にとって苦痛なはずなのだ。私自身も、今の仕事をやりつつ、先にやっていた人に対して腹立たしさを持っていた。その彼は、多くを教えてくれようとはしないのだ。教える時はいつも喧嘩腰であった。「そうじゃ、ねえだろ!」と。当時は、非常に違和感を感じたが、私が逆の立場になった時、彼の気持ちをある程度はわかるようになったのだ。
彼も私も特別な教官ではない。ただ、先にやっていたというだけで後から来た人に教えなければならないというだけのことだ。したがって、教え方が上手とは言えない。教育とは何であるかという意見も無い。いや、無いことはないのだが、独断的で偏狭だ。どちらかと言えば、私も彼も「作業者」に過ぎない。自分自身も日々、学ばなければならないぺーぺーなのだ。それ故に、学ぼうとしない人から質問を受けると苛立つのだ。
決して、根性悪でそういう言動をしているわけではないのだが、恐らくは小さい人間と見られていることだろう。私が彼に対してそう思っているのは事実だからだ。だが、私は甘んじてその批判を受けたいと思う。コンピュータのことさ人に教えられない、小さな人間なのだ。それを自覚しなければならないと思うから。
GNUを立ち上げたリチャード・ストールマンは、GNUが発行する文書によく、「質問はしないで欲しい」という文章を載せていた。フリーソフトを広めているリチャードにしてこの言葉は、非常に違和感を感じたものだが、要するに、自分たちは開発して行く人間であり、「教える」人間ではないのだということを宣言したものなのかもしれない。
ただ、リチャードはそう言うもののマニュアルを書くことが好きなのだという。自分の時間を奪いかねない「質問」は嫌だが、自分から情報を発信することは好きだということだ。これは、ある意味核心をついているように思う。コンピュータ相手の仕事で大切なことは、「好奇心」だ。これを殺すような行為は慎まなければならないが、ウンザリすることが他人の質問に答えることなのだ。
その多くは、「同じ事」であり、ちょっと調べればわかることだ。当然、先にやっている人は、同じことにつまづいているので対処法はわかっている。それ故に、既知のことには興味は無いわけだ。興味の無いことを何度も聞かれると、当然、苛立ちになる。コンピュータを使うことで摩擦が生じる原点はここにある。
さりとて、コンピュータの扱いを教えてくれる学校に通うことは、自殺行為だ。必要以上に難しく感じるし、得られるものも小さい。しかも高価だ。選択すべきではないと思う。結局、身近な物知りの側で学ぶことが一番の上達方法なのだ。しかし、その姿勢が問題だ。お金の問題でもある。学校に行かないなら、金をかけなくて済むというのは誤解だ。むしろ、学校へ行くよりも多くの金がかかると思う。いや、そうして欲しいということでもある。学ぶ環境=コンピュータ本体を買い、参考書を買い、バランスをとるために他の本も買い、気分転換にゲームを買いとやっていたら、相当な金額になる。それでも、学校に行くよりはマシなのだ。
語学や尺八の演奏をゼロから学んでいて思うのは、ゼロから人に教えてもらうことはできない、ということ。ある程度の「基本」は自分で学ばないと何ら身に付くことは無いということ。それ故に何でもいいからゼロから学ぶことを増やせばいいのではないかと思っている。学び方の研究になると思う。やればやる程に、どうやれば上達するのかという方法が見えてくるような気がする。
ソフトウエアで迷うことは非常に多いし、学ばなければならないことは山のようにある。有志が先んじて挑戦した結果を書き残していてくれたりすると、それを元に問題を解決できたりする。情報が無ければ何年も放置することもある。しかし、コンピュータを扱うということは、そういうことだと思って生きてきた。誰かに教えてもらうものではなく、学ぼうとするものなのだ。
それ故に、遅れて来た人々に対して私の態度はそっけないかもしれない。私自身、すぐに問題解決を教えてもその人が今後、自分で学ぼうとしないことは明らかなので無駄なことだとよくわかっている。コンピュータの勉強は特に難しいわけではないのだが、他の日常生活の中にそれが食い込んで来ることが苦しいのだ。
しかも、けっこうな歳をとってから日々勉強しなければついて行けない。これは、多くの人にとって苦痛なはずなのだ。私自身も、今の仕事をやりつつ、先にやっていた人に対して腹立たしさを持っていた。その彼は、多くを教えてくれようとはしないのだ。教える時はいつも喧嘩腰であった。「そうじゃ、ねえだろ!」と。当時は、非常に違和感を感じたが、私が逆の立場になった時、彼の気持ちをある程度はわかるようになったのだ。
彼も私も特別な教官ではない。ただ、先にやっていたというだけで後から来た人に教えなければならないというだけのことだ。したがって、教え方が上手とは言えない。教育とは何であるかという意見も無い。いや、無いことはないのだが、独断的で偏狭だ。どちらかと言えば、私も彼も「作業者」に過ぎない。自分自身も日々、学ばなければならないぺーぺーなのだ。それ故に、学ぼうとしない人から質問を受けると苛立つのだ。
決して、根性悪でそういう言動をしているわけではないのだが、恐らくは小さい人間と見られていることだろう。私が彼に対してそう思っているのは事実だからだ。だが、私は甘んじてその批判を受けたいと思う。コンピュータのことさ人に教えられない、小さな人間なのだ。それを自覚しなければならないと思うから。
GNUを立ち上げたリチャード・ストールマンは、GNUが発行する文書によく、「質問はしないで欲しい」という文章を載せていた。フリーソフトを広めているリチャードにしてこの言葉は、非常に違和感を感じたものだが、要するに、自分たちは開発して行く人間であり、「教える」人間ではないのだということを宣言したものなのかもしれない。
ただ、リチャードはそう言うもののマニュアルを書くことが好きなのだという。自分の時間を奪いかねない「質問」は嫌だが、自分から情報を発信することは好きだということだ。これは、ある意味核心をついているように思う。コンピュータ相手の仕事で大切なことは、「好奇心」だ。これを殺すような行為は慎まなければならないが、ウンザリすることが他人の質問に答えることなのだ。
その多くは、「同じ事」であり、ちょっと調べればわかることだ。当然、先にやっている人は、同じことにつまづいているので対処法はわかっている。それ故に、既知のことには興味は無いわけだ。興味の無いことを何度も聞かれると、当然、苛立ちになる。コンピュータを使うことで摩擦が生じる原点はここにある。
さりとて、コンピュータの扱いを教えてくれる学校に通うことは、自殺行為だ。必要以上に難しく感じるし、得られるものも小さい。しかも高価だ。選択すべきではないと思う。結局、身近な物知りの側で学ぶことが一番の上達方法なのだ。しかし、その姿勢が問題だ。お金の問題でもある。学校に行かないなら、金をかけなくて済むというのは誤解だ。むしろ、学校へ行くよりも多くの金がかかると思う。いや、そうして欲しいということでもある。学ぶ環境=コンピュータ本体を買い、参考書を買い、バランスをとるために他の本も買い、気分転換にゲームを買いとやっていたら、相当な金額になる。それでも、学校に行くよりはマシなのだ。
語学や尺八の演奏をゼロから学んでいて思うのは、ゼロから人に教えてもらうことはできない、ということ。ある程度の「基本」は自分で学ばないと何ら身に付くことは無いということ。それ故に何でもいいからゼロから学ぶことを増やせばいいのではないかと思っている。学び方の研究になると思う。やればやる程に、どうやれば上達するのかという方法が見えてくるような気がする。
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