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依然、体調は良くない。頭痛も少しある。今日はちょっと出る用事もあるのだが、行けるかどうか。
そのせいか、何と京都時代のことが思い出された。本屋でバイトをしていたのだが、そこでいろんなことがあった。今でもメールだけだが、付き合いのある友もいる。女性関係はろくなことが無かったが、それでもほんわか楽しい思い出もあった。
当時の私も好きな相手を好きになるという感じで、はたから見れば、全く可能性の無いような相手に行ったりしていたようだ。だから、横から私に好意を持たれても目に入らない。そんな経験があった。仕事をしつつ、毎日が悩みの日々だった。何かしっくりとくる仕事をしたい、勉強もしたい、彼女も欲しい、しかし、お金が無い。
当時では贅沢であった、風呂の付いたアパートに引越しを決めたあたりから私の生活も少し変化があった。忘れていたのだが、この頃、原付の免許もとっていた。どこへ試験を受けに行ったのかも覚えていない。太秦まで毎日通っていたのでバイクは必要だった。ただ、危険を顧みないのならば、自転車でも行ける。
食事がワンパターンになり、困っていたのもこの頃だ。今ほどコンビニは無く、すぐに食べられるものを買う店は多くはなかった。王将は有名だったが、あまりに食べ過ぎて当時は欲しくなかったように思う。それまでは、極上の食事だったのだが。
私としては、新しい拠点を中心に何かをやろうとしていた。それにはまず収入ということでバイトに精を出す日々だった。ただ、これもなかなか厳しく、余裕のあるようなお金は得られるはずもなく、いつ辞めるのかを考える毎日だった。
そんな生活が突如として終わりを告げたのは、父の病気だった。直前に無職となっていた私は、田舎に帰り様子を見ていた。まだ、起きて話せる状態であったが、母は全てを悟り泣く日々だったようだ。今の生活があるのは、父の存在があってこそだと思い、私は田舎に帰ることにしたのだった。
それから一週間後、私は田舎にいた。一週間で引っ越しの準備や手続きを済ませて帰ってきたのだった。当時も持ち物の大半は本で後はろくなものが無かった。友人も引っ越しの手伝いに来てくれた。残念だったが、京都とはこれでお別れだった。根拠は無かったが、父のことが無ければ、私は京都でまだまだがんばるつもりだった。これは、東京を離れた時と似ている。311が無ければ、私もまだ東京でがんばっていたと思う。
夕方だったと思うが、京都を離れた日のことをまだ覚えている。バスの中の夕陽がやけにまぶしかったから。京都からは、1時間ちょっとだったと思うが、そんなに遠く感じられない距離だった。そこは東京とは違う。私は、もっと地に足のついた仕事をやりたいと思ったものだった。
岡山での数年間も夢破れ、すぐに東京に出てしまう私だった。単に、仕事が東京だったというだけのことだが、私の覚悟は悲壮感に満ちたものだった。というのも、上記のように、京都を去る時の心細かったことといったらなかったので、今度こそ、地に足のついた仕事を身に付けたいと思っていたからだ。場所も場所だし、やるべきことも私には未知なことが多く、自信を持っているわけではなかった。
東京での日々は、多くは書き残してはいないが、いつかまとめて書く方がいいように思う。江戸川区に住んでいた頃、葛飾区へ移ってからを中心に書けば、わりと思い出すかもしれない。今では遠い昔のようだが、まだ20年も経っていない最近のことだ。運動ができなかった日々だという気はする。
まだまだ大きな変化はあるかもしれないが、当分は冬の時代を過ごすしかないかなと今は思っている。東京での仕事のようなことがこちらでできれば、そうでもないのだが、こちらではそんな仕事は皆無なのだ。もっとも私が起こせばいいのだが。それでも、明るく、素直に、温かくでがんばろう。
そのせいか、何と京都時代のことが思い出された。本屋でバイトをしていたのだが、そこでいろんなことがあった。今でもメールだけだが、付き合いのある友もいる。女性関係はろくなことが無かったが、それでもほんわか楽しい思い出もあった。
当時の私も好きな相手を好きになるという感じで、はたから見れば、全く可能性の無いような相手に行ったりしていたようだ。だから、横から私に好意を持たれても目に入らない。そんな経験があった。仕事をしつつ、毎日が悩みの日々だった。何かしっくりとくる仕事をしたい、勉強もしたい、彼女も欲しい、しかし、お金が無い。
当時では贅沢であった、風呂の付いたアパートに引越しを決めたあたりから私の生活も少し変化があった。忘れていたのだが、この頃、原付の免許もとっていた。どこへ試験を受けに行ったのかも覚えていない。太秦まで毎日通っていたのでバイクは必要だった。ただ、危険を顧みないのならば、自転車でも行ける。
食事がワンパターンになり、困っていたのもこの頃だ。今ほどコンビニは無く、すぐに食べられるものを買う店は多くはなかった。王将は有名だったが、あまりに食べ過ぎて当時は欲しくなかったように思う。それまでは、極上の食事だったのだが。
私としては、新しい拠点を中心に何かをやろうとしていた。それにはまず収入ということでバイトに精を出す日々だった。ただ、これもなかなか厳しく、余裕のあるようなお金は得られるはずもなく、いつ辞めるのかを考える毎日だった。
そんな生活が突如として終わりを告げたのは、父の病気だった。直前に無職となっていた私は、田舎に帰り様子を見ていた。まだ、起きて話せる状態であったが、母は全てを悟り泣く日々だったようだ。今の生活があるのは、父の存在があってこそだと思い、私は田舎に帰ることにしたのだった。
それから一週間後、私は田舎にいた。一週間で引っ越しの準備や手続きを済ませて帰ってきたのだった。当時も持ち物の大半は本で後はろくなものが無かった。友人も引っ越しの手伝いに来てくれた。残念だったが、京都とはこれでお別れだった。根拠は無かったが、父のことが無ければ、私は京都でまだまだがんばるつもりだった。これは、東京を離れた時と似ている。311が無ければ、私もまだ東京でがんばっていたと思う。
夕方だったと思うが、京都を離れた日のことをまだ覚えている。バスの中の夕陽がやけにまぶしかったから。京都からは、1時間ちょっとだったと思うが、そんなに遠く感じられない距離だった。そこは東京とは違う。私は、もっと地に足のついた仕事をやりたいと思ったものだった。
岡山での数年間も夢破れ、すぐに東京に出てしまう私だった。単に、仕事が東京だったというだけのことだが、私の覚悟は悲壮感に満ちたものだった。というのも、上記のように、京都を去る時の心細かったことといったらなかったので、今度こそ、地に足のついた仕事を身に付けたいと思っていたからだ。場所も場所だし、やるべきことも私には未知なことが多く、自信を持っているわけではなかった。
東京での日々は、多くは書き残してはいないが、いつかまとめて書く方がいいように思う。江戸川区に住んでいた頃、葛飾区へ移ってからを中心に書けば、わりと思い出すかもしれない。今では遠い昔のようだが、まだ20年も経っていない最近のことだ。運動ができなかった日々だという気はする。
まだまだ大きな変化はあるかもしれないが、当分は冬の時代を過ごすしかないかなと今は思っている。東京での仕事のようなことがこちらでできれば、そうでもないのだが、こちらではそんな仕事は皆無なのだ。もっとも私が起こせばいいのだが。それでも、明るく、素直に、温かくでがんばろう。
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