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『太平記』から一転して『白線流し』を見ている。高三の夏前あたりからを描いているので、見てみるとうちの高校と同じようなので興味を持った。卒業アルバムのための写真撮影とか模試とか進路指導の面談とかだ。多くの同級生は、この半年を有意義に過ごして大学に行ったのだろうと思う。私は確かに高三の6ヶ月は普通に過ごしたのだが、その後が長かったから、別の記憶としてあるのだろう。なにしろ4年もの長きにわたった。

今は、あれで良かったと思っているが、当時は気も狂わんばかりだったのだ。大学へ行きたいのだが、受験がある限り入れない。普通には進路を変更するのだが、私はできなかったのだ。浪人時代、好きな先生に薦められて、私立大学も受けてみたのだが、ことごとく不合格だった。先生も宿泊の世話をしてくれた友人も内心、驚いたのではなかったか。「なぜ入れない?」ということだ。受験勉強に興味が無く、身が入らなかったというのは事実だが、それだけではないのかもしれない。

精神的な症状が出だしたのは、三浪くらいからだった。食事をしたら吐きそうになったり、痔疾が悪化したり、常時胃痛があったり。最後には指が震えて文字が書けない、書痙という症状まで経験した。これは、共通一次で英語の問題を丸々1問やり忘れた時だった。分厚い問題用紙だが、コースを選ぶようになっていて、それに惑わされたのだった。あまりの衝撃で指が動かなくなったのだ。これは、あるいは2浪の時だったかもしれない。この頃は、先生に支えられて英語の成績も少しは上がり、私立には入れるのではないかという淡い期待をしていた。

心配そうに、合格したら私立に行きんさいと言っていた母の顔を今でも思い出す。しかし、一つも合格できなかったのだった。私もできた記憶が無いのだが、要するに水増しで合格者を取ると聞いていたので、できなくても合格すると踏んでいたわけだ。私立に不合格が続き、仕上げに共通一次で問題をやり忘れたわけだから、また1年を棒に振ったわけだ。それが口惜しくてわなわなと震えた。3浪4浪は、もう放心状態だったのではないか。勉強したいという気持ちは強かったが、米軍に竹槍で応戦するようなものだった。

他の受験生に自明で私には最後まで理解できなかったことは、今の大学はフィルターとして大学受験を使用しているということと、それは学問ではなくパズルのようなものだという事実だった。いくら受験勉強を掘り下げてみたところで何も出て来ないということ。パズルなので解ければよし、解けないならやり方を学び、速く反応できるようにすることだった。私はそのことを3浪の頃少し気がついていたのだが、やり方が同じだったことを思うと最後までわからなかったと見るべきだろう。

数学の参考書のあるページに数学の理解の仕方があった。本当は厳密な証明が要るのだが、高校段階では、直感的な理解で済ましておこうという記述。これは、無限の概念についての説明だった。皆さんは、厳密な証明などなくとも「なんとなく」微分・積分を理解して問題もそつなく解いて行ったのだろう。私は、最後まで無限をどう考えるかで悩み、問題も解けなかったのだった。

無限というか極限の概念は物理や化学に通じていて、物理では気体の数値計算などをする問題でつまずいた。化学では、ご存知、原子はあるのだろうか、ということでとうとう4浪まで持ち越してしまった。その代わり、数学や物理、化学へのあこがれは強く持っているのだが、大学へ行くための能力は1ミリも育てることはできなかったのだった。

私自身がそのような受験生になるという気持ちは無かったのだが、その予兆というか先輩がいた。高校で浪人を預かってくれる場があった。補習科と呼ぶのだが、岡山では普通にどこでもあったと思う。その大先輩のような人がいていつも補習科の人間がくすくす笑っていたのだった。見るからに異様で牛乳瓶の底メガネに油でヌタヌタの髪、じいさんのような茶色ベースのシャツ、おじさんぽいズボン。授業が終わると質問に出ていたのを覚えている。「○○君、今年はどこを受けるんだい?」と聞かれて「東大です!」と元気よく答えていたのが痛々しかった。私はそれを見て笑えなかったのだ。

数年後、それは私の姿だった。姿こそ違うが、そのやり方はたぶんまったく同じだったのではないか。そもそも、やり方が間違っているのでいくらがんばっても合格はできないのだが、本人はいたってまじめで本気だった。極限をしっかり理解することで問題も解けると信じていたのだった。しかし、3浪ともなると「大学への数学」をやろうにもあくびが出る始末だった。だから、私の興味はそういうところにあるのではなく、極限の概念、ものの考え方を学ぼうとしていたのだった。

物理や化学では、実験したこともない気体についてあれこれ想像をめぐらせるのがつらかった。想像しようにも何も実験などしていないのだ。磁界についての問題でもなぜ地図のような線を描けるのか疑問でならなかった。ファラデーの本を読もうとしたり、ラボアジエの論文を読もうとしたり、受験とはますます離れるばかりだった。

今、おっさんになって図書館に興味を持っているのは、当時、疑問に対する答えを求めてよく通っていたからだった。当時見ていた百科事典などは、今でもあるものだが、それはもう大味で使えない情報だった。私が長らく関わった、小学館のニッポニカも理科系の分野ではまるで使い物にならなかった。私の調べた限りでは、本当に必要な情報など無いという結論だった。最後は1冊1冊の本に解答を求めたが、それこそ気が遠くなるような話で、時間切れになったのだった。

1970年代の終わりから1980年代の初めで、世の中もまだまだ「やれる」というような雰囲気ではなかったか。私も高校時代のような雰囲気を思いつつ、気も狂わんばかりの日々を何とか抑えつつ生きて来たと思う。男の場合、性欲の処理も大変で飽き飽きするような問題を見る度に下半身が元気になり、非常に困った。この頃、男性誌というものを毎週のように買いあさった。

すべてが終わり、大学受験全敗が明らかになった時、私はここを出る決意をした。といってもすねをかじっての旅立ちだったのだが。他人から見れば、私の不合格など明らか過ぎて話にもならないかもしれないが、私には意外であって、やる気のある私がなぜ合格できないのか、この状態は何なのか、理解できないのだった。その後に、泣きたい気持ちもあったが、こらえて「40年かかっても同級生が大学でやったこと以上のことを独学でやってやる!」と決意したのだった。むしろ、私自身がやる気を失うことを非常に恐れていた。京都に出たのだが、まだチャンスがあれば受験に打って出るような気持ちだったと思う。

数年後、コンピュータと出会い、東京で新たな世界を知った時、大学は行けなかったが、それよりも大きなものを得たなという感じを持った。コンピュータを理解したり、プログラミングを行う方が難しいような気がして。そして、それが仕事につながるのだから、喜びも大きかった。しつこく調べるという性質がまた役に立った。浪人という大きな無駄をしたと思って悔やむ事も多かったのだが、この段階でもうそれも無くなったような気がした。

まだ、勉強の意欲は衰えてはいないのだが、正直、時間が無いのではと思っている。今は暇だが、まだまだ私は隠居できないと思う。やらなければならないことは多いと思う。出版社やその他の場でも私を必要としていないみたいだが、それは現実を甘く見ている証拠だ。本気でやらない者には、コンピュータやデジタルのデータは襲いかかって来るからだ。大きな失敗をやらかす。私に声がかかるとしたら、大ピンチの時だろうか。
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