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京都大学が何を思ったか、Toutubeでを講義を公開する(もうしている)そうだ。チラリと見た限りではつまらなさそうだが、今後を期待したい。ゆくゆくは全講義を公開するそうだ。
実際、大学が全部こういうことをやってくれるならば、大学へ行かなくてもいいし非常に助かる。浪人時代の経験だが、私は、「教えてもらう」というよりも自分でどんどんやって、わからない所だけを質問したり、講義で自習した結果を確認したりするというのが好きだ。浪人時代は、働いてはいなかったので時間があったが、大学生「期間」はできるだけ時間があった方がいいので国家が奨学金を出すべきだろう。あまり、バイトをさせると勉強どころではなくなるので。
大学が開かれたものになることを私は期待している。図書館の本なども広く公開して欲しいものだ。京大は、電子図書館などを作って結構がんばっている方だが、実際の図書館を市民に公開しているわけではない。かつて私は抗議したことがあったが、もちろん何の返事も無かった。税金で成り立っている組織なのに、国民に還元しないのは許せないと思うからだ。
この国の大学は不幸だったと思う。中国の科挙の影響からだろうか、入学試験が権威を持ってしまい、入学後の勉強があまりにもおろそかにされすぎている。私はいつも言うのだが、大学は、教育機関ではないのだ。やる気のある人がある程度の指針を持って研究する所だ。「教えてもらう」と思っている人は、そもそも行くべきではないのだ。行ってもおそらくついて行けない世界だからだ。
学問の世界は本当は非常に厳しい。限られた寿命の中で成果を求められるからだ。一気に学べて成果が出せればいいのだが、これがなかなか難しい。京大の教授が必ずしも優秀とは限らないのだ。私は、宇宙物理学の教授と対談したことがあるのだが、教授になるには30年くらい早いのではと感じた。現実には、知識があるわけでもない人が組織の順番で教授になったりするのだと思う。凡庸な人が組織に残りやすいのでこういう結果になる。
考えてみれば、大学の教授というのは難しい職業だ。自分の研究もあるし、学生への講義もある。講義に費やせる時間は、これだけでも半分になる。つまらないのも当然だろう。そして、自身の研究も半分だとしたら、ろくな研究もできないだろう。どうやら、まともな「頭」が作られるシステムではないような気がする。今日の、アホな医者、教師、教授、政治家、司法、警察、官僚が生まれるのももっともだということだ。どうやって勉強していいのかわからない人間が、同じくよくわからない教授に「教えてもらう」のだから何も生まれないだろう。上げ底で卒業しても実力までは偽装できない。この国の今の不幸は、ここで生まれていると私は思っている。
勉強の原点は、単なる好奇心だ。これを持続させるためには、いろんな条件が必要なのだが、基本的には専門的にならなくても「考える」ことはできる。誰もが論理的に考え、もっと専門的にやりたければ、やれるシステムを作ればいいだけのことだ。書籍であったり、大学の公開講座であってもいい。京大のYoutubeのようなものであって悪いわけがない。いい講義というものは普遍的なものだ。素人にも通用するものだ。
大学受験をめぐっては、「利権」があるので簡単には変えることはできない。悲観的な予測では、「永遠に」変わらない。道路の利権と同じで、既にそこに群がる団体や企業がいて政治をコントロールしているのだ。国家としては、受験産業をつぶしてまで大学を改革するメリットは無いと考えているようだ。
それだけに、大学が積極的に自身から情報を発信することは望ましいことだ。そして、それこそが大学の再生につながる唯一の道だと思う。大学卒業証書が就職の免罪符となって久しいが、その動きと連動して大学の権威も揺らいできた。大学がたいした研究をしていないのだ。今後もその大きな流れは変わらないだろうが、大学の動き次第では大学が独自の価値を持つようになるかもしれない。
かつて大学へ行って本物の勉強をすることを熱望した一人として大学が変わることを期待したい。変わるにしても、良く変わることを。
実際、大学が全部こういうことをやってくれるならば、大学へ行かなくてもいいし非常に助かる。浪人時代の経験だが、私は、「教えてもらう」というよりも自分でどんどんやって、わからない所だけを質問したり、講義で自習した結果を確認したりするというのが好きだ。浪人時代は、働いてはいなかったので時間があったが、大学生「期間」はできるだけ時間があった方がいいので国家が奨学金を出すべきだろう。あまり、バイトをさせると勉強どころではなくなるので。
大学が開かれたものになることを私は期待している。図書館の本なども広く公開して欲しいものだ。京大は、電子図書館などを作って結構がんばっている方だが、実際の図書館を市民に公開しているわけではない。かつて私は抗議したことがあったが、もちろん何の返事も無かった。税金で成り立っている組織なのに、国民に還元しないのは許せないと思うからだ。
この国の大学は不幸だったと思う。中国の科挙の影響からだろうか、入学試験が権威を持ってしまい、入学後の勉強があまりにもおろそかにされすぎている。私はいつも言うのだが、大学は、教育機関ではないのだ。やる気のある人がある程度の指針を持って研究する所だ。「教えてもらう」と思っている人は、そもそも行くべきではないのだ。行ってもおそらくついて行けない世界だからだ。
学問の世界は本当は非常に厳しい。限られた寿命の中で成果を求められるからだ。一気に学べて成果が出せればいいのだが、これがなかなか難しい。京大の教授が必ずしも優秀とは限らないのだ。私は、宇宙物理学の教授と対談したことがあるのだが、教授になるには30年くらい早いのではと感じた。現実には、知識があるわけでもない人が組織の順番で教授になったりするのだと思う。凡庸な人が組織に残りやすいのでこういう結果になる。
考えてみれば、大学の教授というのは難しい職業だ。自分の研究もあるし、学生への講義もある。講義に費やせる時間は、これだけでも半分になる。つまらないのも当然だろう。そして、自身の研究も半分だとしたら、ろくな研究もできないだろう。どうやら、まともな「頭」が作られるシステムではないような気がする。今日の、アホな医者、教師、教授、政治家、司法、警察、官僚が生まれるのももっともだということだ。どうやって勉強していいのかわからない人間が、同じくよくわからない教授に「教えてもらう」のだから何も生まれないだろう。上げ底で卒業しても実力までは偽装できない。この国の今の不幸は、ここで生まれていると私は思っている。
勉強の原点は、単なる好奇心だ。これを持続させるためには、いろんな条件が必要なのだが、基本的には専門的にならなくても「考える」ことはできる。誰もが論理的に考え、もっと専門的にやりたければ、やれるシステムを作ればいいだけのことだ。書籍であったり、大学の公開講座であってもいい。京大のYoutubeのようなものであって悪いわけがない。いい講義というものは普遍的なものだ。素人にも通用するものだ。
大学受験をめぐっては、「利権」があるので簡単には変えることはできない。悲観的な予測では、「永遠に」変わらない。道路の利権と同じで、既にそこに群がる団体や企業がいて政治をコントロールしているのだ。国家としては、受験産業をつぶしてまで大学を改革するメリットは無いと考えているようだ。
それだけに、大学が積極的に自身から情報を発信することは望ましいことだ。そして、それこそが大学の再生につながる唯一の道だと思う。大学卒業証書が就職の免罪符となって久しいが、その動きと連動して大学の権威も揺らいできた。大学がたいした研究をしていないのだ。今後もその大きな流れは変わらないだろうが、大学の動き次第では大学が独自の価値を持つようになるかもしれない。
かつて大学へ行って本物の勉強をすることを熱望した一人として大学が変わることを期待したい。変わるにしても、良く変わることを。
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