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私の浪人生活は、4年間も続いたが、実質は2年で終わっていたとみるべきだと思う。
最初の1年は高校が面倒を見てくれる、「補修科」で過ごした。2年目は、1つ下の学年の生徒と共に過ごした。やはり、面識の無い連中と一緒というのは非常に恥ずかしいものがあった。3年目は、この補修科の実力試験だけを受けさせてもらうというコースにした。もちろん、講義を受けるのも自由だったが単に恥ずかしかっただけだと思う。
実は、3浪ともなるとさすがの私も異常事態であることは認識していた。親だけは、支援してくれたが、兄貴をはじめ、周囲の人々の意見は手厳しいものがあった。これで終わらせたいという思いから、駿台予備校に行くつもりだった。手続きもして受験費用の5千円も送っていた。3浪とはいえ、私はやる気満々だった。
だが、ある時、母から申し訳なさそうに「お金が無い」ということを告げられ私の計画は断念せざるを得なくなった。私でさえもお金が無いと言われれば、即、諦めなければならないことはわかっていたのだろう。必然的に、高校にお世話になるはめになったのだが、たぶん、見栄もあって講義だけは行きたくなかったのだろう。複雑な心境なので自分でも思い出せないくらいなのだ。
この時の私の落胆はたぶん、経験した人にしかわかってもらえないだろう。既に5千円を送ったという事実、それが無駄になったということ、そしてそれよりも駿台には行けないという現実がなかなか受け入れられなかったのだ。当時の事情では、京都か大阪に行くしかなく、そうなると大学へ行くのと同じくらいの費用がかかるのであった。
そして、4浪を迎えた春のことだった。それまで、唯一、味方であった母もかばいきれなくなったようだった。私から父に直接、「お願い」することになったのだ。私もあまり口をきかない父とこんな話をするのも照れくさかったのだが、「あと1年」ということで許しを請うたのだった。父は、きょとんとした顔で「1年で済むんか。」と聞いていたと思う。私は、いずれにせよ「1年で終わらせる」と話した。
合格すれば、もちろん大学だが、失敗しても社会に出て働く覚悟だった。受験生にしてみれば、その判断は簡単ではないのだが、私は何とか決断するつもりだった。3浪から4浪にかけていろんなことが起こった。3浪の時には祖父が亡くなった。私を救ってくれた命の恩人なのだが、私ときたら、罰当たりにも「それどころではない」という心境だったのを覚えている。
ある時、父の仕事の関係で大学の関係者が私を受け入れてもいいと言ってくれた、ということを父から聞いたことがある。冗談だったのか本気だったのか知らないが、私立大学なのであり得ない話でもなかったと思う。大学ならどこでもいいという心境なら願ってもないことだろうが、私はそうではなかったので受け入れられるはずもなかった。今にして思うのだが、この時、別の選択をしていたら、また違った人生だったのだろうなと後に思ったことがある。
今では、妙な妥協をしなかったことは良かったと思うようになっている。大学へ行けたとしてもやりたいことではないので続かないと思うからだ。私の性格は私が一番よく知っている。好きなことしかできない性格なのだ。すばしこい人間ならば、合格しやすい大学・学部に首尾良く入り、後に学部を変わるのだろうと思う。そういう制度があるとわかっていても私は、できない性格なのだ。
それにしても、3浪以降の私はいろんな異常体験をした。試験中にあせってしまい、手が震えて動かなくなるという書痙という現象も体験した。共通一次で問題を1問丸ごとやり忘れるというミスを犯したのだった。これを終了10分くらい前に気がつき、あせってそうなったのだ。
自分が自分でないような離人症というような経験もした。現役の時代から数えるといったい何校不合格になったろうか。毎年、3月、浪人が確定してから新学期が始まるまでの間、悶々とした日々を過ごすのだが、その時の脱力感も大きかった。うつの始まりでもあった。年中胃痛に悩まされ、吐き気もあった。おまけに私の肛門は傷つき、切れ痔の薬を欠かすことができなかったくらいだ。
3浪の時だと思うが、この時もピンチだったが幸運にも行動を起こすには元気が無さ過ぎた。つまり、自転車でよく移動していたのだが、側を10トン車が猛スピードで通れば普通は恐ろしいと思うのだが、当時は、ひき殺してくれたらそれはそれで楽だなと思っていたのだ。3浪は、始まりがそもそも予備校の件もあり二重の落胆だった。1年間、ぼーとして過ごしていたと思う。
これでは、本当におかしくなると思ったのか、一日に1度は繁華街に出かけたり、テレビドラマ、ドキュメンタリーをやたらに見ていた。何からでも情報を得たいという気持ちだったように思う。同時に、受験勉強が既に興味の対象から外れつつあったのだと思う。
この時期、自分は精神分裂病になるのではないのかと心配していたのだが、私の誤解もあって、その心配は消えた。現在では、統合失調症と呼ばれているこの症状は、実際の所よくわかっていないというのが本当のところだと思う。医者が薬を無茶に処方するのでいろんな症状が出ているだけだと私は見ている。私が誤解したというのは、当時読んだ本には精神的に弱った状態が発展して精神分裂病になることはないと書いてあったからだ。今は、そんなことはないと思っている。病気になるのではなく、不安は増す一方だということだ。医者は、病名を付けないとお金にならないので「~病」と言っているだけで実態を把握していない。
4浪は、最後の年、ということもあり淡々と過ごしていたと思う。体調は良くはないものの、離人感や死んでもそれはそれでかまわないというような厭世観のようなものは薄れていた。とにかく、奇跡でも何でもいいから行きたいところに行けたらいいという思いだった。しかし、奇跡は起こるはずもなかった。街で高校の教師に偶然、出くわすということもあった。高校に出てこい、というようなことを言うので「もう、高校はいらない」と言った。
その教師は、高校で私のことを悪く言っていたと思う。既に私は有名人になっていたはずだから。まったく合格する見込みも無いのに何年も浪人する者がいるという風に生徒の前でしゃべっているはずだ。私が現役の頃も同じように「進路指導」の教師に聞いたことがある。その頃は、まるで人ごとのように聞いていたと思うが。
高校の「進路指導」というのは単に持ち点がいくらだから、あんたはどこへ行けるよ、ということを「指導」するだけだ。私のようにどこへ入って何をしたいと言う人間は、もうそれだけで「キチガイ」扱いだった。しかも、点数が出せていない私は教師から見れば完璧な狂人だったのだ。
それだけに、2浪の時に出会った恩師は、今でも私の心の師だ。彼は、その他の教師と違い、持ち点がいくらだから、あんたはここ、ということを最後まで言わなかった。進路指導をする教師として不適格だろうか。いや、この先生こそが本来のやるべき事をやっている教師と言うべきなのだ。私を最後まで励ましつつ、頑なな私に私立大学を受けることをすすめたのだった。教師のできることと言えば、そこまでなのだ。
私がこれまでの人生で最もつらかったのは、この4年間だ。もちろん、自業自得であり、大半の人には何が苦しいのか訳がわからないといったところだろうか。親の金でいい気なものだと思うだろう。それから、今の時代、よほど大学を選ぶのでなければ普通に合格はできるという意見もよく聞く。
最後の疑問には、こう答える。大学へは学問をやりに行くのであって、「大学へ行く」のではないということだ。確かに適当に行っても卒業はできるし、その方が就職にも有利だ。それができればどんなに楽だったろう。そして、「浪人」は、なかなかつらい稼業であることを再確認するべきだろう。何をやりたいのかはっきりしている場合、行きたい大学・学部が優先される。そうなると、年1回の試験がすべてなのだ。何年待とうが、入れない人は入れないのだ。「自業自得」とはいえ、なかなか厳しい試練だと言える。
私は、結局、この試練から脱落してしまったが、本当のところはまだ諦めていない。やはり、今でも大学で研究してみたいという思いはある。しかし、結果は同じ事だろうと思う。もしも、大学受験制度がガラリと変わり、無試験に近くなれば私も合格可能かもしれない。浪人生にとって大学を諦めるなどということは、ほとんど死に近い。私が、本当につい最近までこのことを考えると気も狂わんばかりだったのはウソではないのだ。
最初の1年は高校が面倒を見てくれる、「補修科」で過ごした。2年目は、1つ下の学年の生徒と共に過ごした。やはり、面識の無い連中と一緒というのは非常に恥ずかしいものがあった。3年目は、この補修科の実力試験だけを受けさせてもらうというコースにした。もちろん、講義を受けるのも自由だったが単に恥ずかしかっただけだと思う。
実は、3浪ともなるとさすがの私も異常事態であることは認識していた。親だけは、支援してくれたが、兄貴をはじめ、周囲の人々の意見は手厳しいものがあった。これで終わらせたいという思いから、駿台予備校に行くつもりだった。手続きもして受験費用の5千円も送っていた。3浪とはいえ、私はやる気満々だった。
だが、ある時、母から申し訳なさそうに「お金が無い」ということを告げられ私の計画は断念せざるを得なくなった。私でさえもお金が無いと言われれば、即、諦めなければならないことはわかっていたのだろう。必然的に、高校にお世話になるはめになったのだが、たぶん、見栄もあって講義だけは行きたくなかったのだろう。複雑な心境なので自分でも思い出せないくらいなのだ。
この時の私の落胆はたぶん、経験した人にしかわかってもらえないだろう。既に5千円を送ったという事実、それが無駄になったということ、そしてそれよりも駿台には行けないという現実がなかなか受け入れられなかったのだ。当時の事情では、京都か大阪に行くしかなく、そうなると大学へ行くのと同じくらいの費用がかかるのであった。
そして、4浪を迎えた春のことだった。それまで、唯一、味方であった母もかばいきれなくなったようだった。私から父に直接、「お願い」することになったのだ。私もあまり口をきかない父とこんな話をするのも照れくさかったのだが、「あと1年」ということで許しを請うたのだった。父は、きょとんとした顔で「1年で済むんか。」と聞いていたと思う。私は、いずれにせよ「1年で終わらせる」と話した。
合格すれば、もちろん大学だが、失敗しても社会に出て働く覚悟だった。受験生にしてみれば、その判断は簡単ではないのだが、私は何とか決断するつもりだった。3浪から4浪にかけていろんなことが起こった。3浪の時には祖父が亡くなった。私を救ってくれた命の恩人なのだが、私ときたら、罰当たりにも「それどころではない」という心境だったのを覚えている。
ある時、父の仕事の関係で大学の関係者が私を受け入れてもいいと言ってくれた、ということを父から聞いたことがある。冗談だったのか本気だったのか知らないが、私立大学なのであり得ない話でもなかったと思う。大学ならどこでもいいという心境なら願ってもないことだろうが、私はそうではなかったので受け入れられるはずもなかった。今にして思うのだが、この時、別の選択をしていたら、また違った人生だったのだろうなと後に思ったことがある。
今では、妙な妥協をしなかったことは良かったと思うようになっている。大学へ行けたとしてもやりたいことではないので続かないと思うからだ。私の性格は私が一番よく知っている。好きなことしかできない性格なのだ。すばしこい人間ならば、合格しやすい大学・学部に首尾良く入り、後に学部を変わるのだろうと思う。そういう制度があるとわかっていても私は、できない性格なのだ。
それにしても、3浪以降の私はいろんな異常体験をした。試験中にあせってしまい、手が震えて動かなくなるという書痙という現象も体験した。共通一次で問題を1問丸ごとやり忘れるというミスを犯したのだった。これを終了10分くらい前に気がつき、あせってそうなったのだ。
自分が自分でないような離人症というような経験もした。現役の時代から数えるといったい何校不合格になったろうか。毎年、3月、浪人が確定してから新学期が始まるまでの間、悶々とした日々を過ごすのだが、その時の脱力感も大きかった。うつの始まりでもあった。年中胃痛に悩まされ、吐き気もあった。おまけに私の肛門は傷つき、切れ痔の薬を欠かすことができなかったくらいだ。
3浪の時だと思うが、この時もピンチだったが幸運にも行動を起こすには元気が無さ過ぎた。つまり、自転車でよく移動していたのだが、側を10トン車が猛スピードで通れば普通は恐ろしいと思うのだが、当時は、ひき殺してくれたらそれはそれで楽だなと思っていたのだ。3浪は、始まりがそもそも予備校の件もあり二重の落胆だった。1年間、ぼーとして過ごしていたと思う。
これでは、本当におかしくなると思ったのか、一日に1度は繁華街に出かけたり、テレビドラマ、ドキュメンタリーをやたらに見ていた。何からでも情報を得たいという気持ちだったように思う。同時に、受験勉強が既に興味の対象から外れつつあったのだと思う。
この時期、自分は精神分裂病になるのではないのかと心配していたのだが、私の誤解もあって、その心配は消えた。現在では、統合失調症と呼ばれているこの症状は、実際の所よくわかっていないというのが本当のところだと思う。医者が薬を無茶に処方するのでいろんな症状が出ているだけだと私は見ている。私が誤解したというのは、当時読んだ本には精神的に弱った状態が発展して精神分裂病になることはないと書いてあったからだ。今は、そんなことはないと思っている。病気になるのではなく、不安は増す一方だということだ。医者は、病名を付けないとお金にならないので「~病」と言っているだけで実態を把握していない。
4浪は、最後の年、ということもあり淡々と過ごしていたと思う。体調は良くはないものの、離人感や死んでもそれはそれでかまわないというような厭世観のようなものは薄れていた。とにかく、奇跡でも何でもいいから行きたいところに行けたらいいという思いだった。しかし、奇跡は起こるはずもなかった。街で高校の教師に偶然、出くわすということもあった。高校に出てこい、というようなことを言うので「もう、高校はいらない」と言った。
その教師は、高校で私のことを悪く言っていたと思う。既に私は有名人になっていたはずだから。まったく合格する見込みも無いのに何年も浪人する者がいるという風に生徒の前でしゃべっているはずだ。私が現役の頃も同じように「進路指導」の教師に聞いたことがある。その頃は、まるで人ごとのように聞いていたと思うが。
高校の「進路指導」というのは単に持ち点がいくらだから、あんたはどこへ行けるよ、ということを「指導」するだけだ。私のようにどこへ入って何をしたいと言う人間は、もうそれだけで「キチガイ」扱いだった。しかも、点数が出せていない私は教師から見れば完璧な狂人だったのだ。
それだけに、2浪の時に出会った恩師は、今でも私の心の師だ。彼は、その他の教師と違い、持ち点がいくらだから、あんたはここ、ということを最後まで言わなかった。進路指導をする教師として不適格だろうか。いや、この先生こそが本来のやるべき事をやっている教師と言うべきなのだ。私を最後まで励ましつつ、頑なな私に私立大学を受けることをすすめたのだった。教師のできることと言えば、そこまでなのだ。
私がこれまでの人生で最もつらかったのは、この4年間だ。もちろん、自業自得であり、大半の人には何が苦しいのか訳がわからないといったところだろうか。親の金でいい気なものだと思うだろう。それから、今の時代、よほど大学を選ぶのでなければ普通に合格はできるという意見もよく聞く。
最後の疑問には、こう答える。大学へは学問をやりに行くのであって、「大学へ行く」のではないということだ。確かに適当に行っても卒業はできるし、その方が就職にも有利だ。それができればどんなに楽だったろう。そして、「浪人」は、なかなかつらい稼業であることを再確認するべきだろう。何をやりたいのかはっきりしている場合、行きたい大学・学部が優先される。そうなると、年1回の試験がすべてなのだ。何年待とうが、入れない人は入れないのだ。「自業自得」とはいえ、なかなか厳しい試練だと言える。
私は、結局、この試練から脱落してしまったが、本当のところはまだ諦めていない。やはり、今でも大学で研究してみたいという思いはある。しかし、結果は同じ事だろうと思う。もしも、大学受験制度がガラリと変わり、無試験に近くなれば私も合格可能かもしれない。浪人生にとって大学を諦めるなどということは、ほとんど死に近い。私が、本当につい最近までこのことを考えると気も狂わんばかりだったのはウソではないのだ。
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