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桜は、まだ残っているが花見気分が出るほどではない。毎年、撮っているサクランボを撮っておいた。これが、夏までにかわいらしい赤色に染まる。
鳥越俊太郎が、桜の季節を評して、「あと何年、この風景を見られるだろうか。」と思うと言っていた。さすがに私は、そんなことは思わないのだが、確実に「その時」は来る。認識するかどうかの違いだろうか。
とりあえず仕事は続けているので、自分は何で生きているのかとかは、あまり考えないのだが、浪人時代は毎日のように考えていた。「受験勉強」が仕事でそれ以外することを許されない期間だったから。私自身の自主規制もあって、新書とか文庫とかも極力避けていたように思う。
今やっている仕事は、もう13年間続けているので、手慣れたものだが、「仕事が楽しくて仕方がない」という類のものではない。時におもしろいこともあるのだが、多くは既に経験があり、「面倒だ」ということだけはハッキリしているという種類の仕事だ。それだけに数年前から、興味を失わないための月謝も払ってきた。毎日のように本を購入して読むこと、ゲームなど遊びにも手を出すことだった。
もちろん、それらもそれなりに効果はあって、何もしないよりはマシだったと思う。しかし、それでもさらに何か燃えるものが欲しいというのが今の私の偽らない心情だ。組織を作り、金を儲けるだけでは少しもうれしくないのだ。もっとも、どちらも実現してはいないのだが。それよりも、失敗から学ぶということを次の世代に伝えることに意義を感じている。遺伝子では伝えられない、経験を伝えたいということ。
この国の官僚がやってきたことは、自己保身の権化のような所行だった。今後、それをどう解体して行くのか、それとも戦前のように破滅まで行くのか誰もわからない。はっきりしていることは、どうしようにも「頭」が無いということだ。破滅の後には何らかの新しい考えができただろうが、もう60年以上経っている。今や、誰もが自分のため、せいぜい子や孫のためだけに生きている。社会のしくみは、政治家がやってくれということだろう。
しかし、教育も政治も医療も司法も防衛も警察も自己保身の組織だ。誰かが何かをやってくれるわけではない。何かを感じ取った人が声をあげて浸透させて行く以外にないのだ。私は、そういう仕事を起こしたいと思っている。仕事になるのかどうかが問題なのだが、最初から諦めていては、当然、成功することは無い。希望を持ってやってみるつもりだ。私も数々の失敗を犯してきたのだが、取り返しのつかないものはまだ無い。
確かに、浪人の4年を返してくれと言ってみてもその声は、空しく谺するだけなのだが。あえて強がりを言うならば、浪人の経験さえも「こやし」と考えたい。20代の大半をアルバイトに費やしたことも大きな浪費だったかもしれないのだが、先の浪人生活からのリハビリに、無くてはならなかった時間だった。それに、私は偶然も味方してくれて重要な時に重要な人に出会い、助けられて生きてきた。それは、これからも変わらないことだと思っている。
私が、前向きに生きる以上、私と共に仕事をしてみたいと思う人は1人くらいいるはずだ。仲間もそうだ。私は、そういう人と共に戦前の人ができなかった失敗に学ぶ生き方を実践してみたい。それは、学ぶことであり、学ぶにしてもうまく学ぶことだ。そう考えると少し、元気が出てくる。
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