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就職活動だが、全敗だった。(; ̄ェ ̄)
一番大きそうな所だけが、ありきたりのメールをいかにも検討したかのように遅れて返してきたのみ。有名な企業でも返事すら無い。礼節を欠くのは当然としても、余裕が無い、うまく行っていないというのが明白なようなという判断で良さそうだ。ただ、映像ものの企画は、やりたかっただけに残念だった。というのもそのビデオを見ると不思議と頭に入るからだった。こういうものを生かさない手はない。つぶれない会社で、つまり国費でやりたいものだ。
風呂に入りながら考えたが、やはり私が何とか早く復帰しないとと思う。元に戻らないかもしれないが、昔のようにやれたらと思う。お袋も元気が出るだろう。私が遊び人ならば、このままでいいのだが、どんどんやりたい人間なので余計に口惜しい。
だが、今日のところは体調も回復して来たし、まずはそれを喜ぼう。動けるだけでも幸せに感じた。ものの考え方も前向きになれた。明日からまた挑戦だ。( ̄(工) ̄)
一番大きそうな所だけが、ありきたりのメールをいかにも検討したかのように遅れて返してきたのみ。有名な企業でも返事すら無い。礼節を欠くのは当然としても、余裕が無い、うまく行っていないというのが明白なようなという判断で良さそうだ。ただ、映像ものの企画は、やりたかっただけに残念だった。というのもそのビデオを見ると不思議と頭に入るからだった。こういうものを生かさない手はない。つぶれない会社で、つまり国費でやりたいものだ。
風呂に入りながら考えたが、やはり私が何とか早く復帰しないとと思う。元に戻らないかもしれないが、昔のようにやれたらと思う。お袋も元気が出るだろう。私が遊び人ならば、このままでいいのだが、どんどんやりたい人間なので余計に口惜しい。
だが、今日のところは体調も回復して来たし、まずはそれを喜ぼう。動けるだけでも幸せに感じた。ものの考え方も前向きになれた。明日からまた挑戦だ。( ̄(工) ̄)
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向こうでは、野心がある方が評価されるというのを海外のドラマで見ることができるのだが我が国ではどうか。自分はこんなことができるのだが、買ってもらえないか的な売り込みをしてもとんと反応は無い。やはり、今や、儲かることしか興味はないのだろうか、この国の企業は。
私としては、ややこしいデータをわかりやすく表現することに魅力を感じている。そんな仕事はないものか。
結局、そういうものは辞書的なデータであり、出版関係が近い。他には映像関係でもあるにはあるが、映像と結びつけるということで少し勝手は違ってくる。たとえば、赤影の検索をするにしても映像そのものを検索することはできない。やはり、人間が何かマークを入れない限り不可能だ。文章と映像を関連づけるとしても、時間で呼ぶのかなというくらいだ。
先日、話をしていて出版社におけるデジタルの意味とは、ズバリ補完だと悟った。私は「売れないものは作らない」としてお払い箱になったわけだが、それまでは紙の本では売れないのでデジタル化をお願いできるか、という依頼だったわけだ。そして、それは成功してきた。しかし、必要無くなるとすぐにその関係を忘れ、売れないものは作らないと言い出す。まさに、手柄で仕事をしている連中らしい発想だ。
出版社では、ほとんど役職というのはあって無いようなもの。売れたかどうかで評価される。当然、売れたら「おれの手柄」ということになる。デジタル化で助けられたことなどどこ吹く風、となるのだろう。わからないのでなおさらのこと。そういうのを目の当たりにしたこともある。
おもしろいことに理解していない出版社、あるいはその中の担当者は逆に考える。売れないから作らないとなるのだ。では、紙の本は売れているのかというとサッパリだ。考えてみると私の企画というのも広い意味での補完だ。これまで紙でしか展開したことのないものをデジタル化することで新たな需要を切り開こうというもの。単純なようで斬新な営為だったのではないか。
これから先もいい展開があるとは思えないが、なんといってもデジタル化と文字の相性の良さは消えることはない。わからない相手には実物を見せるしかない。時間はかかるが私の挑戦は続ける。時間はあまり無いのだが、その方がはりがあっていいかもしれない。
私としては、ややこしいデータをわかりやすく表現することに魅力を感じている。そんな仕事はないものか。
結局、そういうものは辞書的なデータであり、出版関係が近い。他には映像関係でもあるにはあるが、映像と結びつけるということで少し勝手は違ってくる。たとえば、赤影の検索をするにしても映像そのものを検索することはできない。やはり、人間が何かマークを入れない限り不可能だ。文章と映像を関連づけるとしても、時間で呼ぶのかなというくらいだ。
先日、話をしていて出版社におけるデジタルの意味とは、ズバリ補完だと悟った。私は「売れないものは作らない」としてお払い箱になったわけだが、それまでは紙の本では売れないのでデジタル化をお願いできるか、という依頼だったわけだ。そして、それは成功してきた。しかし、必要無くなるとすぐにその関係を忘れ、売れないものは作らないと言い出す。まさに、手柄で仕事をしている連中らしい発想だ。
出版社では、ほとんど役職というのはあって無いようなもの。売れたかどうかで評価される。当然、売れたら「おれの手柄」ということになる。デジタル化で助けられたことなどどこ吹く風、となるのだろう。わからないのでなおさらのこと。そういうのを目の当たりにしたこともある。
おもしろいことに理解していない出版社、あるいはその中の担当者は逆に考える。売れないから作らないとなるのだ。では、紙の本は売れているのかというとサッパリだ。考えてみると私の企画というのも広い意味での補完だ。これまで紙でしか展開したことのないものをデジタル化することで新たな需要を切り開こうというもの。単純なようで斬新な営為だったのではないか。
これから先もいい展開があるとは思えないが、なんといってもデジタル化と文字の相性の良さは消えることはない。わからない相手には実物を見せるしかない。時間はかかるが私の挑戦は続ける。時間はあまり無いのだが、その方がはりがあっていいかもしれない。
先週出しておいた提案だが、先ほど返事が来ていて見送りにしました、とあった。会社員なのか、帰る間際に名前を出さないように、余計な情報は与えないようにメールしたのだなあというのがわかる。もっと話のできる人とここで出会えれば変わっていたかもしれないが、彼の会社もそういう会社になりつつあるのかと思った。予想通りに動いてきたので驚きではないが、残念だった。( ̄(工) ̄)
他を当たるしかないのだが、なかなか難しい。この十数年がんばってきたことが何の経歴にもならないのが虚しい。皆が同じようなことができるのならば、そうかと思うのだが、現実にはそんなことはなく、何一つわからない者が決めている現実。東京を離れる条件はこうしてどんどん整いつつある。抵抗したくもあり、このまま何もしない方がいいという考えもある。この土日で、また考えよう。
他を当たるしかないのだが、なかなか難しい。この十数年がんばってきたことが何の経歴にもならないのが虚しい。皆が同じようなことができるのならば、そうかと思うのだが、現実にはそんなことはなく、何一つわからない者が決めている現実。東京を離れる条件はこうしてどんどん整いつつある。抵抗したくもあり、このまま何もしない方がいいという考えもある。この土日で、また考えよう。
大部な全集には索引巻というものが付く。紙の本しか無い時代にはこういうものが必須だったのだろう。いちいち中身を開かなければ目的にたどり着けないのでは時間がいくらあっても足りない。私が全集を手にする度に興奮するのは、これをデジタル化できたら、という思いからだ。私がそういう思いに駆られるほど、大部な全集のデジタル化というのは無い。
今、片付けながら、それらを再確認している。索引とは文字通り索引で、キーワードと巻数とノンブルの羅列でしかない。今の時代であっても紙の全集を出す場合には必要で、おもしろくなくとも付けないといけないものなのだろう。もちろん、デジタル化する際には不要となる。索引はデータベースが受け持つからだ。紙のものよりずっと賢いものが付く。
私もやるとなったら本気でやるもんで去年から7つもの全集を購入している。全部古本だが、荷造りに大変だ。かさばるので売るということも考えられるが、まだ諦めきれないでいるのでひとまず持ち帰る予定だ。むろん、ここで役に立てば幸運なのだが。いや、それを願っている。誰かが骨を折らないとデジタル化というのは無理で、どうしても焼き直しだけに終わる。私はあえて火中に飛び込もうとしているわけだ。大局的には、これも子供たちのためと言えなくもない。今の大人が骨を折らなければ、伝えることができないのだ。
何巻にも及ぶ本は何が不便かと言うと、その重さや場所をとる様だ。ちょっと置くにも置く場所が無いというのが今日の常識だろう。そうこうしている間に仕事が忙しく、忘れてしまうというのが私のよくやるパターンだ。今は暇でもなかなか読む時間は無い。結局、大部な全集を読んだりできるのは、学生かリタイアした人以外は難しいというのが結論だ。大半の人にとって文学全集とか歴史全集とかは辞書的に使えるだけだ。その際に、紙のままでは使えないのでデジタル化を、というのが私の主張だったのだが、返ってきた返事は、よそでどうぞというものだった。
そしてそのようにしているのだが、もちろん、そんなに簡単に見つかるわけがない。今の私ならこのつらいだけの仕事を楽しくする自信はある。年輩の協力者もいる。恩師にも協力を依頼したいくらいだ。
今、片付けながら、それらを再確認している。索引とは文字通り索引で、キーワードと巻数とノンブルの羅列でしかない。今の時代であっても紙の全集を出す場合には必要で、おもしろくなくとも付けないといけないものなのだろう。もちろん、デジタル化する際には不要となる。索引はデータベースが受け持つからだ。紙のものよりずっと賢いものが付く。
私もやるとなったら本気でやるもんで去年から7つもの全集を購入している。全部古本だが、荷造りに大変だ。かさばるので売るということも考えられるが、まだ諦めきれないでいるのでひとまず持ち帰る予定だ。むろん、ここで役に立てば幸運なのだが。いや、それを願っている。誰かが骨を折らないとデジタル化というのは無理で、どうしても焼き直しだけに終わる。私はあえて火中に飛び込もうとしているわけだ。大局的には、これも子供たちのためと言えなくもない。今の大人が骨を折らなければ、伝えることができないのだ。
何巻にも及ぶ本は何が不便かと言うと、その重さや場所をとる様だ。ちょっと置くにも置く場所が無いというのが今日の常識だろう。そうこうしている間に仕事が忙しく、忘れてしまうというのが私のよくやるパターンだ。今は暇でもなかなか読む時間は無い。結局、大部な全集を読んだりできるのは、学生かリタイアした人以外は難しいというのが結論だ。大半の人にとって文学全集とか歴史全集とかは辞書的に使えるだけだ。その際に、紙のままでは使えないのでデジタル化を、というのが私の主張だったのだが、返ってきた返事は、よそでどうぞというものだった。
そしてそのようにしているのだが、もちろん、そんなに簡単に見つかるわけがない。今の私ならこのつらいだけの仕事を楽しくする自信はある。年輩の協力者もいる。恩師にも協力を依頼したいくらいだ。
人生は選択の連続であり、間違えると死さえ呼ぶものであることは、ある程度生きるとわかってくる。私の場合、十数年前の選択が正しいものだったのかどうかは分からない。ただ、楽しかったというのはあったと思う。こちらに来て長らく一緒に仕事をした担当と別れたのであった。しかし、仕事は同じようなことが既に決まっていて私にしては余裕のある選択だった。
そこに深い戦略とかが無かったのでやがて新しい相手とも衝突することになる。じっくりと時間をかけて相手を見極め、逆に指導する立場であるべきだった。実際にそういう関係だったのだから。結局、ある時期仲直りして今に至っているが、今の私の窮状を救うような動きはしてはくれない程度の付き合いだ。実は今でもある程度の付き合いはあるが、それだけのことで深い仕事の付き合いではない。そうするには、会社の中での立場が弱い人なのだろうと思う。
この時の私の選択は間違いかどうかということよりも、私は浮かれていたというのを思い出す。地に足が着いていなかったと思う。そのことがいろんな批判やら妬みを買ったことだろうと思う。若いというよりは軽率だった。もっともっと仲間を増やすということが必要だったのではないかと思っている。(^_^;)
結果的に私たちの仕事の中身はさして評価されることなく瓦解して行くことになる。わが社のみならず、先方の会社の中でも評価されない組織に成り下がったようだった。言うまでもなく難しすぎて理解できないということもあるだろう。説明してもわからない連中ばかりだった。それは、要らないということになるのだった。
最後まで同じ空間で仕事をしていた連中は、ものも言わずに去って行った。別の仕事であり、別の会社であるにしても異常な感じを受けたが、彼らからすれば私の存在などそんなものだったのだろう。彼らがおかしいというよりも私の器の小ささを恥じるべきだろう。一緒にいた期間は長いだけに私には奇異に思えた。その人も経営者、私も経営者だった。人材が育たない会社の経営者という意味では同じようなものだった。私には経営の才が無いことは明らかだが、人をうまく使えないという致命的な汚点もある。これではうまく行くはずも無い。
次の選択はどんなものになるか。今は、待っていたり、探していたりの日々だ。
そこに深い戦略とかが無かったのでやがて新しい相手とも衝突することになる。じっくりと時間をかけて相手を見極め、逆に指導する立場であるべきだった。実際にそういう関係だったのだから。結局、ある時期仲直りして今に至っているが、今の私の窮状を救うような動きはしてはくれない程度の付き合いだ。実は今でもある程度の付き合いはあるが、それだけのことで深い仕事の付き合いではない。そうするには、会社の中での立場が弱い人なのだろうと思う。
この時の私の選択は間違いかどうかということよりも、私は浮かれていたというのを思い出す。地に足が着いていなかったと思う。そのことがいろんな批判やら妬みを買ったことだろうと思う。若いというよりは軽率だった。もっともっと仲間を増やすということが必要だったのではないかと思っている。(^_^;)
結果的に私たちの仕事の中身はさして評価されることなく瓦解して行くことになる。わが社のみならず、先方の会社の中でも評価されない組織に成り下がったようだった。言うまでもなく難しすぎて理解できないということもあるだろう。説明してもわからない連中ばかりだった。それは、要らないということになるのだった。
最後まで同じ空間で仕事をしていた連中は、ものも言わずに去って行った。別の仕事であり、別の会社であるにしても異常な感じを受けたが、彼らからすれば私の存在などそんなものだったのだろう。彼らがおかしいというよりも私の器の小ささを恥じるべきだろう。一緒にいた期間は長いだけに私には奇異に思えた。その人も経営者、私も経営者だった。人材が育たない会社の経営者という意味では同じようなものだった。私には経営の才が無いことは明らかだが、人をうまく使えないという致命的な汚点もある。これではうまく行くはずも無い。
次の選択はどんなものになるか。今は、待っていたり、探していたりの日々だ。